序章ー参

 つくえの前に座り直して、今さっきまで向き合っていた半紙を見る。墨で描いてあったはずの小鬼の絵はなく、真っ白な画面が広がっているだけだ。


「……なんでこうなってしまうのかしら……」


 莉美の悩みは、『自らが右手で描いた絵に生命が宿ってしまう』ことだ。

 彼らは莉美の意志とは関係なく紙から飛び出してくる。生命を生み出す力を持ってしまった理由も、制御する方法もいまだわからない。


「いつになったら、この力は落ち着いてくれるの?」


 この能力を莉美はずっと隠し続けてきていた。しかし、母親亡き後、追い出されそうになったため、正直に右手の秘密を範家の当主に話した。

 稼ぎ頭だった母がいなくなったことが、痛手だったのを知っていたからだ。母の名前を伏せて売り出していたなど、顧客に対して口が裂けても言えない。


 切羽詰まっていた彼らは、自分たちの能力を磨くことを怠り、母よりももっと売れる絵が描ける人材を求めていた。だからこそ、莉美の能力にすぐさま飛びついた。

 下働きに徹していた彼女をお得意先に連れ出して、当主の目前で絵を描かせる余興をしたのだ。


 しかし、当主に言われて描いた猿の絵は、命を持って紙から飛び出してくると、屋敷中を飛び回ってしまった。最後には当主に引っかき傷を負わせ、以来、範家はその貴族宅には立ち入り禁止だ。

 その後はひどい折檻を受けたが、莉美は特殊な能力を範家の若旦那に見込まれ、制御する条件のもと家にいることを許されている。


 だが、約一年半経つがいまだに自分の絵を上手く扱えていない。

 ついに妓楼に売られそうになったため、今度こそ素晴らしい絵を披露すると言い張って未州の得意先まで行商に連れてきてもらった。一昨日到着し、今はその商家に泊めてもらっている。


 母の絵を気に入っていたという商人の家で、盛大な宴が行われるのは明日の夜。莉美はそこで、余興として動く絵を描くことになっている。それまでに、どうにかしてうまく絵を自分の支配下に置かなくてはならない。

 莉美は気持ちを新たに座り直し、別の『鬼』を描こうとしたのだが、筆を持つ手がぶるぶる震えて手を引っ込めた。


「もう失敗できないのに……」


 だが、恐怖が勝ってしまい筆を握ることができなかった。

 外を見れば、もう下餔かほ(だいたい十六時頃)のようだ。耳をすませば、前夜祭なのか宴を楽しむ本宅からのにぎやかな喧騒がわずかに聞こえてくる。

 今日はもう終いにしようと、半分落ち込みながら片づけを済ませて小屋の外へ出た。空はからりと晴れ渡っており、冬がもうすぐ終わるようなうららかな気配がしている。


 手洗い場に向かうと、水を汲んで手を洗う。真っ黒になっているだろう顔を洗おうとしたところで、莉美を呼ぶ声が聞こえた。

 返事をすると、ひょろりとした体躯の青年――範家の長子である若旦那がやってくる。


「若様」


 莉美はすぐさま揖拝するが、墨まみれの真っ黒な顔に気付かれてしまったようだ。彼が早足で駆けつけてくる。


「また失敗してしまったのかい?」


 答えないでいると、若旦那は懐から布を取り出して桶に放し、水を吸わせてから絞る。程よく濡れた布で、莉美の汚れた顔を優しく拭きとり始めた。


「明日のことが不安なんだね。大丈夫、莉美ならできるさ」


 使用人でさえ莉美のことを邪険にして冷たく扱ってくる中、彼だけはいつでも優しい。この家にいられる機会をつないでくれたのも彼だ。

 使用人たちよりも狭い部屋に押し込まれ、墨まみれになりながらも日々前向きに過ごせるのは、ひとえに彼への敬愛の念が強かった。

 だから明日は、絶対に失敗できない。彼の顔に泥を塗るようなことはしたくなかった。

 莉美の顔についた墨を拭き終わると、若旦那の手が肩に乗せられた。


「さあ、君もそろそろ夕餉をとりなさい」

「はい」


 小屋に戻ろうとしたところ、定勒が彼女の腕を掴んだ。


「これを忘れているよ」


 忘れ物を莉美にしっかりと握らせると、頭を優しくなでて踵を返していく。

 受け取ったのは革の手袋だ。硬い革で作られ、さらには莉美の瞳の色にも似た赤みの強い黒色の釉薬で固めてある。


 それをじっと眺め、莉美は右手に嵌めた。固い手袋を装着することによって、彼女の右手は動きを制限される。


 いつ、なにを生み出すかわからない莉美にとって、それを嵌めて絵を描かないでいることが、今できる唯一の制御方法だった。

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