第10話

 断ることはできたろうが、伊桜が不憫ふびんだった。


「はい……大丈夫です」

「本当に申し訳ないです。今日中に、ちょっと修正してもらいたいところがあって」


 伊桜のデスクに赴き、画面に映し出された詳細設計書とテーブル定義書を見る。テーブルとは、データベースに保存するデータを整理した表のようなものだ。


 説明された修正内容は、そのテーブルからデータを抽出する際の条件変更だった。幸い、簡単なものだ。


「すぐにできそうですか? ここ、他プロジェクトでも使ってる共通部品で。今日の夜中、ここ含めたバッチのテストするから、どうしても必要らしくて」


 複数のプログラムを順序立ててまとめた記述を、バッチと呼ぶ。あらかじめ作成しておくことで、バッチファイル一つを実行すれば、目的の処理すべてを、正しい順序で簡単に動かすことが可能となる。


 雪葉は「わかりました」と再び自席に座った。パソコンの電源を入れ、開発ソフトを起動し修正を開始する。


 修正自体はすぐに終わった。ローカル環境下でテストし、抽出結果も問題ないか確認する。テスト値を数通り試し、想定外の動きをしないかもテストした。テストというのは、製造の十倍は時間がかかるものだ。非常に重要で、テストを怠れば、本番稼働時に予想外のバグが出る。


 テスト項目書にも、いまテストした項目を追加した。テスト結果の証拠となるエビデンスも、サーバーの所定フォルダに追加する。可能な限り急いだが、二時間はかかってしまった。


「伊桜さん。修正と動作確認、終わりました。テスト項目とエビデンスも、追加しました」

「ありがとうございます。確認します」


 伊桜が確認している間、ひと息つく。急ぎはしたが、冷静には作業したつもりなので誤りはないはずだ。しばらくして伊桜から指示がきた。


「元村さん。問題なかったので、リポジトリに上げてもらえますか」

「わかりました」


 リポジトリには、本開発に関わるすべてのソースコードが管理されている。リポジトリのソースコードを更新すれば、他プロジェクトの人も修正を確認できるということだ。


 伊桜が報告の電話をしている間、雪葉はまだ画面を操作していた。電話を終えたところで、気になる箇所について伊桜へ提言する。


「修正箇所の影響確認も、必要ですよね? あの共通部品、呼び出してるところほかにもあるので」

「あー。何箇所で使ってたっけなぁ」


 必ずあることなのだが、仕様変更は本当に大変だ。システム開発の複雑さをわかっていない顧客ほど、びっくりするような変更を要求してくる。この辺りを調整するのもエンジニアの仕事ではあるが、顧客と直に交渉するのは上位会社のクレセントデータのため、容量は伝達ゲームのように悪い。


「詳細設計書から洗い出すしかないかぁー」

「あ、でも、設計書の修正が間に合ってないソースもあるかも……」

「……うーん……」


 伊桜は眉間のしわを深くする。無理もない。本来、ソースコードは設計書通りに作られるものだ。二つが一致しないということはあってはならない。


 しかし製造過程において、こうしたほうが効率が良いとか、この機能がなければ欲しい結果が得られないとか、詳細設計の時点で予想できなかった問題点が出てくることがある。この場合、顧客と交渉し、設計書を直す必要が出てくるが、大抵許可に時間がかかる。


 するとエンジニアは、期限通りに作業を進めるために、ソースコードのほうを先に修正し、設計書の修正は許可が出た後に回すという、逆の順序で動き出す。この手の問題は現場ではままあり、行き過ぎると設計書の修正確認をとることすら忘れてしまう。


 そうして、実装と設計書が一致しないという、許されざる事態が起きる。


「設計書との差異は、僕のほうで確認していくので……。ひとまず、いま実際に使ってるところ、洗い出してもらえますか? 明日、その一覧を作ってもらおうかな……」

「いま調べて、呼び出し一覧作っちゃいますよ。すぐにわかるので」


 影響範囲の大きさがいまわかったほうが、明日、伊桜も仕事を振りやすいだろう。開発ソフトの機能を使えば、修正した部品を呼び出しているソースコードはすぐにわかる。


 ソースコードファイル名と機能名をセットにして、一覧を作った。体裁を整えてから、共有サーバーに上げ、ファイルパスをメールで伊桜へ送る。


「伊桜さん、一覧作り終わりました」

「ありがとうございます」


 伊桜は画面を見ながら礼をした。メールを開き、一覧を早速確認している。


 今度こそ、雪葉はパソコンの電源を落とした。鞄を肩にかける。あと三十分ほどで終電の時刻だ。自宅の最寄り駅は伊桜も同じなのだから、終電時間も同じはずだ。大丈夫だろうかと、心配してちらりと見ると、伊桜もパソコンの電源を切っているところだった。


「……お先に、失礼します」

「お疲れさまです」


 帰り支度をしている伊桜を残し、先にプロジェクトルームを出た。この時間、表玄関はすでに閉じている。裏口のセキュリティゲートを通り、ビルを出た。


 夜風が頬に当たった。もう、日をまたごうとする時間だ。ビル街の道を歩くのは、残業に疲れたサラリーマンが数名だ。闇にそびえるビル群の窓の灯りは、普段帰る時よりずっと数が少ない。広い二車線道路を通る車もなく、静かだ。


 ほんの九時間後には、またここへ来なければならない。想像すると気が重い。今夜は五時間眠れたらいいほうだろうか。


「――元村さん!」


 道の後方から声がした。伊桜が駆けてきていた。驚く雪葉の横で、伊桜は速度を緩める。


「すみませんでした、こんな遅くなっちゃって。助かりました」

「……いえ」


 伊桜とこうして二人きりになるのは、半月前、オムライスを一緒に食べたあの夜以来だ。次の日、朝に一瞬目が合った時だけ緊張したが、まるで何事もなかったかのように、互いに普段通りに戻っていた。


「元村さん、仕事ほんと早いですよね。丁寧で、誤りもないし」

「いえ、そんなことは! ……間違うことも、あります。早いのだって、もう半年もこの案件に携わっていて、仕様もよくわかっているからなので……」


 退任していく人の担当分を引き継いでもいる。ほかの人が書いたソースコードを勉強させてもらおうと、作業の合間に見ることもある。だからプロジェクトの全容が自然と頭に入ってくる。


「伊桜さんのほうこそ、すごいと思います。もうほとんど仕様理解してるし……途中参加で、いきなり膨大な量の仕様書頭に入れるなんて、私だったら頭パンクしちゃいます」

「それは、ほんと……」


 伊桜は力が抜けるように肩を下げた。


「要件定義から、テスト項目書にエビデンスまで、一応全部目通したから。でも俺も、まだまだ新米だから、それくらいはがんばらないと……PMも初めてだし」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る