第29話 腐れた土壌



 その地はもう既に「土くれ」とも呼べるような代物ではなかった。紫色と腐った緑の色が混ざった泥の海。その海の中を茨が毒を吐きながらゆうるりと行進している。なぜ所々に緑が混じるのか不思議に思った小夜子であったが、目を眇めて見遣り「そんな…」と一言絶句した。毒を吐きながら、己の身体も毒に侵され溶けている。茨同士、互いの棘で傷付き合い、そうして出来た傷に毒は染みて融けて行く。なんて、むごい。

 ガーゴイルと小夜子はその無惨さにしばし言葉を失い、佇んでいた。


 不意に「…ケテ」と云う弱々しい声が聴こえて、小夜子とガーゴイルは目を見合わせた。


「小夜子、何か云ったか?」

「ううん、私は何も云ってないわ」


 小夜子とガーゴイルが逡巡する間にもカタコトの声は四方八方から弱々しく放たれ、それが茨の群生から発せられていると自ずと二人に知らしめた。


「…キュウウ…セ」

「スク…スクて…」

「タレ…誰カ」

「この、苦しミからノ」


 解放ヲ!


 悲痛としか云い様の無いその声色に、小夜子の胸は引き千切られんばかりであった。 


 何故茨ばかりを『悪』と捉えていたのだろう。それは彼らがガァちゃんのあの石像を縛るが如く強引に巻き付いていたせいも多分にあっただろうけれど、彼らもまた被害者なのだ。どれだけの命が生まれ、そしてその身を削って来たのだろうか。その道行が少しでも短かったら良いのにと胸の内で祈りながら、小夜子はガーゴイルを見上げた。


 ガーゴイルの横顔からは鋭いまなこに宿る浅葱色の輝きしか見て取れなかったけれど、その瞳の一見穏やかとも見える薄い青緑の色からは悲哀の感情が滲み出ているようで、小夜子の胸をより一層苦しくさせた。


「小夜子はここで待っていろ」


 そんな小夜子の心情を知ってか知らずかガーゴイルはそう宣い、小夜子と繋ぐ指をそっと離した。

 ああ、途端に不安の虜となる、小夜子は、弱い。「ガァちゃん…?」

 と揺々声を振り絞り、一歩一歩とその身を前進させる彼の人に着いて行こうとする小夜子に「待てと云った」と云う鋭い声が走り、小夜子はビクッと身を強張らせた。


「少し様子を見て来るだけだ、すぐ戻るさ」と、小夜子の頭を優しくポンポンと二度三度叩き、前を見据えたガーゴイルだったけれど、平素なら小夜子を早春の日和のように安らかにさせてくれるその仕草も、小夜子を更なる不安の淵へといざなうばかりであった。


「さて、オレにはお前らが誰に何を救ってもらおうと願っているのか到底分からんのだが、「その身は願って得たモノのはずであろう?何を憂うことがあるのだ」


 途端、茨の群生からワラワラとした声が立ち上ったけれど、それらは既に言の葉としての機能を発揮させず、ただ悪戯に毒の臭気を彼の地に舞い上がらせるばかりであった。

「さてと…」

 ざっと周りを見回したガーゴイルは一瞬ヨナルテパズトーリの身を侵した毒気に気を逸らせたが、小夜子の身を穢すよりずっと良いと、その一足をじくじくとした泥の沼地へと無意識のうちに躊躇しながらも踏み出した。


 じくり。


 じくじくと知った疼きが踏み出した右足の裏から滲みて来るのが分かる。そうしてその毒気がガーゴイルの腹の中へと意識を向けたのを感じ取り、感じ取ったその刹那、ガーゴイルはガーゴイルではなくなった。


「ウガァぁぁああああっぁ!」


 ガーゴイルが茨の群れへと歩み寄った先から凄まじい怒号、否、叫び声が聴こえて小夜子は目を見開いた。一体何が起きているの!?小夜子は今すぐガァちゃんに駆け寄りたいぐらいだけったけれど、ガァちゃんの「待て」の一言が小夜子の足を何処までも忠実な犬のように堅牢にさせて動くことが叶わなかった。


 ガァちゃん!ガァちゃん!


 まるで口までも枷をかけられてしまったかのように動かなくなってしまった小夜子は悲痛な声を上げるガァちゃんを纏う紫の霧の様なものがいち早く晴れることを祈るばかりであった。ああ、神様でも仏様でもなんでも良いからガァちゃんが無事でありますように。小夜子は殺生を厭う質だったけれど、もしガァちゃんを苦しめているものが茨の群れだったのなら、あの毒に侵されたヒカリゴケたちと同じように小夜子の怒りで焦げさせてやろうと心に決めた。

 小夜子は目を凝らして、ガァちゃんがいるであろう方向を見つめた。徐々に霧が晴れて行く。それに連れ、ガァちゃんの叫ぶ声の色が変わって行くことに戸惑いを覚えた小夜子は、やっとこさっとこ「ガァちゃん…?」と声を振り絞った。「オレを見るな!」

 小夜子の声が届いたのかそうでは無いのかいつになく冷静さを欠いたガーゴイルの叫び声にギョッとした小夜子は、そうは云われても見ぬことは叶わず、そうして彼の人の見てくれの変化に再度目を向いた。


 小夜子が幼少期、父の気まぐれで連れて行ってもらった牧場で見た牛よりもずっとずっと太い胴、そうして、どんなに懇願しても乗らせてはもらえなかった馬よりも長い体躯、顔はひしゃげたライオンのようで、そのひしゃげた口から生える鋭利な牙と、鱗で覆われた身体には更にその身に背負うように亀のような甲羅を纏っている。尻尾は世に云うドラゴンのそれで、そこだけがガァちゃんとの絆を感じさせてくれている。それほどにガァちゃんの見てくれは変わってしまっていた。


 魔法から解けたか如く体が動く様になった小夜子はガーゴイル(で在ったもの)に一歩自然と近付いた。


「近付くな!」「見ないでくれ!」「こんな醜いオレを見ないでくれ!」


 ガーゴイルは泣いている様であった。

 小夜子は姿も変わり、しかも嗚咽まじりの声で叫ぶガァちゃんを切なく思いながら、そして戸惑いながらも醜いなどとはちっとも思えなく、しかし彼の人の悲哀が氷の刃を以って貫いたように己の胸に深く刺さり、近付くことが是なのか比なのか分からなくなった。出来得ることならば今すぐ駆け寄って抱きしめたい、貴方は醜くなんて無いと。


「今の奴には何も届かぬ」


 真後ろから荘厳な声が聴こえ、文字通り飛び上がった小夜子は、恐る恐る後ろを振り返った。

 誰が呼んだでもなく、そこにはまさに『荘厳』の一言がしっくりと来るドラゴンがその身を静かに揺らしていた。

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