帰ることのない故郷

 焼きたてのショートブレッドを慎重に切り分け、その一部は台所を貸してくれた喜多さんに差し出した。


「あのう、お仕事まだ終わらないでしょう? 喜多さん仕事の合間に食べてください」

「そんな……贈り物ですよね? 悪いですよ」


 喜多さんは慌ててプルプルと首を振るけれど、それには姐さんも同意した。


「いいえ、繕い屋さんには毎度毎度音羽がお世話になっていると聞きますし。これはあたしのわがままを音羽が一生懸命叶えてくれただけですから。どうぞ受け取ってください」

「ええっと……それなら」


 ようやっと受け取ってくれた喜多さんは、こっそりと私に耳打ちしてきた。


「お姐さんと仲良くやれててよかったです」

「うん……喜多さんも手伝ってくれたから、やっと見つけられたんです」


 ショートブレッドは紙にくるんで持って帰ることにした。これを先生に贈るのだ。

 喜多さんには何度もお礼を言ってから、私たちは万屋へと帰ることにした。

 帰る道中、「あれ、音羽と泉水せんすい姐さん?」と声をかけられた。

 不明門あけずくんだった。どうもお使い帰りらしく、紙袋を持っていた。それに私は小さく手を振り、姐さんは小さく会釈をした。


「仕事もう終わったんだろう? ふたり揃って寄り道は珍しいじゃん」


 そう言いながら不明門あけずくんは寄ってきて、ヒクヒクと鼻を動かした。

 ……しまった、不明門あけずくんは化け狐のあやかしだ。ショートブレッドを焼いてきたことなんてすぐばれてしまうかも……もっとも、洋菓子をつくるとなったらどうしてもバターを使うから、どのみち鼻がよかったらばれてしまうかもしれないけど。

 不明門あけずくんはヒクヒクと鼻を動かして首を傾げた。


「なんか甘いものでも食べに行ったのか?」

「ええっと……」


 まさか先生に贈り物を渡したかったなんて言えないし。不明門あけずくんは内緒話にはあまり向いてない。

 どうしようかと思って姐さんを見上げたら、姐さんはにこやかに人差し指を差した。


「女同士じゃないとできない話もあるさね」

「ふーん? まあ、あんたが来てくれてよかったけどさあ」

「ふん?」


 不明門あけずくんは姐さんの誤魔化しをわかったのかわかってないのか、姐さんに挑むような目をしながらニヤリと笑いつつ続ける。


「音羽。裏吉原に来てから、同性の友達あんまりいないみたいだったからさ」

「あんたはどうなんだい?」

「俺、これでも裏吉原には知り合いも友達も多いからさあ。俺や先生は音羽と一緒にいることはできるけれど、同性にはなれないから。だから、結構感謝してるんだ。これでも」


 そう思っていてくれたことを、今初めて聞いて、私は目を瞬かせた。それは姐さんも同じらしく、私に小さく小突いた。


「音羽、あんたも結構愛されてるようだね」

「あ、愛されるようなこと、本当にしてません」

「ここだとさ、なんでもかんでも打算的になるから。打算のない関係ってのは、結構貴重さね。大切におし」


 そう姐さんに言われて、私は小さく頷いた。

 それはそう。先生は姐さんに頼まれたから、私の面倒を見てくれたのかもしれない。不明門あけずくんだって先生に頼まれたから私の世話を焼いてくれていたけれど、妹弟子だからって無下にされた覚えもない。

 仕事で出会ったひとたちだって、そのあとも交流は続いているし、全部が全部打算的な関係でもない。喜多さんみたいに普通に茶飲み友達として交流している子だっているんだから。

 それは表の吉原では、姐さんたちから可愛がられていたからこそ、できるようになったことだ。

 火傷のせいで、いったいいつになったら私の借金を完済できるのかがわからなかった。下働きだけで無理矢理背負わされた借金を完済できるほど、世の中上手くはできていない。

 火傷していても誰も気味悪く思わない。借金を背負わらされて、背中を丸めて生きなくてもいい。夜、雑魚寝で狭くて隙間風がびゅーびゅー吹き抜ける寝苦しい部屋で寝なくていい。人からご飯を恵んでもらわないとずっとお腹を空かせなくてもいい。

 きっとここにいることを可哀想だって言う人だっているかもしれないけれど。裏吉原は私にとっては居心地のいい場所であった。

 やがて、万屋が見えた。

 先生が煙管を噴かせながら店番をしていた。こちらのほうをちらりと見る。


「おやお帰り。今日はずいぶんと長いこと寄り道してたね?」

「ただいま戻りました。すみません、ちょっと台所をお借りしてまして」

「台所? うちのじゃ駄目だったかい?」

「いえ……」


 私はそう言葉を濁して、姐さんを肘でとんとんと突いた。

 姐さんはうっすらと頬を染めると、紙でくるんだものを差し出した。


「音羽に相談したんです。あたしはこうやって身請けしてもらって、ここで働かせてもらえるようになって……人間扱いされるようになって。嬉しいけれど、どうやったら感謝を伝えられるかと。あのう……柊野ひらぎのさんの故郷のお菓子だと聞いたんですけれど……よろしかったら」

「おやまあ」


 先生は少しだけ目を細めて、どこか遠くを見る目をしてみせた。以前に先生から故郷の話を聞いたときに見せたような、もう帰ることのできない故郷を思い浮かべるような、そんな目だった。

 バターの油分を含んだ紙を広げると、プンと香ばしい匂いと一緒にショートブレッドが出てきた。それに先生は少しだけ懐かしそうに目を細めて微笑んだ。


「驚いたね。作り方なんて裏吉原には流れてきてないと思ってたんだけど」

「古本屋さん探したら、英語の本は見つかって……先生から独逸語は習ってたし、数字は書いてたんで、そこからなんとか読めないかなと一生懸命読んでました」

「よくやれたもんだねえ……ありがとう。お茶を淹れようか」


 先生は機嫌よく煙管の灰を火鉢に叩いて捨てると、煙管入れにしまい込み、火鉢の上に鉄瓶を置いた。

 私たちはお茶を淹れると、先生と一緒に先生の故郷の味を食べたのだった。バターと小麦の味。その甘い味を齧りながら、先生の帰れない故郷のことを少しだけ思った。


****


 その夜。私は何故か寝付けず、姐さんが丸くなって布団で眠っている背中を見ながら、できる限り足を忍ばせて一階に降りた。

 水をもらおうと思ったのだ。裏口に井戸水を汲みに行こうとしたら、紫煙が深夜の空に立ち昇っているのが見えた。

 裏口には先生が煙管をくゆらせながら、空の月を見ているのが見えた。今晩の月は細い。

 ジャリッと砂を踏んだ音が響き、先生は振り返った。寝間着姿であった。


「なんだい、こんな時間に」

「喉が渇いたので水を飲みに来たんですけど……先生こそ、こんなところで煙草ですか?」

「月が綺麗だからね」

「……細くないですか?」

「夜更けじゃないと、裏吉原だったら灯りが消えないじゃないか」


 そう言われて、そういえばと思った。

 夜遅くまで見世には灯りが入れられ、極彩色の悩ましい色を放っている。それは万屋の辺りも影響する。

 当然ながら、星も月も灯りに遮られて見づらい。


「でも……どうしてこんな時間に月見を?」

「いやね。少しだけ故郷を思い出して。あたしはもう帰ることができないしね。それはお前さんだって同じだろう?」

「……はい」


 私は父に売り飛ばされてしまった以上、もう帰ることなんてできない。唯一の気がかりは父にずっと手を挙げられ続けていた母の消息だ。

 私が売り飛ばされたあと、ちゃんと離縁しているといいけれど。もっとも、どれだけひどい男であったとしても、離縁された女の扱いはひたすら悪い。

 母がちゃんと逃げられたらいいのにと、少しだけ思った。

 もう帰ることのない故郷の話だ。

 先生は月を眺めながら、再び煙管をくゆらせる。


「場所によって、月の見え方も星の並びも違うらしい。あたしの故郷と裏吉原だと、やっぱり空の見え方が違うねと思っていたんだよ」

「だからひとりで見てたんですか」

「そうだね」


 そこから先、先生はなにも答えなかった。

 私にだけ明かしてくれたのは、きっと裏吉原でも生きているのは私と先生くらいだからだろう……もっとも、私の命は姐さんからもらったものであり、私はとっくの昔に死んでいたのを、姐さんのおかげで息を吹き返しただけだ。

 ただ、この時間が少しだけ長いといいなとそれだけを思った。

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