魔法の修行

 それからの私は、徳がある程度積まれてから、不明門あけずくんと一緒に魔女の修行を受けるようになった。

 そうは言っても、いきなり魔法を使う修行をはじめたら、私のなけなしの徳はあっという間になくなってしまう。それより先にはじまったのは、綴りの書き方だった。

 書いてあるのはアルファベットだとはわかったものの、私ではなにを書いてあるのかちっとも読めなかった。英語ではないとは思ったそれは、独逸語だった。そのスペルの綴りの書き取りをずっとすることになったのだ。


「あのう……これをもっと日本語でわかりやすく書くってできないんですか?」


 思わず根を上げて先生に訴えると、私たちが書き取りしているのを見ながら、先生は煙管を噴かせつつ鼻で笑った。


「魔法をそう簡単に誰でも使えるようになっちゃあ困るからねえ。特にここいらで働いている遊女や男娼が真似して神に対してやらかした場合、お前さんは責任取れるのかい?」


 そうか。私は三味線の修繕のときの文面を思い返した。

 三味線に意思を与えて、三味線に五感を与えて痛いと教え、更に自己修復できるようにする。これを日本語で教えてしまったら、きっと大変なことになる。

 人の贈った三味線を壊して修繕したなんて知られたら、きっとあのとき泣いていた芸子さんだってただでは済まなかっただろう。あのひとは先生のように、修繕したことを悟らせないように魔法を使うなんて離れ業きっとできない。


「……わかりました」

「まあ、この魔法の使い方だって、裏吉原限定さ。ここで生活する分には問題ないだろうが、徳を積み終えて表に帰るんだったら、ここで習った魔法は使えないとだけ、覚えておきな」

「帰りませんよ」


 それには思わずきっぱりと言ってしまった。

 ここはたしかに徳がないとなんにもできない。買い物にだって徳を使い、物事のやり取りや情報収集、万屋のお使いにだって徳が必要だ。そして魔法には徳を大量に使うんだから、下手に徳を使い切らないようにするためにも、働くしかない。

 それでも。借金漬けにされたり、殴られたり狭い部屋で雑魚寝をしたりしなくて済む生活は、今の私にとっては快適だった。

 私の顔の火傷跡に触れる……借金のせいでどんどん荒れて人が変わってしまった父が投げた火鉢の炭の熱さと痛さは、今だって覚えている。

 先生も不明門あけずくんも、私の火傷については全く触れてこない。それに私はほっとしていた。

 私が吉原に来るまでの話をしなくて済むから。

 私のきっぱりとしたひと言に、先生は溜息をついた。


「そうかい」


 結局はそれだけで終わった。


****


 万屋にやってくるお使いを済ませると、私が先生に買ってもらった徳を溜める瓶もずっしりと重くなってきた。徳には重みがあったんだなと、裏吉原では当たり前に液体になっている徳を見て不思議に思う。


「ありがとう、音羽さん。たくさん買い物を手伝ってくださって」


 私は喜多さんの依頼で、はぎれと糸を買いに来ていた。着物を繕う際に、ありとあらゆるはぎれを買い込んでおいて、一番合う布を当てて直すのだ。一枚一枚では軽いはぎれも、大量に買い込めば徳と同じくずしりと重い。

 喜多さんの言葉に、私は「いいえ」と首を振った。


「私も布をたくさん見るのは懐かしいですから。裏吉原に来るまでは、私も繕い物をして生活をしていましたから」

「あら、音羽さんも? だとしたら、もしあたしが仕事がたくさん入って詰まってしまったとき、音羽さんに頼んで一緒に繕い物をしてもらってもよろしいの?」

「そりゃもう。私もこれでも姐さんたちにずっと頼られてきた繕いの腕ですからね」

「まあ、頼もしい」


 そう言って喜多さんはコロコロと笑った。

 なによりも、喜多さんと仲良くなれてよかったのは、彼女は本当にあっちこっちの見世から仕事を引き受けているから、先生みたいに依頼でも受けない限りはなかなか入れない大見世にも顔を出せるところだった。

 私はどうにかして、本当に姐さんが間違って裏吉原の見世に連れて行かれてないかを探していた。

 姐さんが生きて吉原を脱出できたのならそれでいい。死んでも裏吉原に連れて行かれていなかったら……悲しいけれど仕方がない。せめてどこかで手を合わせさせて欲しい。

 問題なのは理不尽に裏吉原に連れて行かれている場合だ。

 裏吉原の徳の積み方だったら、遊女はいったいいつになったら裏吉原から出られるかわからない。

 それに。私には気がかりなことがあった。

 どこかで琴の音がする。きっと芸子の稽古中なんだろう。私はそれとなく喜多さんに聞いてみた。


「あの……私ここに一緒に流れたはずの姐さんを探していますけど」

「おっしゃってましたね……ごめんなさいね音羽さん。なかなか見つけられないで」

「いえ。そこは全然喜多さんは悪くありませんから。ただ……仮にどこかの見世に放り込まれていた場合、姐さんってどうなるんでしょうか」

「そうですねえ。見世に入った幽霊の方々は、それぞれ適性を見られて遊女として働くことになるかと思います。徳を積んで見世に支払えるようになったら、見世から解放されるとは思いますが」

「はい」

「……問題は神に身請けされた場合ですね。裏吉原は元々は神様の花街です。神に身請けされた場合は、逃げることができません」

「……っ。徳を積んでも、ですか?」

「たとえばですけれど。柊野ひらぎのさんが魔法を使って徳を打ち消したとしても、裏吉原から徳が減ることはありません。何故かと思いますか?」

「ええっと……」


 そう言われても、と私は考え込む。それに喜多さんが教えてくれた。


「神が適度に徳を足しているからです。元はただ神が自分の息抜きのために、表に存在する吉原を見て、見様見真似でつくったのがこの地ですけれど、ただここに連れ込んだだけのあやかしも幽霊も、上手いこと神の思うとおりに動かなかったそうです。表ではなんでもかんでもお金で解決するでしょう? それを神が見て、見様見真似で徳をお金と同じように使えるようにしたんです……たまにここに流れ込んできた陰陽師や呪術師、魔女なんかはもっと別の使い方をしますけれど。ですから、神に見染められたらもうおしまいなんです」


 神に触れるべからず。神に目を付けられぬよう努めるべし。

 これは前々から先生や不明門あけずくんも取っている行動だったけれど。

 私たちには徳を使って縛る癖に、自分たちはそれを無視して行動するなんて。

 ますますもって、どうか姐さんがここに来てませんように。せめて生きてどこかの店に拾われ、私のように仕事していますように。そう祈らずにはいられなかった。

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