第2話 異世界への扉

 食事の支度が済み、いただきます、と二人は手を合わせる。


「今日は一日どうでした? お仕事の調子はいかがですか?」


 取り鉢に三月みづきと自分の分の水炊きをてきぱきと取り分けながら、夕緋ゆうひは穏やかな笑顔で言った。

 ちらりと視線を向けられる。


「こっちに越してきてからもう随分と経つからね。仕事も特に問題なかったよ」


 答える三月は、眉を逆への字でどことなく疲れた声。


「そうですか……。私はぎこちない感じですね。周りの方々は本当に良くしてくださるんですけど……」


 夕緋の笑顔も心なしか翳って見える。


「夕緋ちゃんはまだ来てすぐなんだし、そのうちゆっくり慣れてくるよ」


 そう言って三月は愛想笑いを浮かべた。

 そこには気遣いの気持ちが見える。


 二人は元々この土地の出身ではない。


 三月はある事情で故郷を離れ、10年程前から新天地での生活を始めていた。

 この町との付き合いもそれからになる。

 地元の製造業の会社に中途入社し、かなりの年月が経っていた。

 持ち前の対応力と性格で、同僚と打ち解けるのに苦労はしていなかった。


「すぐ馴染める三月さんが羨ましい。どうしても、過ごしやすかったあの頃の故郷のことを思い出してしまって……」


 自嘲気味に話す夕緋もよく似た理由でこの町に越してきていた。

 移住してから間も無いこともあり、どうやらまだ新しい環境に慣れていない様子である。


 夕緋はこの近所のスーパーで働いている。

 端麗な容姿と基本的には人当たりの良い人柄で同僚には優しくしてもらっていた。


 なかなか馴染めていないと感じるのは本人の性格の問題だろうか。

 三月は静かに笑う。


「大丈夫だよ、夕緋ちゃん。きっとすぐに慣れるよ。こうしてまた再会できたことだし、この町でも頑張っていこうよ」

「はい、三月さんがそう言うなら。私、頑張りますね」


 夕緋はその言葉ににこっと微笑み、三月も、さあ食べよ食べよ、と箸を取って食事を始めた。


 二人は故郷から離れたこの町で偶然に再会した。

 子供の頃からの付き合いの、所謂幼馴染みというやつである。

 懐かしい同郷人との思い出話に花が咲く内に、住んでいる場所も近かったこともあり、夕緋からその申し出があった。


『もし三月さんさえ良かったら、お夕食は一緒にしませんか? 私、つくりに行きますから』


 断る理由もないありがたい話だった。

 三月は二つ返事で夕緋の厚意に甘え、それからずっと都合が合うときは必ず二人で夕食を取るようになった。


 もちろんお金は出し合うが、三月はお礼にといつも多めに渡している。

 夕緋は遠慮して受け取らないよう断ろうとするが、この習慣を終わらせたくないと思うようで最後には渋々受け取っていた。

 そこには金銭のやり取りよりも優先したい気持ちがあるからである。


「……」


 食事が終わって、キッチンで後片付けや洗い物をしている夕緋の上機嫌な後ろ姿を三月は座ったまま何気なく見ていた。


 夕緋から何か言ってきたり、直接態度に出したりする訳ではないが、明らかな好意を持ってくれているのはもうわかっている。

 今の状況や自分たちの昔の関係を思えば、いくら三月が鈍感だったとしても気付かないはずがない。


 夕緋は二人の仲を進展させたいと思っているだろう。

 だがそれでも夕緋からは何も言ってはこなかった。

 丁寧な言葉遣いに見られるような、まだまだと堅い態度は夕緋の気持ちの表れなのかもしれない。

 三月はそんな彼女に何も応えていないし、何もしてあげられていなかった。


「……」


 三月のちらりとした視線の先に、例の写真立てがある。

 自分の両隣に立つ少女のことを思った。


 左側には控えめな感じの夕緋が、そして右隣には快活そうな少女の姿がある。

 煮え切らない夕緋への態度と気持ちにはこの夕緋とよく似た少女と、何より自分に原因があることはわかっていた。


 わかってはいるのだが。

 三月は下を向いてため息をついた。


──このままじゃ駄目なんだろうな、俺たち……。いつまでも夕緋ちゃんに甘えて、気持ちに応えずにいて本当に申し訳ない……。いい歳して俺も情けねえ……。でも、だけどなぁ……。


 目を瞑ってうーんと唸り、もう一度ため息をつきながら夕緋のほうを向く。

 そして思わず、わっと声が出た。


「──どうしました、三月さん?」


 目の前に手を膝に背をかがめた夕緋の顔があった。

 吸い込まれそうな綺麗な黒い目が、三月の顔を覗き込んでいる。


 夕緋は本当に美しい女性であった。

 清楚で可憐で、長い黒髪がよく似合う、絵に描いたような和風美人である。

 気品のある凜とした顔立ちに、派手すぎない化粧がよく似合っていた。

 どうやらもう後片付けは終わったらしい。


「あ、いや、な、なんでもないよ……」

「そんなにため息ばかりついて、気分でも悪くしたのかなって思って」


 しどろもどろの三月に夕緋は心配そうに眉根をひそめている。


「大丈夫っ、ちょっとぼーっとしてただけだよ。今日も夕緋ちゃんのつくってくれたご飯が美味しかったなぁって……」

「そう、お口に合ったみたいで良かった」


 やたらドキドキと鼓動の高鳴る胸を抑えつつ、三月はごまかし笑いをしてそっぽを向いた。

 三月のそんな様子を微笑ましく見て、夕緋はくすっと笑ったのであった。


「食後のコーヒー淹れようと思うんですけど、三月さんはどうですか?」

「あ、ああ、お願い、します……」


 ばつが悪そうにしている三月の顔を見て、もう一度夕緋は笑うとキッチンへ戻っていった。


 二人でコーヒーを飲みたいとの夕緋の提案で、それほど高価ではないが、お金を出し合って購入したコーヒーメーカーが調理台にあった。

 再び勝手見知った調子で、夕緋は備え付けの棚から挽いたコーヒー豆の袋を取り出している。


「……ふぅ」


 今度は聞こえないくらいの息を吐き、三月は夕緋の背中を見ていた。

 そうして何気なくふと思う。


──でも、なんだか……。夕緋ちゃんは何でもかんでもお見通しっていうか……。よくわからんけれど、見透かされてるって感じがするなぁ……。


 それは昔から夕緋に感じている思いである。

 別に嫌な気持ちになる訳ではない。


 どこか夕緋は三月が何を考えているのかを見通しているような、そんな雰囲気を醸し出すときがある。

 いや、心得ていると言うべきか。

 ただ、浅くは無い付き合いの為、そうした不思議を感じさせられるのも今に始まったことではなかった。


 今日そう思ったのも少しばかりの間に過ぎない。

 少しもしない内に考えるのをやめ、まあいいか、と上の空になっていた。


「──さて、と」


 コーヒーを飲みながらテレビを見たり、二人で何気ない談笑をしたりしていると、もういい時間になっている。

 楽しい時間はあっという間だった。

 夕緋は午後九時を指す時計を見ながら立ち上がった。


「もうそろそろお暇しますね。また明日もお仕事ですし」

「コーヒーは片付けておくから、そのままでいいよ。今日もありがとう、ご馳走様」


 片づけをしようとする夕緋を止めて、三月も立ち上がる。

 夕緋も、それじゃあ、と片付けを三月にお願いして、上着を手に玄関へと歩いていく。

 三月も玄関まで付いていくと、一応とそれを聞いた。


「夕緋ちゃん、家まで送るよ。もうこんな時間だし」


 三月の住む住宅街はそれほど賑やかな場所ではなく、女性が夜に一人歩きをするのは何かと物騒である。

 そうやって家路へのお供を申し出るものの──。


「大丈夫ですよ、三月さん。お家、近くですし」


 夕緋は決まってそれを断る。

 やんわりとした笑顔で三月の厚意に応じることはない。

 だから、三月も特に気にはしなかった。


──夕緋ちゃんの住所は聞いてる。ここと同じようなアパートなんだそうだ。確かにそう遠くはないし、近所といっても差し支えない距離だ。食い下がって、送っていくって言っても、俺に手間を取らせたくないらしくずっと遠慮し続けている。


 夕緋の家にはまだお邪魔したことはないが、彼女がこの町に来てからそれほどの日にちは経っていない。

 だから、別にそう不自然なことでもないと思っている。


 三月にしてみても自宅に来て貰う分には抵抗は無かったが、一人暮らしの女性の家に一人で行くのには、この歳になってもまだ抵抗があったのかもしれない。

 結局、この日も夕緋は一人で帰ることになり、玄関で見送る次第となった。


「じゃ、気をつけて。何かあったらすぐ戻ってきて」

「はい、わかりました。ご心配なく、ふふっ」


 ドアを開け、玄関の外に出た夕緋は心配する三月に微笑む。

 夜道を一人帰る身を案じてもらえて嬉しそうにしている風だ。


「それじゃあ、おやすみなさい、三月さん。また明日」

「ああ、また明日。今日もありがとね、おやすみ」


 仰々しくお辞儀すると夕緋はゆっくりと、寒い風の吹くアパートの通路を帰っていった。

 その背を見送り、また短くため息をつくと三月も部屋の中へ戻る。

 そして、ふと先ほどまで座っていた炬燵テーブルの脇を見やる。


「あ……」


 そこには夕緋が来るときに巻いていたベージュのストールが置かれたままだ。

 どうやら、今さっき部屋を後にした夕緋が忘れていったようだ。

 今ならすぐに取って返し、この忘れ物も届けられるタイミングだ。

 迷わずストールを掴み、踵を返す。


「──やっぱり、今日こそは送っていこう」


 そう呟き、玄関へ向かおうとする。


 この時間の経過状況なら、夕緋はまだ階下への階段に差し掛かる前だろう。

 すぐにでも追いつける。

 上着も羽織らず、部屋着のまま急いで玄関のドアノブを掴む。

 するとその瞬間。


『──接続完了』


 不意にどこからともなく妙な声が聞こえてきた。

 頭の奥に直接響いてくる。

 人の声とも機械の声ともつかない、文字通りの不可解な声だった。


 自然に耳に入ってきて違和感もなく、三月はそのまま動作を止めることなく普通にドアノブを回していた。

 ドアを押すと、当然と扉は開いた。


『対象選択・《現実世界の三月》・同期開始』


 もう一度妙な声は聞こえた。

 ドアは完全に開き、外の景色が見渡せる。


 いつもならば、ドアの外はアパートの二階から街灯の明かりで、一車線の道路の向こうの浅い用水路を挟み、さらにその向こうの道路と住宅街が見える。

 この時間だともう自動車の往来はほとんど無くなり、電車の走行音が遠く聞こえるくらいで、静かな住宅地の夜の風景が広がっている。

 但し、それはすべてがいつも通り、何の異常も無かった場合の話である。


「えっ……?!」


 三月は思わず絶句していた。

 いつもの景色はそこにはなかった。

 もちろん、さっき帰ったばかりの夕緋もいない。

 その代わりに──。


「どこだ……? ここ……」


 巨大な石造りの柱が左右に立っていて、それが暗いずっと奥まで立ち並んでいる。

 天井は見えないくらい高く、暗い。

 やけに冷えた空気が頬を撫で、かび臭いにおいが鼻を突く。

 いつの間にか、石柱の立ち並ぶ広大な回廊の只中に三月は居た。

 開けたドアとアパートの部屋はもう後ろには無い。


 まるでそこは──、所謂いわゆる異世界の地下迷宮ダンジョンのようであった。


 一瞬、地面が振動した。

 ぶわっ、と強いファンヒーターの温風を思わせる熱気が吹き抜けて、獣のような生き物の気配を正面から感じる。


「……は?」


 目立つ光源、それは見間違いでなければ壁にある松明に目が行く。

 ゆらゆらと漂う頼りない炎の明かりが、広大な通路の壁や柱にそこかしこと掛けられていた。

 その薄明るい光に照らされて。


「あ、あ……!」


 三月は見上げていた。

 前方10メートル程度先、そこから上にも10メートルという高さに、ちらちらとした炎の明かりが見える。


 また地面が轟音とともに振動した。

 三月の前にやたらと大きな足が見える。

 それはまるでトカゲを思わせる爬虫類の前足で、指先には太く鋭い鉤爪が生えており、石の床を掻き掴んでいる。

 その巨大な足が床を踏みしめ、たてる音が轟音と振動の正体だ。


「こっ、これって……」


 三月の見上げている高い位置に見え隠れする炎の明かりは、その巨大なトカゲの足よりかなり上、顔のあたりに見えている。

 不意に炎の明かりが三月を見下ろした。


 全体的に赤く巨大な体躯。

 鰐のような顔に鼻部上と頭部左右に隆起するそれは角だ。

 鱗に覆われた長い首に、口元から呼吸に合わせてもれる炎の息が明かりのように見えていた。

 重々しい四足歩行、背には荒々しく畳んだ大きな皮膜の羽根、後ろに伸びている長い大蛇の如き尻尾。

 それは間違いなく伝説の魔物の姿であった。


「……ドラゴン……!?」


 こうして三月は自宅アパートを出たところで、地下迷宮らしい場所でドラゴンと出くわすことになったのである。



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