第2話 聖バーソロミュー病院

診察室に入ると、そこで待っていたドクターは先ほどいた初対面の法医学医とは別の内科のドクターで、彼は正統派の美青年だった。ヒカリ・エヴァンスハムとしての記憶によれば、幼い頃から私のホームドクターだった先代のドクターが高齢により足腰が弱くなったために、数年前から時折代理でホームドクターとして診察をしてくれている顔見知りのドクターだ。


初めて会ったのは、彼がまだ研修医の頃。年頃だったヒカリ・エヴァンスハムにとって美青年な彼に診察をされるのは、緊張が走ったようだけれど… もし、今の私が彼に触診をされていたら、血圧が上がり過ぎてきっと倒れていたと思う。それは、研修医から立派なドクターに成長した彼が至近距離で私の頭に触れているだけで、卒倒しかけている今の自分を思えばほぼ間違いのないだろう。


「すみません、診察が立て込んでしまっていたので… ご自宅に伺えず、ご足労お掛けしました」

「いえ… 忙しいのに突然すみません」

「ふっ、突然医者が必要になるのは、珍しいことじゃないですから。謝らないでください」

「ありがとうございます」

「お嬢様の健康を守るのは、私の職務ですから。お嬢様の体は、必ず私が守ります」


いつも通り優しいドクターの言葉が、私の胸をキュンとさせて辛くしんどい…

病気を治すどころか、このドクターとの記憶を遡るとキュン死しそうになって危険なのだった。


「執事さんの話によると、また頭痛が酷くなったそうですね」

「はい…」

「症状は、前に診察したときと、同じ状態ですか?」

「はい。でも、なんだか… だんだん痛みが強くなってる気がして」

「うーん…… 頭を強くぶつけたりはしてないんですね?」

「覚えてる限りでは、どこにも…」

「見た感じ、特に問題はなさそうだね。じゃあ、少し強い薬にして様子を見ようか。経過を見たいから、定期的に診察をさせてもらえますか?」

「あ、はい」

「では、また今度、お屋敷にお邪魔致しますね。お大事にしてください」

「ありがとうございました」


どこからともなく、ケータイの着信音が聴こえる。

「…電話? 固定電話しかないこの時代に、どうして」


目を開けると見慣れない天井を見上げていた。

頭は混乱していたけれど、不思議とあれだけ痛かった頭痛がなくなっている。

これは、どういうこと…?


聴きなれたケータイの着信音を呆然と聴いている内に、少しずつ意識が鮮明になってきた。

「あぁ… やっぱり、アレは… 夢だったんだ」

この見慣れない天井は、引っ越してきたばかりの渋谷のマンションションの天井だ。荷ほどきもほとんどしていない。このマンションは渋谷の大学の程近くにある12階建てのマンションで、その502号室の一室がルームシェア物件として貸しに出されていた。4LDKの間取りで家賃は8万円。郊外を選べばもう少し安く部屋を借りることができたけれど、大学から近く、セキュリティもしっかりしているマンションに住めることを考えれば、決して高くはない。他の3人は冬休みで帰省しているのか、私がここに引っ越して数日経ったけれどまだ挨拶すらできていない。


どのくらい寝ていたのだろう… ようやく目がはっきりと覚めた私は、母親からの着信を告げ続けているケータイを手に取り、受話ボタンを押した。


「あ、ひかり? 寝てた?」

「うん… 今起きたところ」

「ちょっとお願いがあるんだけど…頼めるかな?」

「…どうしたの?」

「最近、お兄ちゃんと電話かメールしてる?」

「う~ん、誕生日に連絡して以来してないかな…」

「しばらく、お兄ちゃんと連絡取れないのよ。お母さん、心配になっちゃって」

「しばらくって… どのくらい?」

「もう3週間くらいかしら。それから、何度も連絡しても折り返しがないの」

3週間前というと兄の誕生日前後になる。つまり、私と最後に連絡を取って間もなく、兄は音信不通になっているということになる。


「悪いんだけどさ、家か事務所に行ってお兄ちゃんの様子を見てきてくれない?」

「う~ん、そうだね。わかった、いいよ」

「ひかりは最近、どう? 変わりない?」

「相変わらずな感じ。問題ないよ。じゃあ、行ってみるから。うん、じゃあね」

ケータイを切り、大きく深呼吸をすると… 先ほどまで見ていた幸せな夢を思い返して、幸福感を味わっていた。その味がなくなるまで、しゃぶり尽くす心づもりでいた。


ダメな男にしか縁がない私が、顔も性格も頭も良い男たちに囲まれて、しかも富豪の一人娘なんて最高のシチュエーション、夢以外にあり得ないに決まっているのだった。

あの日々が夢だったのは残念で仕方がないけれど… あんな素敵な夢を見られただけでも、私にとっては幸運だったと思わないと…


そう自分に言い聞かすと、重い腰を上げてベッドから降りた。

ふと、ケータイのを見ると、5件の未読メッセージがあった。

「今度、東京行くんだけど会わない?」

「メシ、おごって」

「金貸してくれる?」

「ホテル予約しといて」

「遊びでいいなら、別れないでやってもいいけど」

送り主は、状況前に「他に好きな女できたから、お前とは別れるわ。理由? 飽きた。お前と一緒にいても、楽しいことねぇんだよ」そう言って、外に待たせていたギャルっぽい女と腕組んで消えて行った最低の元彼からだった。


「どうして、あんな男のことを一時的とはいえ好きだったんだろ…」

さっきまで見ていた幸せな夢の中の男たちと比べたら、天と地、月とすっぽん、提灯に釣鐘、雲泥の差というヤツだ。


「お生憎様」

そう呟いてメッセージを削除して、ブロック設定をしながら…


セバスチャン… 神父様… ドクター… レストレード警部…

あぁ、どうして私は生まれてくる時代と場所を間違えてしまったのだろうと項垂れながら、兄の様子を見に出かける準備をし始めた。

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