ミニシアターで恋をして
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ミニシアターで恋をして
石畳の小道から少し入った場所に、それはあった。
その外観は、昭和の趣を残したアンティークな建物で、薄いクリーム色の壁が古き良き時代の情緒を感じさてくれる。
建物全体が、まるで昔ながらの映画館のような雰囲気に包まれていた。
実際、そこは映画館として営業を続けている建物で、この商店街の人にとっては馴染み深い場所だった。
この商店街に昔からある映画館の名前は、銀河劇場という。
駅前の大型ショッピングセンターができる前から閑古鳥が鳴いていたようだが、それでも映画好きから変わらず愛されている場所だ。
そこに一人の少女が訪れていた。
淡い青色のワンピースにブラウスという格好だ。
陰を感じた。
性格が暗いという意味ではない。
日陰で育った花の様に、どこか、か弱さを感じてしまうのだ。
でも、それも少女の持つ魅力でもあった。
髪型は、シンプルなミディアムストレートで、自然なままの美しい髪を大切にし、素肌を整えた清潔感のある印象がある。
小柄で物怖じするように感じてしまうのは、少女の人見知りする性格だったのかも知れないが、それ故に清楚に感じた。
名前を
春香は、少しだけ古びた雰囲気のある建物の前で、映画のポスターを目にしながら立ち止まった。
そして、小さく微笑む。
微笑は、静かに瞳の奥に隠れていった。
今からここで見ようとしている映画に想いを馳せる。
腕時計を見ながら上映時間を改めて確認すると、あと10分ほどで始まろうとし。
春香は、自分の腕時計を確認する。
駅の近くからバスに乗ってここまでやって来たのだが、今走っている幹線道路で工事があり、バスが渋滞に巻き込まれていたのだ。
乗った後に起こったことで、映画館に着くのが少しだけ遅くなってしまった。
「なんとか間に合ったみたい……」
春香は安堵のため息をつくと、劇場の入り口に向かって歩いて行く。
今日は見たかった映画がある日だ。
もう、ストーリーの最後が気になり過ぎて仕方がない。
映画館のホールに入ると、すでに劇場に入る人の姿がいくらかあった。
春香はショルダーバッグからチケットを取り出していると、彼女は自分自身を認識することになる。
学校や家庭では、春香のことを知っている人が居る。
だが、ここでは誰も春香のことを知らない。
この不思議な感覚が、彼女にとってはどこかくすぐったかった。
まるで言葉の通じない外国に来たようだ。
外国語が話せる訳でもないのに、気持ちだけは一人旅をしている気分だ。誰も知り合いのいない未知の世界に足を踏み入れているようで不安が過ぎった。
孤独を感じる。
言葉を口にしても、誰も聞いてもくれない怖さがある。
周囲の人が顔の分からない影のように感じていたにも関わらず、たった一言の言葉で春香は自分が孤独な存在ではないと気付いてしまった。
それは、春香の姓を呼ばれたからだ。
「渡瀬さん」
春香は、慌ててその声の主を探す。彼女は、一つの影を見つけていた。
上映をもうじきに控えているのに、人の波に動かされることなく、自分の位置から一歩も動かないで居る一人の少年がいた。
カーゴパンツにシャツジャケットを羽織り、どこか野暮ったい恰好。
やせ形のオーバル型メガネをかけた少年だ。
小ぶりで丸みのある形状のメガネをかけているためか、落ち着いた優しい印象がある。取り立ててカッコよくない目立たない男の子。
アイドル似でもない、女の子に黄色い声を上げられる美少年でもない。
これなら小太りな方が印象があって記憶に残りやすい。印象が薄いだけに、外面の採点はマイナスだ。
酷な言い方をすれば、
イモ。
それは、決して明るく、良いイメージがない表現だ。
……でも、何だろう。
イモは形が悪く土にまみれ汚れているが、この少年に当てはめると別の印象を受ける。
素朴で温かく、日差しを受けて香る土の匂いが伝わってくる。
そんな、少年だった。
名前を
カーゴパンツにシャツジャケットを羽織り、どこか野暮ったい恰好。
性格も外見も、地味だが真面目そうな少年だ。
「佐京さん……」
春香は、少年の名を口にする。
すると光希は表情を崩して微笑んだ。
春香は周りに人はいるのに、彼の笑顔だけは特別な物に思えた。
光希は周りの注目も気にせずに、柔らかい表情を浮かべていたが、春香との距離を握手でも求めるように自然に詰めてくる。
小さな彼女の声がよく聞こえるようにという配慮だったのかも知れないが、傍から見ていると、軽やかに近寄っていく彼の姿は威風堂々たる態度とも感じた。
だが、それがとても自然で嫌味がないために、春香の目にも彼の印象は好ましく映る。
「久しぶりですね。元気にしていましたか?」
光希は春香にそう声をかけられ、春香は頷いた。
彼は、春香とは通学する中学が異なっていたが、心臓病を持つ春香を手助けしたことで知り合った仲であった。
雨が降る最中、春香は心臓発作で動けないでいた。
そこに、光希が居合わせた。
心臓に負担をかけないようにと気遣ってくれ、彼に抱きかかえられて屋根付きのバス停で休ませてもらったことが、二人が出合ったきっかけである。
光希は
春香は、彼が助けてくれなければ死なないまでも、雨に濡れ続けてカゼを引いていたかも知れない。
そうならなかったのは彼のおかげだ。
容姿の良し悪しなど関係がない。
春香にとってみれば、気高く優しい男の子なのだ。
最後に会ったのは、演劇部の春香が『リア王』の演劇をしているのを見てもらった以来だ。
まさか、この様な場所で偶然にも光希と出会うとは思っていなかっただけに、春香は嬉しさを隠すことができなかった。
「はい。お陰様で。佐京さんは、どうされていましたか?」
春香は、上ずった声で光希に訊ねる。
すると彼は優しい目をして微笑んだ。
「僕は相変わらずだよ」
光希はそう言うと、今度はイタズラっぽく笑う。
そこには、気難しい少年の影はなく、無邪気で屈託のない笑顔を見せた。
二人はお互いに出合った時の思い出を語り合うと、まるで何事もなかったかのように話しを始めた。
「佐京さんも『過去の扉』を観に来られたのですか?」
春香は、劇場の案内板を見て、そう訊ねた。
ここはシネコンのように複数のスクリーンを持つ大型映画館ではない。劇場でミニシアターと呼ばれる映画館だ。
ミニシアターとは、大手映画会社の系列ではない独立した小さな映画館。劇場の定員が200人以下で、スクリーンが1~2つの小規模映画館となる。
映画会社の影響を直接受けないため、大きな映画館では上映されていないマイナーな作品にも出会えることが大きな魅力となっている。
すると光希も、同じように視線を動かすと頷く。
「たまたまチケットを譲ってもらたんだ。……そうだ、この映画って渡瀬さんの演劇部も出演されるんですよね。渡瀬さんも出演しているんですか?」
光希は、弾んだ声で春香に言った。
その事実を指摘され、春香は驚きのあまり思わず心臓が大きく跳ねる。
だが、次の瞬間には逆に心が落ち着きを取り戻した。
これから観る映画に春香も出演していることは、この少年はすでに知っているのだ。
そう思うと自然と鼓動が落ちついていくのを感じた。
「いえ、私はセリフの無いエキストラで出るだけです……。でも、どうしてそれを」
春香は、曖昧に微笑みながら答えた。
映画が制作された際、演出家より春香の中学校に声がかかったのは事実だ。
エキストラは俳優が演技している後ろや周辺に映る出演者で、ほとんどの場合、セリフはない。 目立たないが、作品の空気を作っていくためには不可欠な存在だ。
それでも、撮影に入る前にクラスのみんなは大喜びで出演を喜んでくれた。
このエキストラに選ばれてから春香も期待に胸を膨らませていたのだが、同時に自分の演技が上映されるのかと思うと、恥ずかしさを覚えてしまうのも否定できない事実だった。
でも……、それが光希にまで知られてしまったのかと思うだけで、恥ずかしさを覚えると共に驚きと心配が入り乱れてしまう。
そんな複雑な感情が春香の仲で入り混じり、光希は確証を得たことで話を切り出す。
「やぱっり、そうなんですね。僕の学校で、渡瀬さんの学校の演劇部が出演したという話があったんですよ」
光希は、少し興奮した様子でそう言った。
それは、春香には初耳の情報だった。
そもそも自分が出演することもあまり知られて欲しくなかったが、どうやら人の口に戸は立てられぬようである。
狭い地域だけに、映画に協力して出演する以上、出演者のことが噂されても致し方がないことだった。
でも、彼が観ていると知っただけでなぜか落ち着かない気持ちになる自分がいた。
もちろん恥ずかしいという思いはあるのだが、それよりも……何だろう? 上手く言葉にならないこのモヤモヤした感じが嫌いではない感覚でもあったのだ。
そんなことを考えていると、不思議と笑みが溢れてしまう自分がいることに春香は気付いていなかった。
二人が、そうしていると、人の視線が淀みのように集まっていることに気づいた。
それはそうだろう、ホールとは言え人の流れに左右されない中心部は、人の密度が高くなりやすい。
こんなところで立ち話をしていれば、周りの迷惑になって然るべきことだった。
春香が動けないでいると、手が引かれた。
それは、光希が春香の手を取ってホールの端へと連れて行く。
「すみません」
光希は人の迷惑になっていたことを謝った。
それは春香に対して言った言葉でもあった。
こうなった事態は春香のせいではない。呼び止めた光希にこそ責任があったからだ。
しかし、話し込んだことで人の迷惑になっていることに気付かなかったのは、春香も同じであった。
「すみませんでした」
春香も迷惑をかけていたことに恐縮した。
その様子を見た周囲からは、好奇や冷やかしの視線が向けられたが、二人の誠実な姿を目にしていたが、すぐに落ち着いていった。
ホール入り口が混雑するのはよくあることだ。周囲の人たちは二人の事情を察して、各々の行動を始めていた。
「僕らも行こうか」
光希が春香に呼びかけるが、春香は気恥ずかしげに俯く。ふと気づけば彼は未だに春香の手を離さず、手を握ったままだった。
光希は、そこで初めて気がついたかのように慌てて手を放した。
「ごめん、まだ手を握っていたなんて」
光希は恥ずかしそうに頬を掻いた。
「……いえ。状況的に仕方なかったと思います」
春香はそう答えると、再び下を向いてしまった。そこにはさっきまでの気恥ずかしい気持ちはなく、嬉しいような切ないような複雑な感情に支配されつつあった。
それに気がつくと、心拍数が上がり胸の鼓動が高鳴った。
(私……どうしちゃったんだろう?)
光希ともっと話をしていたい気持ちがあったが、何を話せばいいのか分からなくなっていたのだ。
そんな葛藤をしている内にタイミングを逃してしまい、二人の間に沈黙が流れる。
その静寂を打ち破ってくれたのは第三者だった。
「間もなく上映時間です」
館内アナウンスがそう告げると、光希と春香は慌ててチケットを用意した。
「渡瀬さん、急ごう」
「はい」
春香は光希の呼びかけに応じると、二人は急いで入場する。
劇場に入ると、そこには観客がまばらに座っていた。この映画館は指定席は無く、全席自由のスタイルを取っている。
マイナー映画ということもあって、席にはまだ余裕があった。
「佐京さん、あそこ空いてますよ」
春香は光希を誘った。
「いいね。通路側で少し斜めになるけど、後ろ側だからスクリーンを観やすい」
光希は賛成すると、二人は隣の席を確保した。
光希と春香は、空いている席に腰を下ろす。
すると他の観客も座っているのだが、通路を挟んで二人の隣もそのようだった。
そこには高校生位のカップルがおり、パンフレットを開きながら意見交換をしている。
そんな様子を横目で見ながら、二人は隣の席に座ることになったのだ。
(こんなところで観ることになるなんて……)
春香は恥ずかしさに目を合わせられずいたが、ふと今の自分の状況を
(私……佐京さんの隣に座っているんだ)
そのことを意識してしまうと、緊張のあまり体が硬直してしまっていた。
やがて館内アナウンスが流れ、場内の照明が徐々に落ちていく。
「始まるね」
光希の呼びかけに春香は言われるままに返事をして、スクリーンに目を向けるのだった。
春香は何だか不思議な気持ちだった。まるで付き合い始めた恋人同士のような距離で隣同士に座っているのだ。
ふと、横目で光希を盗み見すると、彼は真剣にスクリーンを見つめている。
その表情が妙に愛らしく思えてしまうのだ。
上映されている『過去の扉』は過去に悔いを残したサラリーマンが主人公の映画だった。
主人公は、過去に好きな少女がいたが、彼女は病院に入院したまま亡くなってしまう。不治の病であり、どうあっても彼女の死は避けられない事実であった。
主人公は自分の気持ちを打ち明けなかったことが悔いになっていた。
そんな時、主人公は老人から過去に戻る時計を手渡される。
そして、あの時言えなかった言葉を少女に伝えるために、過去へと旅をする。
少女は助かるわけではないが、主人公が気持ちを伝えることで少女の死への心残りを失くせるのだ。
彼は後悔をしたくはなかった。
そして、後悔するよりも告白することで過去に悔いを残したくなかった。
そこで主人公と彼女とは二人きりで再会を果たし、主人公は彼女に告白するのだった。
それが彼が望んだ結末だったのだ。
春香の隣にいる光希もスクリーンを真剣なまなざしで見ているようだ。
(佐京さんは……どんな気持ちで映画を観ているのかな)
春香は、ふとそんなことを思ってしまう。
不治の病ではなかったが、春香は生まれつき心臓に病気を抱えていた。胸を開いて心臓にメスを入れることが怖くて手術に挑むことができなかったが、先日ついに手術に踏み切ったのだ。
その勇気ときっかけを作ってくれたのは、この少年だ。
強さとは、心に宿る意思の強さだと。
隣の光希を横目で見ていると、不思議と勇気が湧いてくる。
(佐京さんって、私のことをどう思っているんだろう……)
今まであまり意識していなかったが、隣にいる光希のことが気になり始めていた。
春香は自分の気持ちと向かい合うことで、頭の中がいっぱいになってしまった。
映画のストーリーを追うことなど忘れてしまう程に、深く想う自分に戸惑ってしまっていたのだ。
そして、物語はクライマックスを迎える……。
主人公が告白すると、少女は笑顔で頷き言葉を発することができなかった。
しかし、その表情はどんな言葉よりも雄弁に彼女の想いを物語っていた。
その時、二人は手を繫いでいた。それはお互いが望んでいたことであり、お互いの手の温もりから二人が想い合っていることが確信できた。
そして別れの時がやってくる。
スタッフロールが流れ始めていた。
春香は、光希に視線を向けるが、彼は真剣なまなざしでスクリーンを見続けている。
その時、春香の胸の内から寂しい気持ちが膨れ上がっていく。
この隣り合う時間が少なくなっていくのが、酷く寂しく思えた。
上映が終わると館内から光が戻り、場内は徐々に明るくなっていった。
結局映画に没頭することができなかった春香は、今になってやっと現実に引き戻された気持ちになる。
そう思う自分に戸惑ってしまうが、そんな春香の気持ちを知る由もなく光希は立ち上がると、先に席を立つ準備をしている。
そこで、やっと春香も立ち上がり劇場を後にした。
「いい映画だね」
光希は春香に話しかけた。
その笑顔が、なぜか心を落ち着かせてくれるのだ。
劇場から出るとロビーで二人並んで待合用の椅子に座り込む。その間も、二人は途切れることなく映画の感想を述べ合った。
その際、光希は
同じ作品を観た者同士ならではなのだろうが、妙に息があっていて居心地が良く感じている自分がいることに気がついてしまった。
そんな時間がしばらく続き、春香の心に一つの願望が生まれていた。
(なんかデートしているみたい)
もう少しだけ今のままでいたい。
そんなことを考えながら春香は光希の顔を眺めていると、急に胸に痛みを憶えた。
春香は胸に手を当て胸に覚えた痛みの正体が分からぬまま、静かに俯く。
(私、どうしちゃったんだろう?)
胸の痛みは、どんどん強くなっていき、まるで体全体を締め付けるような激痛が走る。
それに呼応するように脈も速くなっていた。
「渡瀬さん。もうしかして、また心臓が」
春香の様子が明らかにおかしいことに気付いた光希が、心配そうに話しかけてくれた。
「……大丈夫です。手術をしてもらってから、再発はないって言われていました」
春香は発作かと恐れたが、苦しそうにする彼女を光希は優しく支えることにした。春香の肩と背中を支えるようにする。
すると不思議なことに胸の痛みが治まっていくのだ。
春香は、そのまま光希に体を預けてしまう。
その温もりが心に安らぎを与えてくれることを実感すると同時に、鼓動が激しくなるのを感じていた。
(私、どうしちゃったのかな?)
もう何も考えることができなくなっていたが、さっきまで感じていた居心地のいい空間にまだ浸っていたいと思った気持ちだけは理解できる気がした。
それが何か分からずにいる自分が、ここにあった。
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