第2話 いたずらという名の術

 瑠璃帝の後宮には、宝珠宮という特別な宮がある。

 そこは瑠璃帝の亡くなった姉君、宝珠公主がおわしたところだった。公主は草花の模様が大理石に彫りこまれた天井の下、年の離れた瑠璃帝をいつも膝に乗せて遊ばせていたという。

 その宝珠宮に朝から居を移した凡妃は、天井を見上げながら目を細めていた。

「失礼いたします、凡妃」

 昨日から凡妃につけられた侍女が、側に駆け寄って凡妃を呼ぶ。

「瑠璃帝がお越しです。お支度を」

 凡妃は眠たげにまばたきをして、立ったまま侍女に振り向いた。

「少し早いのよね。お茶を飲む頃がちょうどよかったのだけど」

「は……しかし、皇帝陛下のお越しでございますから」

 凡妃と同い年ほどの侍女は、新しい自分の主人にかしこまりながら頭を下げた。

 凡妃はそんな生真面目な侍女に淡く笑って、いたずらをするように侍女に声をかける。

「わかってるわ。でもね、ちょっと見てて。あの天井の草花はね……」

「シーファ! 何をぐずぐずしているの!」

 壮年の侍女が慌ただしく入って来て、少女の侍女を𠮟りつける。

「お前は宮付きになっただけで、妃様とお話をする立場にはないの! 小娘は水仕事でも片付けてきなさい!」

「はい! 申し訳ありません」

 シーファと呼ばれた少女は頭を下げて謝罪すると、慌てて退出していこうとする。

 ふいに凡妃はゆったりと壮年の侍女を見てたしなめた。

「私も来たばかりの小娘。そうガミガミすると幸運が逃げていきますよ」

「戯れず早くお支度をなさいませ。……居を移させよと陛下が命じただけで、この宮の主でもない平凡妃様が」

 口の端に笑みを浮かべて皮肉った侍女に、凡妃は少し考えたようだった。

 凡妃は部屋の戸口まで行きかけたシーファに、振り向かずに声をかける。

「あなたが昨晩淹れてくれたお茶はおいしかった。今日の席でも淹れてほしいわ」

「陛下にお茶をお出しするのは、わたくしども陛下付きの侍女だけと決まっていますの」

 壮年の侍女はあざけるように言ったが、凡妃はぼんやりした目でほほえんだ。

「うん、ひとまず決められたとおりにしますよ。決まり事はときどき変わりますが」

 凡妃はシーファにこっそり目配せをしてから、裾を持ち上げて壮年の侍女に続いた。

 朝陽がまだ残る頃、瑠璃帝は宝珠宮にやって来た。白い大理石が曲線を描きながら天井から壁まで降りてくる部屋で、瑠璃帝は卓を挟んで凡妃と向き合った。

 瑠璃帝はここに来る前にいくつかの段階を踏んだ尋問を考えてはきたものの、いざ凡妃が口を開くとそれらすべてを忘れてしまった。

「皇帝陛下自らお越しいただくとは、緊張で震えてしまいそうです」

 それを言った凡妃が、あまりに眠そうで緊張感がなかったからだった。

 なんだかふてぶてしい妃だ。しかし罪を問うほど絶対的な非はない。瑠璃帝は多少いらっとして、早急に問題を切り出す。

「よい。……いや、それはそれとしてよくはないが、まず訊きたいことがある。そなたは妖術が使えるのか?」

 凡妃は一度まばたきをして、おもむろに答える。

「眠気覚ましくらいの芸ならば、多少は」

「昨日の側妃たちは眠っていたぞ」

 瑠璃帝が鋭く問いただすと、凡妃は言葉を続ける。

「真面目に話しますと、平凡な術しか使えません」

「術と言う時点で平凡か?」

 瑠璃帝は一息分だけ考えて問いかける。

「わからぬ。どのような災厄が起きるのだ? あるいは、そなたが起こせるのだ?」

「私にもわかりません。ふいにいたずらのように思いついたことをしているだけですから」

「いたずらをするでない」

 瑠璃帝は反射的に子どもを叱るように言ってしまって、平静であれという皇帝の自負を思い出す。

 そもそも家臣に問いたださせるならともかく、皇帝自ら来訪して尋問をしてどうするのだ。そこから既に彼女の術にはまっているような気がして空恐ろしくなる。

 牢獄に入れるのはさすがに哀れだが、後宮に置いておくにも危険だ。早く故郷に帰した方がいいのではと思って凡妃を見ると、凡妃はふいに天井を見た。

 凡妃は感嘆のため息をついて言う。

「さすが、天人に愛された宝珠公主様の宮。今も草花が生きておられるのですね」

 瑠璃帝がいぶかしんで彼女の視線の先を見ると、そこには草花が描かれた大理石の天井があった。

 そのとき、瑠璃帝にはさやさやと風が草花を揺らす音が聞こえた気がした。

 瑠璃帝は息を呑んで、その光景に見入る。

「な……」

 瑠璃帝の目の前で、大理石の天井から草花が伸びていた。実をつけ、花を咲かせながら、光を浴びて生き生きと輝く。

 給仕をしていた壮年の侍女が、茶をこぼして腰を抜かす。

「ひっ、化け物!」

 茶が少し瑠璃帝にかかったが、彼はまるでそんなことを気に留めていなかった。大理石の天井に見惚れていて、ただその瞬間を目に焼き付けていた。

 灰色に朽ちかけていた天井が、色とりどりに染まっていく。そのおかげで、灰色だった記憶も色鮮やかに蘇った。

「……思い出した。あの実は、苺だったのだ」

 瑠璃帝は遠い日に姉君が教えてくれた話を口にする。

「小鳥たちがくちばしでつまんで楽しそうに遊んでいる絵なのだと、姉上は言っていた。ここに座ったのはずいぶん昔だから、忘れていたが」

 瑠璃帝はぎこちなく微笑んで凡妃を見る。

「これもそなたの術か? ……案外、かわいいことをする」

 凡妃は瑠璃帝と目が合うと、戸惑ったように早口に言った。

「か、かわいいとは。いたずらにございます。災厄でも害悪でもありません……あ」

 凡妃は袖で頬をかくと、壮年の侍女の悲鳴を聞いて駆け付けたらしいシーファに気づいた。

 うろたえているシーファに目配せをして、凡妃は言う。

「陛下。天井も目を覚ましたところで、朝のお茶をいただきましょう。私の茶はまずいことで有名ですが、そこの侍女はとても茶を淹れるのが上手なのですよ」

 瑠璃帝は凡妃と天井を見比べて、空恐ろしさとは少し違う感情を抱いた。

 思えば瑠璃帝も、子どもの頃はいたずらばかりしていた。姉が亡くなった頃から、いたずらをする心さえ忘れて勉学に打ち込んできた。今は政務を執ることに夢中で、後宮に足を向ける時間もないと思っていた。

 けれど昨日から突如として現れた、平凡妃という名前の非日常。

 わからぬことは山ほどあるが、わからぬからと遠ざけてよいのか。

「……よかろう。凡妃、共に茶を」

「では」

 瑠璃帝はもう一度天井を見るふりをして、侍女に指示を出す凡妃の横顔を考え込みながらみつめていた。

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