第85話83 魔女と愛する人 3
「……で? 君一人がそんなに幸せそうにしてるって訳だね?」
王太子レストレイは、市長室の横に整えられた部屋でギディオンに対峙していた。
彼はいささか、いや非常に疲労している様子である。髪の輝きがやや薄れ、華やかな美貌がやや陰っていた。
王太子がアントリュースの街に講和使節代表としてやってきてから、すでに五日が経っている。
「いたって普通にしておりますが?」
ギディオンは簡潔に答えた。
「そうかな? 今までの仏頂面を見慣れている者からしたら、まるで別人と対面しているようだけどねぇ」
「お言葉そっくりそのまま、お返しいたします」
ギディオンの言葉に嘘偽りはない。レストレイは目の下に隈を作っているのだ。
「ふん、やっと認めたか」
彼の皮肉にも少しも動じないギディオンに、レストレイは面白くなさそうにそっぽを向いた。
「やってられないね」
王太子はうんざりしたように、金髪をかき上げた。
「御意。私のことはともかく、殿下には大層なご活躍でございます。さすがパージェスの後継、王太子殿下だと感服仕りました。無論私だけではございません」
「そうだろう? ただね、私は満足している訳ではないんだ」
レストレイは実際の戦闘には参加していない。
この街に来てからの五日間、普段の王太子を知っている人から見れば、それこそ別人のような働きだった。
普段の
最初の援軍が西からアントリュースに向かったとき、彼はお飾りの将軍でも構わないから出陣すると言ったのだが、パージェス唯一の嫡子として、その訴えは国王にも、参議達にも認められなかった。
それは予想された事だったので、レストレイも引き下がったが、その代わり直ちに戦後処理の準備に取り掛かった。独自の情報網やギディオンからの報告により、街の様子や戦況を逐一分析する。
さすがに最終決戦の状況まではわからなかったので、講和の条件の草案を三通り作成したところでアントリュース勝利の一報が入った。
そこで待機させていた、千の国軍と近衞を率いて、レストレイは怒涛のようにアントリュースに入場したのだ。
それから五日。
彼は捕虜となっていたチャンドラの司令官タレンはじめ、主だった将官と会見し、チャンドラ国使節との
不眠不休で駆けつけたチャンドラ使節代表は、現太守の甥であったが、太守ターレーンの親書を携えてきた。
それを踏まえてパージェスの出した講和の条件は、ほぼレストレイが考えたものだ。彼は長い間、散発的に続いていた、チャンドラとの争いに終止符を打とうとしていた。
一つ、破壊された城門城壁、市街の補修費用、及び死傷者の家族に対する補償。
一つ、今後、武力を持ってパージェスの国境を侵犯するのならば、平原諸国連合の総意を持って対抗措置をとる。
一つ、チャンドラ船のアントリュース川の付属の運河の通行を許可する。許可船舶は中型以下とし、当面一日に三隻から五隻とする。運河使用量に対しては国際基準の定めたものを支払うこと。
厳しすぎず、緩すぎない、そして恒久性を持つ。
これがレストレイの考える講和の主旨だった。
細かい部分は文官で詰めて、国際的な条文に直されたが、チャンドラはそのすべての無条件で呑んだ。捕虜は全て武装を解き、死者は弔われ、負傷したものには手当てを施した。
そして終に昨日、市庁舎の大ホールで講和条約締結の儀が厳粛に行われたのだ。
それは、レストレイに少々辛辣気味なギディオンから見ても、堂々とした国王の名代だった。
怜悧な美貌と、パージェスの第二正装を優雅に着こなしたレストレイは、勝利者の奢りも見せず、終始威厳と至誠を持って儀式を終えた。
「お疲れ様でございました」
「本当によく働いたよ。すっかりくたびれた」
講和締結後の様々な行事や、書類仕事からようやく解放され、部屋着に着替えたレストレイは行儀悪く長椅子に寝そべった。
「一杯飲みますか?」
ギディオンは琥珀色の強い酒を小さな杯に満たす。
「ああ、ありがとう。だけど君さ、要領よく立ち回っていたよね。主君がこんなに働いているのに」
「心外な。ほとんどいつもお側におりましたぞ」
「公式の場ではね。だけど、終わったらいつの間にか、いなくなっていたじゃないか」
「殿下には優秀な近衞がいるではありませんか。それに私は今回、護衛の任務を仰せつかってはおりませぬ」
「ま、どこに行ったか、何をしていたか、想像はつくけどね」
レストレイはにやにやしながら肩を肩を竦め、酒に口をつけた。
「それも心外でございます。私は負傷者や街の様子を見て回っていたのです」
「負傷者を手当てする娘の様子、だろうに」
「……っ」
これは図星だったと見えて、ギディオンの視線が揺らぐ。もちろんレストレイはそれを見逃さなかった。
「あの子は働き者だからねぇ。今回ウェンダルを伴ってきて良かったよ」
レストレイは負傷者の救護のために、王都から大勢の医者と薬師を連れてきていた。ザザもすぐさまウェンダルのもとで働いている。ほとんど休んでいないはずだ。
「ご配慮感謝いたします」
「ザザの活躍のことも、エーリンク殿やホルバイン殿からあらましは聞いている。だが、実際はそんなもんじゃなかったんだろうね」
レストレイは感慨深げに言った。
「……」
「伝説の大魔女か。王都でフェリアに仕掛けてきた時から、その者のことを調べたけれど……昔の記録がいくつか残っていたよ。あまりに恐ろしくて、ほとんど破棄されていたけれど」
「ええ……恐ろしい魔女でした」
「今回のことで、魔女がまだ生きていたことが皆に知れ渡ったね。悪い魔女は死んだけれど、君の小さな魔女はどうするかい?」
「すでに手は打っております。小さな魔女は魔力を使い果たし、普通の娘に戻ったと、俺の部下たちに噂を流させました。市長や守備隊長殿にも協力を得て、今のところ市民に魔女を糾弾する動きはありません」
それは強ち嘘ではなかった。魔鉱石モルアツァイトを失った今、ザザはただの繋ぎの印を持つ、
「俺はザザをもう危険に晒したくない。今回俺は守られてばかりだった……だがこれからは、あの娘を守るのは俺でありたいのです……」
ギディオンの声と顔つきから、レストレイは察するところがあったのだろう、それ以上は言及しなかった。
「……いつか全部話してくれるかい?」
「そうですね、いつか……ザザと一緒に」
邪悪で残酷な大魔女スーリカと、彼の小さな魔女は死闘を演じた。
今でも思い出すと拳に汗がにじむ。しかし、恐怖と嫌悪だけでは説明できない感情も、ギディオンの中に確かにあった。妄執の奥に秘めていたものは、大叔父グレンディルに対する報われない愛だった。そしてそれが、自分とザザの絆を確かなものにしたのだ。
今は、あの北の洞窟で安らかに眠れとしか思えない。
ザザもそう願っている。俺たちの想いは一つになったのだから。
「……ディオン、ギディオン!」
呆れたようなレストレイの声で、ギディオンは我にかえった。
「は! ご無礼いたしました。なんでしょうか?」
咄嗟に気をつけの姿勢をとった彼に、レストレイはもう一度大袈裟に肩を竦めた。
「やれやれ。私の騎士がそんな顔ではもう仕事にならないね。行っておいでよ、お前の行きたいところにさ」
「は。それではお言葉に甘えさせていただきます」
「おいおい、そんなにさっさと言うことを聞くなよ。これを」
素直に頭を下げて背中を見せた男を、レストレイは呼び止める。
「疲れているだろうからね。これを持っていっておやり。お前にはこれだ」
そう言って差し出されたのは、小さな箱に入った菓子と、レストレイが今飲んでいる酒の小瓶だった。どちらも滅多にない高価なものだ。
「お心遣いに感謝を。では!」
それらを受け取ると、深く一礼してギディオンは部屋を出ていった。
「やれやれ。あの男があんなに素直になるなんてねぇ。人にとっては戦よりも恋の方が厄介なのかもしれないな」
レストレイはそう呟いて、杯の酒を飲み干した。
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