第10話 9 魔女と太陽 3
湖の離宮は、ザザの家とは反対側の森の向こうにあった。
離宮より更に西にパージェス古王国の王都、パレスがある。
そこは広い丘陵地帯で、森の泉よりもずっと大きな湖が青々とした湖面を湛えている美しい場所だった。
なだらかな丘の上にその城は建っており、城壁はなく、丘のふもとには湖から水を引いた堀がある。水が豊かなところなのだろう。
城自体は大きなものではないが、白と紫を基調とした古風な作りで、四方に小さな塔がある。
ザザは知る由もないが、有名な築城家の手によるものらしい。
五年も森の中に住んでいながら、こんなお城があるなんて全然知らなかった……。
堀にかかる小さな橋を渡ると大勢の出迎えがあり、低い緩やかな階段が城の門に向かって伸びていた。人々はフェリアの輿を先頭にどんどん進んでいく。ザザが初めて見る城に圧倒されている内に他の騎士たちも続く。ギディオンが最後尾だった。
階段を登りきったところに
最後に残ったのはフリューゲルである。彼はギディオンとザザを見比べて言った。
「私にできる御用はございませぬか?」
「ありがとう。だがこの娘は私が面倒を見るから、お前は先に
「はい」
ギディオンが入ったのは正面の入り口ではなく、側面の小さな出入り口からだ。長い廊下の先にたどり着いたところは北の塔の下の小さな部屋だった。周りは空き部屋だらけで東の塔の近くがギディオンの部屋だという。
「当分の間、一人でこの扉から外へ出ないように。後で侍女を寄こす」
ギディオンはザザを部屋に放り込むと、すぐに出て行ってしまった。
「……」
ザザは新たに自分の住みかとなった空間を見渡した。
縦に長い窓が一つ。ついたての向こうに
有り体に言って、森の家と家具の数はそう変わらなかったが、離宮というだけあって、部屋はこじんまりと綺麗だった。寝台や窓に上質な布もふんだんに使われている。床には敷物が敷いてあった。
少ない荷物を箪笥に片付けると、もう何もすることがない。
仕方がないので、ザザは窓から外を眺めた。丘の上なので、なだらかな丘陵地帯がよく見えた。ここからは見えないが陽が西に傾いているのだろう。湖の端っこが紫色に染まっている。
夏の長い一日が終わろうとしていた。
なんと言う一日だったんだろう。
泉でおぼれた王女を助けようとして、自分もギディオンに助けられた。彼が主だと魔女の血が告げ、離れがたい想いが突き上げるのに任せ、住み慣れた森を出てここまで来てしまった。
森で薬草を摘んでいたのは、つい今朝のことだったのに。
私の知らない世界がこんなにも近くにあったんだわ。
そこにノックの音がした。
ザザにとってはノックというものも初めての経験だ。
多分、今から入りますよという合図なんだ。
しかし、誰も入ってくる様子がない。ザザが緊張して待っていると、再び今度はやや強めのノックがあった。
もしかしたら、私がドアを開けなくてはならないのかも!
そう思ったザザは慌てて扉に突進する。
勢いよく開けた扉の向こうには、驚いた顔をした若い女が二人立っていた。一人は背が高く、一人は低い。
「あっ! こんにちは! すぐに開けなくてすみませんでした」
「は?」
「わたしはザザ、ザザ・フォーレットと申します」
ザザはギディオンがつけてくれた姓を誇らしい気持ちで名乗った。
が、二人はまだぽかんとしている。
「えっと……あなたがたはどなたですか? わたしに何かご用でしょうか?」
「あ、失礼しました。私はキンシャ、こちらはセリカでございます。ギディオン様に命じられてザザ様のお世話に参りました」
背が高い方の女が言った。ギディオンが言っていた侍女とはこの二人のことなのだろう。
「そうですか……。ところでお世話とはなにをするのでしょう?」
二人の侍女は顔を見合わせ、キンシャがあきれた様子で言った。
「はい、まずは入浴を。こちらにおいでください」
「にゅうよ……お風呂のことですか? でもわたし、泉に入ったから綺麗なんです」
「言うことを聞いていただきます。こちらです、召使用の浴室ですけど、今は誰も入っておりません」
そう言って連れてこられた浴室はかなり大きな部屋だった。天井近くに設けられた窓から、赤い陽が射しこんで白いタイルと立ち昇る湯気を染め上げている。
湯はふんだんに沸いていた。手前の小部屋が脱衣場になっていて、ザザはそこで裸にひん
「まぁ、なんてお痩せになっているのでしょう!」
声をあげたのはセリカという背の低い侍女だ。
「それになんて貧弱なお召し物、下着はまるで男物のようですわね。これはもう全部捨ててしまいましょう。違うものを用意しましたから。いいですね?」
ずけずけと言ったのはキンシャだ。
「あ! だめです! 捨てないで!」
キンシャが腕に抱えた服の入った籠を、ザザは必死で押さえた。みすぼらしくてもこれは魔女の正装だ。ドルカから受け継いだものでもある。
「お願いです! どうか捨てないでください」
「まぁ、なんだか私が悪者みたい。でも、こちらではこんな服は着られませんよ。軍服ならいざ知らず、飾りのない黒い服など葬儀の時に着るだけです」
「でも捨てないでください。大切な服なんです。それから、あなたは悪者ではありません」
ザザの言葉に再び二人は顔を見合わせた。
「わかりましたわ。では洗濯場に持って行って、洗ってもらったらお部屋に届けます。そんな必死な顔をなさらないで」
「……はい。ありがとうございます」
キンシャは軽く会釈をすると、籠を持ってすたすたと行ってしまった。
「あら、それは装飾品ですか?」
ザザが首にかけている皮紐を見つけたセリカが声をかけた。
「お外しになった方がよろしいのでは? お湯につけて大丈夫ですか?」
「大丈夫です。金属は使われてないので」
ザザは石を握りながら言った。セリカはそれ以上気にしなかった。
「では浴室にどうぞ、ザザ様。入浴用の道具の使い方はご存知?」
ずらりと並んだ瓶に様々な大きさの布、そしてブラシのようなものが並んでいる。
「……わかりません」
「ではお教えしますわ。まずはざっと温まります。それから洗髪液で髪を洗って、洗い終えたらこちらを髪にしみ込ませ、ざっと流します。次にお好みの硬さの布かブラシで全身をくまなくあらいます。最後にゆっくりお湯につかるのです。もし熱ければこちらにぬるめの浴槽や、体にかける水もあります」
「は、はい」
こんな大量のお湯に浸かるのも初めてだったが、石鹸にも種類があって、体と髪で違うものを使うことも驚きだった。
おまけにすっかり綺麗になったと思ったのに、湯から出て、体を拭いてから使う香油にも体用と髪用があって、両方とも丁寧に擦り込まなければいけない。
「毎日こんなことをするのですか?」
入浴に時間などかけたことのないザザが、
「もちろんですわ。王家に仕えるものは、たとえ侍女といえども体をいつも清潔に
「しょ、省略することはできないのですか?」
「さぁ、よほど事情がある場合は別ですが、宮ではみっともないことはできませんから。あ、髪を拭くのはこちらの布です」
沸かされた柔らかい布は水分をよく吸ってくれた。しかし、魔法で風で起こして乾かすようにはいかない。ギディオンに魔法は厳しく禁止されているのだ。
ザザはおとなしく髪を拭いたが、濡れると海藻のようにべったり張り付く自分の髪が嫌いだった。
「最初だから特別にやってあげますよ」
そう言ってセリカが髪に揉みこんでくれたのは、柑橘系の香りがする香油だった。
「長いのにずいぶん痛んでいますね。でもこれから毎日きちんと手入れをすれば、もっと艶が出ますよ。ザザ様のような深い色の黒髪は、この国では珍しいのです。黒髪を嫌う人もいますが、私はいいと思います。大事になさいませ」
「……ありがとう。でも、私は貴族ではないし、偉くもないので様はいりません。ただのザザとお呼びください」
「わかりました。ではザザ、入浴の仕方はこれでわかりましたか?」
「はい」
「今夜はこれを着てください。お部屋に戻れば寝間着が用意してあります。お夕食は今日はお部屋で、明日からは多分、私たちと一緒に頂くことになります。では今夜はこれで」
一礼してセリカは脱衣場を出て行ってしまった。それへ頭を下げると、ザザは用意された下着と服を身につける。
下着は白い木綿で、腰を紐で結わえるところは同じだが、今まで自分が着ていたものより丈がうんと短い。しかもタックやレースがつけられた上質なものだ。
綺麗……下着なのがもったいないくらいね。
そしてその上に、これまたレース付きのシュミーズを着てから簡単な紺色の服を着た。すとんと頭からかぶってから、胸のあたりで紐で結わえるように細い帯がついていた。
こんなに上等の服を着たのは初めてなので、本当に自分が着てもいいのかと、どきどきしながら廊下に出ると、外はすっかり暗くなっていてあちこちに明かりが灯されていた。
なんだか別の場所みたいだ。
どこかで廊下を曲がり間違えたようである。床の模様が同じなので気が付かなかったのだ。歩いても歩いても自分の部屋にたどり着かない。
あれ? なんで突き当たり?
そこには大きな二枚扉があった。
間違えたことに気がついて慌てて振り向いたザザは、急に開いた扉にお尻をべんと打たれてしまった。
「きゃっ!」
「なんだ?」
そこには不愉快そうに眉をひそめたギディオンが立っていた。
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