第3話 2 魔女と騎士 2
ざわざわざわ。
髪が逆立ち、皮膚が粟立つ。
いや、ざわつくのは体ではなく、心なのかもしれない。
あまり自分について考えたことのないザザには、何かが激しくあふれる感覚に
「ああ……」
無意識に喉の奥から苦鳴が漏れた。
それは苦しいような、快感のような、とても強いうねり。
皮膚が粟立ち、体がこわばる。それにザザは爪先立ちになって耐えた。生まれて初めての感覚だった。
「く……は」
がくりと膝から力が抜ける。
べたりと地面に座り込み、肩で息をしながらザザは、奇妙な感覚が少し収まってくるのを感じた。
と、同時に別の、今度はすごい勢いで接近する生き物の気配を捉える。
これは……熊でも狼でもない。
こんな大きな生き物の気配は久しぶりだ。なんだろう?
大きくて早いなにかがすごい勢いでこっちにくる!
ザザは食べかけのパンを放り出し、転がるように斜面を駆け降りた。
何度も足がもつれたが、早く早くということしか頭になかった。泉がどんどん目の前に迫ってくる。
「あなたはどこ? どこにいるの⁉︎」
なぜ自分がそんなことを叫んでいるのかもわからない。こんな大きな声を出したのは何年振りだろうか? しかし、足は止まらなかった。
勢い余ったザザのつま先が泉の水に触れた時、背後からどかどかと何かを踏みつける鈍い音が聞こえてきた。
だしぬけに目の前の下生えが二つに割れる。
「あ!」
飛び込んできたのは白い大きな獣──馬だ。
馬は泉の手前で急に体を捻り、激しく向きを変えた。そのせいだったのだろう、馬の背中から何かが勢いよく泉の中に突っ込んだ。激しい音とともに、大きな水しぶきが上がる。
馬はそのまま泉の周りをものすごい勢いで駆け去った。しかし、ザザは馬には目もくれず、泉に落ちたものへと水を蹴って走り出した。
水面に浮いている大きな布の塊。それはザザが今まで見たこともないような綺麗な桃色で、その先端に金色のふわふわしたものがくっついていた。
つまりこれは人間で、浮かんでいるのは膨らんだ服と金色の髪なのだ。
ひ、人だ! 人がうつ伏せに浮いてる!
ザザはそのまま泉に走り込んだ。
ばしゃばしゃと水しぶきがあがる。
水は青く冷たく、そして深かった。岸辺からほんの数歩で、いきなり水底が急な斜面になっているのだ。
ザザに泳いだ経験はない。しかし、迷っている暇はなかった。浅瀬から深みへと飛び込み、水を吸って沈みかけるドレスに思い切り腕を伸ばした。たっぷりした布地に指先が触れたので、もう一方の腕で水を掻いてしっかりと掴む。
「よし!」
そのまま自分の方へ引き寄せたのはいいが、今度は踏ん張る足元がなかった。泉はザザの身長よりも深かったのだ。ザザは思い切り水を飲み、息が詰まった。
幾重にもかさ張る布地を抱きしめると、その中心に華奢な骨格が感じられた。顔が水に浸かっているので、息をさせようと必死で持ち上げる。
服の中に幾分空気が入っているのか、ザザの試みはなんとか成功するが、その分自分が沈んでしまった。
「ふぐぅ」
両足で水を蹴ってなんとか水面に顔を出し、口を開けても再び容赦無く水が侵入してくる。咳き込むと今度は鼻から水を吸い込む。
苦しい、怖い。でも、諦めるわけにはいかなかった。
ああ、私にはこの人を支える力がない!
そうだ、今こそ!
魔法を! 魔法を使わなきゃ!
『ザザ。人前で魔法は使うんじゃないよ。下手に使って殺されたり、追放された魔女をあたしは何人も知ってるんだ。そのくせ奴らは、どうしようもない
ドルカの言葉が脳裏をよぎる。
もしかしたらザザは、ドルカの言いつけを破ろうとしているのかもしれない。しかし、ザザにはこの桃色の
風を、風を呼んで、ほんの少しでも水を吹き飛ばせたら!
ザザの魔力は低い。普段は小さな風を起こして、暖炉の火を焚く程度の風しか使うことはない。
『だけど、魔法は私らの命なんだよ。魔力が亡くなれば魔女は死ぬ。あんただって、いつかもっと大きな魔法が使えるようになるかもしれないんだ。いいかい? 額に気持ちを集めるんだ。そう、そうだよ。集中すればするほど大きな魔法が使える。額に力を込めるんだ』
額。額に!
ザザは絶え間なく流れ込む水にもがき苦しみながら、額に全神経を集中させた。
この声がとどかば風よ、我が命に従え! 水を抑え、従わせよ!
ザザの額にうっすらと結び目の文様が浮きあがる。魔女の印だ。
しぶきの飛び交う
うまくいった!
これで抱えている人間の呼吸が楽になるだろう。あとはなんとか浅瀬に戻るだけだ。しかし、ザザの体力は尽きようとしていた。額に力を込めるあまり、自分がほとんど呼吸をしていなかったのだ。
視界が
なんとかこの人だけでも、風で浅瀬に送り届けなければ。
「力を! ……さま!」
ザザは誰の名を呼んだのかわからなかった。この人間を助けることで頭がいっぱいなのだ。最後の力を振り絞る。
「我に従え! ああああ!」
ザザは空に向かって叫んだ。
そしてそれはやっぱりだしぬけに起きたのだった。
ものすごく力の強い何かが、気を失いかけているザザの腰に巻きついてきた。
「え?」
「フェリア様!」
溺れかけていると言うのに、その声はなぜか、ザザの
意識が途切れる寸前、ザザは見た。
濃い色の髪をした男の鋭い横顔を。
ああ……この人だ。この人なんだ!
ザザの思考はそこで途切れた。
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