第五話
意識の遠くで、何やら優雅な音楽が流れている。
騒めきの中に混ざる人の話し声。
意識がゆっくりと浮上するのを自覚しながら、アリーチェは目を覚ました。
同時に直前の記憶を思い出して、殴られた後頭部を咄嗟に触れる。けれど痛みはなく、手袋に血が付いただけだった。
(見えないけど、特に傷はなさそう? どうして……)
確かに硬いもので殴られたはずなのに、と思ってすぐに心当たりに視線を移した。レイビスからもらったネックレスだ。これには持ち主が怪我を負った際、回復魔術が自動的に展開される魔術式が組み込まれている。魔術事故の真相を突き止めただけにしては高い報酬で、もらった当初は返そうかと思ったくらいだったが、今回はこれに助けられたようだ。
(それにしても、ここ、どこ?)
だんだん目が慣れてきて、暗くて狭いところにいることを把握する。
アリーチェはベンチに座らされ、壁にもたれるように寝かされていたらしく、正面にはカーテンが閉まっていた。
その隙間から漏れる光と、聞こえてくる音楽や騒めきから、なんとなく学園ではないような気がした。
立ちがあって、そっとカーテンをめくってみる。
その先に広がったのは、煌びやかな照明の下で華やかなドレスを纏う淑女たちと、彼女たちを優雅にエスコートする紳士たち。
中央のダンスホールでは曲に合わせて男女が踊っている。一角では豪勢な料理が提供され、また別の一角では音楽隊が見事な演奏を披露していた。
この世のものとは思えない、優美な世界。
(ここってまさか、王宮――!?)
眼前に広がる光景は、どうみても舞踏会だ。そして今宵、王宮で舞踏会が開かれることをアリーチェは知っていた。
会場の規模からしても王宮で間違いないだろう。
問題は、なぜ頭を殴られて連れて来られた先が王宮なのかということ。
それも、舞踏会の
「ようやく目が覚めたか、愚図め」
「!?」
カーテンの裏に隠れて様子を窺っていたアリーチェは、急に現れた男にびっくりして反射的に逃げようとした。
しかしそれより早く両腕を拘束されてしまい、会場へと引っ張り出される。
眩しい照明の下に身を晒されたアリーチェは、抵抗も虚しく男に会場の中心へと連行されていく。魔術で抵抗するには人目がありすぎた。
そもそも、王宮での魔術使用には許可がいる。白いローブを着ていない今のアリーチェがここで魔術を使えば、最悪王族への謀叛を疑われて捕らえられる可能性だってなくはない。
(いったい誰……?)
逃げることを最優先にしたアリーチェは、自分をこんな目に遭わせている人物の顔をまだ見ていなかった。
そこでようやく顔を上げ、相手を確かめる。
その瞬間、アリーチェはひゅっと喉を鳴らした。一番会いたくなかったヴィッテ侯爵がいた。
舞踏会に参加している人々は、異常な様子のヴィッテ侯爵を避けながらも、好奇の視線を侯爵とアリーチェに向けてくる。
たくさんの視線に晒されて、また自分の腕を掴んでいるのが侯爵だとわかって、身体から吹き出る嫌な汗が止まらない。
足がもつれて転けそうになるたびに、侯爵が苛立たしげに腕を強く引っ張ってくる。
「ねぇ、あれってノートルワール学園の生徒じゃない?」
「ヴィッテ侯爵令嬢ではないわよね?」
「おいあれ、アリーチェ・フランじゃないか?」
「知ってるのか?」
「クラスメイトだよ」
「どうなってるんだ?」
様々な声が聞こえてくる。端から始まったどよめきが、まるでヴィッテ侯爵の残り香のように歩いた後ろで広がっていく。
アリーチェはもう抵抗なんてできなかった。無数に刺さる視線が、人々の声が、アリーチェを萎縮させる。
とん、と侯爵の足が止まった。
いったい何が起きようとしているのかわからないアリーチェを、侯爵が無理やり前に出させる。
「ごきげんよう、レイビス殿下」
「――!?」
対面させられた相手に、アリーチェの身体が強張った。
制服とも、私服とも違う華美な服を着こなし、鋭い銀の瞳でまっすぐこちらを見てくるのは、アリーチェが誰よりも過去を知られたくない人――レイビス・ド・サンテールその人だ。
その隣に可憐なドレスで着飾ったナタリーがいて、二人は腕を組んでいた。噂を裏付けるような光景に胸がぎゅっと締めつけられる。レイビスの瞳がまるで別人のように冷ややかなのも、アリーチェの心を切り裂いた。
レイビスが鷹揚に口を開く。
「ヴィッテ侯爵。いくら侯爵とはいえ、招待状のない者を入れるのは感心しないな」
その声は存外会場中に響いた。誰もが成り行きを見守ろうと閉口し、いつのまにか音楽隊まで楽器を下ろしていたせいだろう。
冷水を浴びせるような声音に、アリーチェは顔を上げられずに足を震わせる。
「いいえ、殿下。招待状はなくとも、殿下は私がこの者をここに連れてきたことをお褒めになることでしょう。なぜなら、この者は我が娘――殿下の愛する者を危うく殺そうとした女なのですから!」
ざわざわっと会場が一瞬で騒がしくなる。様々な臆測が飛び交う中、アリーチェは自分の呼吸に集中していた。そうしなければ今にも倒れてしまいそうだった。
過去をレイビスには知られたくないのに、止めることもできなくて、制服の上から胸を押さえる。
「俺の、愛する人を?」
「ええ、そうです! この者は黒の
ひゅー、ひゅー、と喉から変な音がする。これ以上彼とナタリーの仲を知りたくなんてないのに、侯爵は容赦なく見せつけようとしているのだ。アリーチェに。そしてアリーチェを利用して、この場にいる貴族たちに。自分の娘がどれだけレイビスの愛を得ているのかということを。
ああ、吐き気がする。気持ち悪い。耐えると決めたはずなのに。酸素が足りない。何度息を吸っても、全然足りない。
(い、きが、くるしっ……)
そのとき。
「ねぇ、今のって」
「やっぱりそういうことよね?」
「ああ、そのはずだ」
観客気分で注目している貴族たちの囁きが、耳に集まってくる。
その声たちが、アリーチェの耳元で一斉に揃った。
「「「黒の魔導書ということは、彼女が〝十三番目の魔女〟なのか――?」」」
(あ……はっ……うぅっ)
――ガァンッ!
過呼吸の一歩手前まで来たとき、誰もが戦慄するほどの重い衝突音が轟いた。まるでろうそくの火を吹き消したように会場から雑多な声が消える。
人々の視線は轟音の犯人であるレイビスに集まっていた。彼は腰に
けれど、その止まったのが良かったのか、次に吐いた息から呼吸がしやすくなっていた。
レイビスと視線が交差する。そこに冷徹な色はない。いつかのときのようにアリーチェを心配する色が滲んでいた。
まるでそう、夢の中での彼と同じく「大丈夫だ」と言ってくれているみたいに。
「いいだろう。社交の場を混乱させてまで望むのであれば、侯爵の言うとおり、俺の愛する者のために容赦なく裁きを与えてやる」
「おお! さすが殿下でございま――っ、え?」
ヴィッテ侯爵が虚を衝かれたように目を丸くした。娘のナタリーも、父親の腕の中で「え?」と理解できていないように固まっている。
それもそうだろう。なにせ、隣にいたナタリーを侯爵に押しつけ、侯爵の手から奪うように彼に引き寄せられたアリーチェも、何が起こったのか理解できなくて目を点にしたのだから。
肩をしっかりと抱かれて、アリーチェはレイビスを横から見上げた。
そこには今まで見たことがないくらい眉間にしわを寄せて怒りに燃えるレイビスがいて、アリーチェは別の意味で身体をびくつかせた。
「ピエール・ヴィッテ侯爵、ならびにナタリー・ヴィッテ侯爵令嬢。おまえたちがこれまで行ってきた犯罪の数々を、王家が把握していないとでも思ったか?」
「――!?」
「脱税、誘拐、私文書偽造に傷害と殺人。証拠は揃ってるぞ」
「お、お待ちください殿下っ。何を仰ってるんですか!? 殿下の愛する者は我が娘でしょう!?」
「そうですわ、殿下! そんな薄汚い孤児ではなくて、わたしでしょ!? 舞踏会のパートナーにもわたしを選んでくださったじゃない! それにわたしだけに微笑んでくださったわ! 他の女なんて見向きもしない殿下が! わたしを婚約者にしてくださるんじゃなかったの!?」
アリーチェはきゅっと唇を引き結んだが、レイビスは意外にも鼻で笑った。
「婚約者だと? ひと言もそんな話をした覚えはないな。そちらが調子に乗って勝手に作り上げた話だろ? 笑ったのは、俺が仕掛けた罠にあまりにも簡単に落ちてくれたからだ。親孝行な娘を持ったものだな、ヴィッテ侯爵。こちらが入手した証拠のいくつかは、おまえの娘が在処を吐いてくれたものだぞ」
「な……!?」
ヴィッテ侯爵が娘に視線を移すと、ナタリーは血の気の引いた顔で小刻みに首を横に振っていた。
「アラン」
「は」
カツン、と靴音がした方に目をやれば、こちらもまた見慣れない煌びやかな格好をしたアランが現れ、レイビスの差し出した手に筒状の紙を渡した。
アリーチェの視線に気づいたアランが、お茶目なウインクをしてくる。
「つい先ほど法務省から発行された逮捕状だ。せっかく人が最後の晩餐くらいは許してやろうとしたのに、そんなに早く牢にぶち込まれたかったなら要らない温情だったな」
レイビスが右手を一振りすると、近衛兵が一斉にヴィッテ親子を取り囲んだ。
「さあ、お望みどおり、俺の愛とやらを存分に知らしめてやろう。こいつを傷つけた罪は死より重いと思え」
その言葉を合図に、抵抗して暴れる親子を近衛兵が拘束し、強制的に会場の外へ連行していく。
連れ去られる親子は兵に文句を撒き散らしていて、ナタリーなんかは化粧がぐちゃぐちゃになるくらい泣き喚いていた。それでも非情なほど無視されている様子を見て、アリーチェは自分の肩から力が抜けていくのを感じる。
あの頃、同じようにどんな抵抗も無視され続けた自分を思い出して、でも今は自分ではなくヴィッテ親子が同じ目に遭っているのが、たぶんおかしかったからだろう。あんな人たちの何を怖がっていたのだろうと、呪縛が解けたような心地だ。
人の不幸を見てこんなことを思うなんて、自分は性格が悪いのかもしれない。
それでも、彼ら親子を庇いたい気持ちは一切浮かばなかった。
「さて――騒がせて申し訳なかった。舞踏会はこのまま続ける。皆はこのあとも楽しんでくれ」
レイビスは会場に向けてフォローを入れると、アランと内緒話をするように言葉を交わし、それからアリーチェの腰に手を回して歩き始めた。
人々の注目はまだ自分たちにある。
けれどそれを気にも留めず、彼はそのままアリーチェを連れて会場を後にした。
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