第三話


 結局、アリーチェの社交界デビューは白紙に戻り、デビュタントは何事もなく終わったらしいと聞いた。

 ここから社交シーズンが始まり、貴族の生徒たちは連日のように舞踏会やら夜会やらで忙しそうだ。アリーチェは参加したことがないので実際のところは知らないけれど、アンヌ=マリーに聞いた話によると、それらパーティーは夜遅くまで開かれるのが普通らしい。

 だからか、クラスメイトの中には寝不足の人も多いように見受けられた。といっても、さすがに学生の身でパーティー終了まで参加する者はいないようだが。

 そもそも寮の門限があるので、生徒の大半が時間までには帰ってくる。

 シーズンが始まって、何が劇的に変わったかというと、クラスメイトの話題だ。

 みんな昨夜はどこそこの舞踏会に行って、そこではこんなことがあって、とパーティーが終わったあとでもそのときのことを話題にする。

 アリーチェは結局クラスメイトから遠巻きにされているので、聞こうとしなくても聞こえてくる話に自然と耳が傾いてしまう。

 やはり一番人気があるのは、王宮で開かれる舞踏会のようだ。

 そこでは普段滅多に会えない王族や上級貴族も参加するらしく、王宮でのパーティーに参加できることは一種のステータスのようになっているらしい。

 男子も女子も、みんなだいたい同じ人の話で花を咲かせるので、参加していないアリーチェでさえ社交界のことに詳しくなっていく。

 その中でも、『レイビス殿下』『ランベルジュ公子』『アヴリーヌ嬢』はアリーチェでも知っている三人だ。

 三人の素晴らしい噂を耳にするたび、自分のことのように嬉しくなる。

 けれど、レイビスの噂には、たまに胸が痛んだ。

 どこの令嬢と踊った。どこの令嬢と親しげだった。

 アリーチェの視界は気づけば机のブラウン一色で、モヤモヤを吹き飛ばすように首を振る。

 実は、今は社交で忙しいアンヌ=マリーなので、放課後のマナーレッスンは一時休止中であり、そうなると、自然と彼らと会う機会が減ってしまっている状態だ。

 だからレイビスとも、もう二週間は会えていない。

(寂しい、なんて。だめだよね、思っちゃ)

 レイビスへの想いは、今もまだ答えを出せずにいる。

 いや、答えは明らかだ。アリーチェ自身も本当はわかっている。

 わかっているけれど、どうにも踏ん切りがつかない。

 彼と恋人になれるとは思っていない。この二週間で、本当に遠い人なのだと改めて実感すればするほど、想いを告げることすらできないのだと気づかされた。

 ただ、えなくても、自分の中で大事に抱えておくことはできる。アリーチェはそれを自分に許すかどうかで悩んでいる。

(リーシャ……わたし、嘘は下手だから、それでも聞いてくれる?)

 楽しくない話を。

 ただの醜い嫉妬の話を。

 叶わない悲しい恋の話を。

(学校って、やっぱり、怖いところだ……)

 色んな感情に振り回される。以前は悲しいことや苦しいことばかりで、こんなに心の浮き沈みは激しくなかった。浮くことなんてほぼなかった。

 それはそれでもちろん辛かったけれど、喜びを知ったあとに絶望に突き落とされたり、心が浮いたあとに悲しみに沈められたりと、感情の起伏が激しいほうがより心が摩耗することを経験した。

 どちらの人生のほうがいいかなんて、正直わからない。

 でも、レイビスのいない人生は、もう考えられないような気がする。

(ねぇリーシャ。もしあなたが、こんな話でも聞いてくれるなら、わたし……わたしは――)

「ねぇ、聞いて! やっとわかったわよ、あのご令嬢の正体」

 すぐ隣でいきなり大きな声を出されたので、アリーチェはびくっと反応したあと、思考の底から浮上した。

 もうすぐホームルームの時間だ。

「ヴィッテ侯爵令嬢よ! しばらく家の事情で音沙汰のなかった、ナタリー・ヴィッテ嬢!」

 ――ドクンッ。

 心臓が嫌な音を立てて跳ねた。

 ドクン、ドクン。

 ごくりと息を呑む。まさかこんなところでその名前を聞くなんて。

 ドクン、ドクン、ドク、ドクドッドッドッ――。

「え? じゃあもしかして、レイビス殿下はナタリー嬢との婚約を決めたってこと?」

 ――ッド。

 心臓が、止まったと思った。

 ひゅっと喉が鳴る。息がうまく吸えない。思い出す、あの屋敷での日々。

「でもヴィッテ侯爵って、本当にしばらく社交界から遠ざかってたじゃない? なんでそんなところと、急に?」

「それがね、わたしの従妹が今回のデビュタントに出たから聞いたのだけど、そのデビュタントのときに、殿下が令嬢を見初めたらしいの。でもこう展開が早いと、本当は前から好い仲で、諸々整う前に邪魔されないよう表舞台から姿を消していたんじゃないかって、一部ではもっぱらの噂よ」

「それで今回、整ったから出てきたってこと?」

「そう! 絶対そうよ! しかも中等部で見かけた子もいるみたいよ」

 身体がガタガタと震え出す。

 彼女たちの話をこれ以上耳に入れたくないのに、隣のアリーチェの様子にも気づかず彼女たちは楽しそうに喋り続ける。

 本鈴をこれほど待ち望んだことはない。

「あら? でも待って。そういえば殿下って、アヴリーヌ様と婚約してなかった?」

「だから、今じゃそれが〝フリ〟だったんじゃないかって噂なの。殿下の虫除けとして、アヴリーヌ様が協力したんじゃないかって」

「え!? じゃあ実質、アヴリーヌ公爵家がヴィッテ侯爵家を支持したってこと?」

「そうなるわね」

 そんな。違う。そうじゃない。アリーチェは心の中で反論する。

 確かにアンヌ=マリーはレイビスの婚約者のフリをしていた。でもそれは、ナタリーのためじゃない。レイビス自身のためだ。

 そう思うのに、頭の片隅には「本当にそうなの?」という思いが掠めた。

 だって彼女たちの言うことも、現実にありえそうで筋が通っている。

 もう何がなんだかわからなくて、ナタリーの名前も久々に耳にして、感情がコントロールできそうにない。

(だめ……だめ……っ。こんなところで、暴走できない……!)

 次々に浮かんでは脳を埋め尽くしていく、ヴィッテ侯爵とナタリーの顔。彼らにされた仕打ち。

 そして最後に見た、ヴィッテ侯爵の開き直ったように嗤った顔が、もう、だめだった。

 制服が下から風を受けたようにふわりと舞い、ようやくアリーチェのただならぬ様子に気づいた二人がぎょっとこちらを見やる。

 アリーチェは自身の身体を掻き抱くように背中を丸めると、魔力が暴走する前に咄嗟に小さく呪文を唱えた。

(わたしはもう、二度と、誰もっ――)

 誰にも気づかれないよう展開した魔術は、自分で自分の意識を奪うもの。

 ガターンッと教室中に派手な音を響かせて、アリーチェは椅子から転げ落ちるように倒れたのだった。


 *


『――えちゃん。お姉ちゃん。お姉ちゃん』

 懐かしい、妹の声が聞こえる気がする。

 心配そうな声。自分のほうが病気で辛いはずなのに、妹はいつもそうして鈍臭い姉の心配をしてくれた。

『お姉ちゃん、起きて。目を――』

「――目を覚ませ、アリーチェ」

 妹の声が急に低くなって、でもアリーチェは特に驚かなかった。

 その声を知っていたからだ。その声の主が信頼している人だとすぐにわかったから。

 ゆっくりと瞼を押し上げる。眩しい光が目に入り込み、一瞬だけ眉根を寄せた。

 真っ白だった。ここはどこだろうと思った直後、視界いっぱいにレイビスの顔が映る。

 まるで妹と同じような心配顔に、アリーチェはこれが夢だと思った。真っ白な世界が、余計にそう思わせた。

「でん、か……」

「! アリーチェ、良かった……目が覚めたか」

 横になっているところを優しく抱きしめられて、やはり夢に違いないと確信する。

 夢なら、彼の背中に自分も手を回していいだろうか。今はとにかく彼に縋りたかった。怖いものから目を逸らしたかった。

「夢なのに、あったかい……」

 その温もりに安心する。心にまでそれがじんわりと沁み込んできて、それまでは冷えていたのだと知った。

 ああ、なんて落ち着く温かさだろう。

「でんっ、か……っ」

 大きな背中。逞しい身体。清潔感漂う爽やかな香り。

 そのどれもが愛しくて、愛おしくて、ずっとこうしていたい。

「今だけ、ごめんなさい。今だけ、だから。起きたら、ちゃんと、するから」

 夢でも涙は零れない。洟をすすって、こんなに弱い自分が嫌になる。

「アリーチェ」

 脳を痺れさせる甘い声が、直接耳に吹き込まれたような感覚がした。

「大丈夫だ。そんなこと、気にしなくていい。ちゃんとしなくていいから、辛いときは好きなだけ頼れ。俺はおまえの友人なんだろ? 俺だけが、おまえの友人なんだろ?」

 頷いて応えた。アリーチェには彼だけだ。

「でも、迷惑じゃ……」

「友人になら、どれだけ頼られても迷惑なんて思わない。ただ、その代わりじゃないが、俺以外の奴の言葉は信じるな。他の奴がどんな噂をしようとも、鵜呑みにするな。俺にもおまえだけだから、これだけを覚えててほしい」

「わたし、だけ……?」

「ああ。これがたとえ夢の中でも、信じろ、俺だけを」

 命令形なのに、それはまるで乞うような響きを孕んでいた。

 アリーチェはもう一度洟をすすると、返事をするように彼の背中に回していた腕に力を入れる。

 夢なのに、感触がしっかりとあって、不思議な気持ちになる。

「ずっと、こうしてられたら、いいのに」

 レイビスが吐息を吐くように笑った。

「もともと素直な奴だが、夢だと大胆だな」

 だって、夢なら誰にも迷惑をかけない。夢なら何をしても許されるから。

「じゃあ俺のこれも、許せよ」

 そう言って、レイビスがこめかみにキスをした。夢で心臓が止まりかけたのは初めてだ。

 アリーチェの様子を窺うように彼が少しだけ身体を起こしたが、口をぱくぱくとさせるだけで特に嫌がっていないところを見て、くすりと微笑む。今度は額に柔らかい感触がして、アリーチェはされるがままだった。

「よく、我慢したな」

「え?」

 彼のキスに戸惑いながらも、アリーチェは首を傾げた。

「よく自分を止めた。おまえは偉いよ、アリーチェ」

 なんのことを言われているのか理解できなかったが、彼もそんなアリーチェには気づいているようだ。それでも、彼は答えを口にしない。

 その代わりのように、あるいは褒めるように、ちゅっと目尻にキスされる。

 いったいどれだけご褒美をくれるのだろう。これが現実だったなら、アリーチェはきっと耐えられなかった。ドキドキのしすぎて死んでいたかもしれない。

「……もう少しで終わる。おまえが俺を退屈から救ってくれたように、今度は俺がおまえを解き放とう」

 それで、と彼が続けて。

「自分の足で、俺の許へ囚われに来い。二度と傷つかないように。二度とあんな奴らに利用されないように」

 レイビスがそっと身体を離す。温もりが遠ざかることを惜しむ前に、彼の大きな手によって両目を優しく塞がれた。

「おやすみ、アリーチェ。次に起きたときが、現実だ」

 暗闇の世界にいざなわれて、次に目を覚ましたとき、そこには誰もいなかった。



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