第31話 蘇りの魔法

 ここまで来て、詰みなのか?

 絶望が現実のものになりつつある中、俺は無意識の内に、懸命に燭台の前で努力を見せる少女たちに目を向けた。多くの者から敵意と悪意を向けられ、心根に植え付けられた恐怖心を乗り越え、俺の期待に応え続けてくれた教え子たちの姿を目に焼き付ける。

 この瞬間にも、彼女たちは自らの全力を発揮し続けている。ここで自分たちの人生を終わらせたくないと、習得したばかりの魔法を一生懸命発動し続けているのだ。そんな彼女たちを見て心が動かされないのであれば、俺は教師失格だ。懸命な教え子たちの姿を見て、明るい未来を歩ませてやりたいと思わないのであれば、英雄と呼ばれる資格すらない。

 嗚呼、やるしかないよな。最初から、この手しか残されていないんだ。

 腹を括った俺は一度大きな息を吐き──魔筆を走らせ、魔精文字を描き始めた。普段俺が使っている簡略文字ではない。この魔法は俺も使ったことのないもので、簡略文字を創っていないのだ。

 発動するためには、必要とする魔精文字の文を全て描く必要がある。

 文字の総数は一八六文字。とても多くはあるが、順調に描き進めることができれば、数分足らずで描き終えることができるはずだ。

 順調に行けば、の話ではあるが。


「──ッ」


 十数文字を描いた時点で、俺は身体に凄まじい倦怠感を覚えた。身体がとてつもなく怠く、魔精文字を描く手の動きが鈍くなる。鉄球が付いた拘束具を装着させられたように、動かす度に重みを感じる。

 魔法の効果が、早速現れたらしい。これから使う魔法は、術者にとてつもない負担を強いる、危険な魔法だ。最悪の場合──首を左右に振った。

 全身を襲う不快感は、顔を顰めてしまうほどに辛いものだ。しかし、そんなものはもうどうでもいい。使うと決めた時点で、覚悟はできている。今の俺がすべきことは、この魔法を完成させること。それ以外のことは全て雑念だ。余計なことは、頭の中から排除する。

 動きが鈍くなった身体を強引に動かし、俺は文字を描く作業を再開する。

 一秒がとても長く感じた。実際にどれだけの時間が経過しているのかはわからないが、極限ともいえる集中力の中、俺は着実に魔精文字を完成させる。

 もう、周りの光景は目に入らない。大樹も、雪も、燭台も、少女たちも、何処にあるのかわからない。視界に映るのは、光を放つ文字だけ。今描いている文字だけに意識の全てが向き、数秒前まで描いていた文字が何なのかもわからない。けれど、正確に文を構築することができている確信だけはあった。


「……ぁ」


 突然足の力が抜け、俺はその場に膝から頽れた。

 凄まじい頭痛に襲われ、考えが上手く纏まらない。動悸も激しく、呼吸のリズムが乱れている。視線を下に向ければ、左手の甲に数滴の血が付着しているのがわかった。気が付いていなかったが、どうやら血涙と鼻血を流しているらしい。それは今も止まっておらず、次から次へと雪上に赤い斑点を形成していく。

 体内のマナが極端に減少することによって起こる、欠乏症だ。

 手先だけではない。全身が微細に震え、上手く文字を描くことができなくなる。描かなければならない文字は残り、三十文字。

 満身創痍。ここから先は、俺がどれだけ気持ちを振り絞ることができるかだ。自分を捨てる勇気を持てるか、どうか。

 やると決めたんだ。最後までやり切れ。

 自分自身を鼓舞した俺は、左手で押さえ、支え、魔筆を持つ右手を持ち上げる。必死に震えを抑え、文の続きを描こうと筆先を──。


「何をやってるんだよ君は──ッ!」


 怒気を孕んだ力強い声を聴覚が捉えた直後、文を綴ろうと持ち上げた右腕が細い指をした手に掴まれた。締め付けられ、痛みを伴うほど強く。突如として出現したそれに、俺は微かに目を見開きながら顔を右に向けた。

 そこには、怒りと焦りを多分に含んだ表情をしたメルフがいた。この極寒の中、前髪を汗で額に張り付かせている。呼吸も荒く、空気を取り込み吐き出すリズムは乱れていた。

 なんでこっちに来ている。燭台の炎はどうしたんだ。

 上手く回らない頭で考え、その問いを言葉にしようと口を動かす──が、声を発する寸前、胸の奥からせり上がった吐き気と痛みを堪えることができず、俺は深紅に染まった胃液を零した。落ちたそれは雪を侵食し、同色に染め上げていく。

 見る見るうちに赤い雪の面積が広くなっていく光景を霞んだ視界で眺めていると、不意に背後から両肩に手が添えられた。


「ロゼル君……どうして、蘇りの魔法を使おうとしているんですか」

「……わかるのか」

「特徴を僕たちに教えたのは君だろう」


 俺の両肩に触れたセフィに問い返すと、彼女の代わりにメルフが指摘。俺は『そんなこともあったか』と他人事のように言い、口の端を伝う血を乱暴に拭った。

 二人に蘇りの魔法の特徴を教えたのは、愚策だったかもしれない。自らの失敗を反省しつつも、あの時はまさか自分が使う羽目になるとは想像すらしていなかった、と心の中で言い訳の言葉を連ねる。これまでも、これからも、自分は使うことなどないだろうと……。

 ゆっくりと肺に充満していた空気を吐き出す。

 困った。彼女たちはきっと、事情を話さなければ解放してくれないだろう。いや、例え細かな事情を話したとしても、俺が死ぬことを許可するとは思えない。時間が惜しいので、早々に文の続きを描かせてもらいたいのだが……。

 次の行動を数秒考えた末に、俺は二人に事情を説明することにした。


「桜の根に、毒が注入されていたんだ。このままじゃ、この桜は永遠に開花しない。死にかけの桜を復活させ、冬を終わらせるためには……もうこの手しか残されていない」

「だからって君が──」

「破格の代償だろう」


 遮り、俺は理解を求めて続けた。


「俺は旧時代の死に損ないだ。本来、世界の終焉を乗り越えた時点で死ぬはずだったところを、偶々生き永らえただけの存在。そんな俺の命一つでお前たち四人の未来が開けるなら、御釣りが来るくらいだと思う。他に選択肢は、ないんだからな」

「「……」」


 明らかに納得はしていない。少しでも俺の説得に綻びがあれば、容赦なくそこを突くつもりだったのが、表情を見ればわかる。しかし、他に選択肢がないことを、二人もわかっているのだろう。だから、押し黙る。沈黙の間に頭を必死に働かせ、代替案を模索しているのかもしれないが、二人からそれが語られることはない。

 これが最善策。俺の命を犠牲にする以外に、方法は存在しない。

 メルフが悔しそうに奥歯を噛みながら、掴んでいた俺の腕を放す。力なく下ろされた彼女の手を見た俺は『悪いな』と、彼女たちの希望に添えない自分の不甲斐なさを謝り、中断していた作業を開始しようとし──。


「いいわけないでしょ──ッ!」

「うぇ──っ!?」


 叫ぶような大声と同時に、伸びてきた両手で乱暴に胸倉を掴まれ、俺は咄嗟に珍妙な呻き声を上げてしまった。

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