第3話 魔筆

 魔筆まふで

 あらゆる事象を発現させる神秘の力──魔法を使用するためには魔精文字と呼ばれる特殊な文字を用いるのだが、魔筆はそれを描く際に必要となる道具である。

 俺が生まれる遥か昔の時代、先人の魔法師たちは指先にマナを集中させ、魔精文字を描き魔法を発動していたらしい。しかし、指先では筆のように綺麗な文字を描くことができず、様々な不都合が生じていたとのこと。魔法自体が発動しない、目的のものとは異なる魔法が発動する、効果が持続しない……などなど、成功率が今とは比べ物にならないほどに低かったそうだ。魔精文字と魔法は密接な関係であり、共にとても繊細なもの。僅かな形状の違いで、全く異なる結果を生んでしまうのだ。

 そこで偉大な先人たちは魔精文字を描くこと専用の道具である魔筆を開発し、魔法発動の成功率を飛躍的に向上させることに成功した。以後、後世では魔法師は魔筆を用いて魔精文字を描くことが基本となった……というのが、魔筆の歴史である。

 後世の魔法師である俺も当然、魔法を扱う際は魔筆を用いてきた。だが、今の俺は愛用の魔筆を持っていない状態。魔精文字を描く術は、指先での手法しか持っていない。

 不安だが……果たして、成功するのかどうか。

 数瞬の逡巡の後、俺は意を決して右手の指先にマナを集中させ、虚空に光の文字を描いた。


「……いけた、みたいだな」


 全身を包む浮遊感に、俺は魔法の発動が成功したことを確信した。今しがた描いた光の魔精文字は、輝きを放ちながら明滅している。この明滅は魔法が正常に発動している証明であり、成功の証。

 よかった。魔法の腕は健在だ。

 無事に魔法が発動できたことに安堵し、俺は手すりから身体を乗り出し──身を躍らせた。

 足場がなくなったことにより、身体は重力に従って下へと落ちていく。本来であれば数秒の落下時間を経て、俺の身体は地面に叩きつけられることになる。落下地点には、血と臓物の赤い花が咲くことだろう。

 しかし、そんな現実が到来することはない。大地に向かって落ちる俺の身体は鳥の羽を思わせるほど、低速。下へと引き寄せられる感覚もほとんどなく、安全であり快適に落下しているのだ。

 俺が発動した魔法──重力軽減はその名の通り、落下速度を減速させる魔法だ。高所から落ちたとしても死ぬことはなく、ほとんど衝撃を受けることもなく着地することが可能。

 態々こんな危険な移動方法を取る必要はなかったが、最短距離で調理場に行くことができる上に、魔法の腕を確かめることもできたのだから、良しとしよう。七百年が経過した城の状態を確認したいので、帰りは歩いて二人がいる部屋まで戻るが。

 数十秒の浮遊を経て城の二階前に到着し、俺は鍵のかかっていない窓を開け建物の中に入った。


「う──ッ、なんだこれ……?」


 城の内部に足を踏み入れた瞬間、俺は鼻腔を刺激した香りに顔を顰め、口元を手で覆い隠した。

 上手く表現することのできない香りだった。決して良い匂いではないが、とてつもなく臭いというわけではない。蓄積した生ゴミとは違い、とにかく鼻の奥を突く。

嘔吐するとか、この場にいることができないとか、それほど凶悪な香りでもない。が、嗅ぎ続けていると目の奥からじんわりと涙が滲んでくる。

 刺激的で不快な香り。現状では、こう言い表すことしかできなかった。


「何処から匂ってるんだ……?」


 匂いの発生源を探すため、俺は口元に手を当てた状態のまま、より匂いが強くなっている方へと進んだ。不快感で周囲の景色に全く意識が向かないまま歩き、やがて辿り着いたのは、両開きの扉が佇む部屋。

 俺の記憶が正しければ、調理場の前である。

 一瞬、七百年前の食料が腐っており、この匂いを生み出しているのかもしれないと考えたが、すぐに否定した。この城にある食料類は全てに劣化防止の保存魔法が付与されているため、腐ることはない。それに、例え腐敗していたとしても、七百年もすれば干からびて無臭になるはずだ。

 となると、この異臭の原因は何なのか。

 ここから離れたい気持ちでいっぱいになりつつ、覚悟を決めた俺は扉を開いて中に足を踏み入れた。


「よし! あとはこのまま数分煮込めば──」


 上機嫌そうな独り言を呟いていたのは、調理場の奥にある竈の上にある鍋、その前に立っている少女。深紅の髪を片側で結っており、同色の瞳は紅玉を思わせる鮮やかなもの。赤いエプロンを身に着けた彼女は片手にお玉を持っており、時折湯気の立つ鍋の中身をかき回していた。

 廊下よりも濃密な刺激臭。その原因はあの鍋であり、発生者は彼女に間違いない。私が育てました、みたいな顔をしている。

 あんな至近距離で匂いを嗅いでいるのに、何ともないのはどういう嗅覚をしているのだろう。と、心底不思議に思いながら、俺は棚の上に置かれていた紅茶を入れる用具の入った木箱を手に取り、異臭を放つ鍋をかき回す赤髪の少女へと歩み寄った。


「何を作っているんだ?」

「ポトフよ。今日のお昼はこれと──って」


 返答をしながらこちらに顔を向けた彼女は、質問主である俺の顔を見た瞬間に動きを止め、仰天した様子で数歩後ろに後ずさった。


「あ、あんた、救世の──……目を覚ましたの?」

「さっきな」


 木箱を机の上に置き、流し台の手押しポンプから流れ出た水を水差しの中に汲み入れる。鍋から放出される匂いは強いものの、鼻が匂いに慣れてしまったようで、調理場に入った時よりも幾分かマシになっていた。


「へぇ……ふぅん……ほぉ……」

「……何だよ」


 顎に手を当て、至近距離から俺の顔をジッと眺める彼女に眉を顰める。品定めをするようにジロジロと見られるのは、あまり好きではないんだが……。

 俺の反応を見て我に返ったのか、少女は慌てて俺から距離を取り、顔を背けて言った。


「べ、別に変なことなんて考えてないんだからね! 眠っている時には見れなかった瞳が凄く綺麗な色をしていたから、ちょっとドキっとしつつ目を離せなかっただけなんだから!」

「本音駄々洩れじゃないか?」


 蓋をした水差しを木箱に戻しつつ、俺は少女の反応にそんな言葉を返した。

 不機嫌そうに本音を隠すのかと思いきや、その言いかたのまま本音をぶつけてくるとは。気が強そうな見た目とは裏腹に、本音を隠すことができない性格らしい。眠っている俺の服を脱がして身体を触ったり、雪の下で寝袋に包まって眠っていたり、ツンケンしながらも本音が隠せない子だったり……個性的な女の子にばかり会うな。

 先に会った二人の顔を思い浮かべて苦笑すると、少女が机上の木箱を見やり、俺に問うた。


「ところで、英雄様は何で調理場に来たの? お腹でも減った?」

「いいや。ユティルって女の子が雪の下で眠って身体を冷やしたから、温かい飲み物でも淹れてやろうと思って、用具を取りに来たんだよ」

「あの子はまた……」


 額に手を置き、少女は深い溜め息を吐いた。セフィの反応からもわかっていたことだが、どうやらユティルが変な場所で眠るのはいつものことらしい。

 呆れている少女に同情を向け、次いで、俺は彼女に言った。


「俺のことはロゼルでいいぞ。英雄って呼ばれるのは、好きじゃないからな」

「了解よ……って、私はまだ名乗ってなかったわね」


 自己紹介をしていないことに気が付いた彼女は『改めまして』と仕切り直し、俺に右手を差し出した。


「テフィア=フラントロスよ。ファーストネームで呼んでもらって構わないわ」

「わかったよ、テフィア」


 差し出された手を握り返し、俺は今一番聞きたいことを彼女に尋ねた。


「んで、この鍋に中身は一体何なんだ?」

「何って、だからさっきも言ったじゃない。ポトフよ、普通の」

「んなわけあるか」


 即座に否定し、俺はポコポコと沸騰する鍋の中身を指さした。


「普通のポトフはこんな刺激臭を発しないし、血みたいに赤くない。どうやって作ったらこんなことになるんだ?」

「し、失礼ね! トマトを入れたから赤いだけだし……匂いは別にいいでしょ!? 問題は味よ、味! 味覚万歳!」

「匂いと見た目も料理の内って言うだろうが。というか味って……これを食うのか? 死ぬ気しかしないんだが……?」


 今のところ、この奇妙なポトフは劇物認定されている。ここまで刺激臭を発する料理は知らない。口の中に入れた瞬間、胃酸を大量に吐き出すことになりそうだ。

 正直な俺の感想にテフィアは『ぐぬぬ……』と悔しそうに歯噛みし、数秒後、徐にお玉で液体を掬い俺に差し出した。


「そこまで言うなら、食べてみなさいよ! 食べずに感想を言うなんて、失礼千万なんだから!」

「本気で言ってんのか……」


 至近距離で漂ってきた香りに顔を顰め、俺は一歩後ろに下がった。

 危険すぎる。ここはノータイムで拒否をするべきだ。目覚めたばかりの身体に、この毒は刺激的すぎる。

 本能が警鐘を鳴らすが、俺は『嫌だ』とはっきり断ることができなかった。

 理由は──テフィアが目尻に悔し涙を浮かべていたから。自分の料理を酷評され、泣きそうになっているのだ。流石に言い過ぎた……とは思わないが、目の前のテフィアを見て何も思わないわけではない。罪悪感が、拒否することを許さなかった。

 ええい、ままよ!

 覚悟と勢いに任せ、俺は受け取ったお玉を口元で傾け、液体を口内に流し込んだ。


「…………ギリギリ食える」


 正直な感想を口にした。

 決して美味しくはない。直球で言ってしまえば、不味い。好んで食べたいとは全く思わない味だ。が、吐き出すほど酷いというわけでもなかった。鼻から抜ける香りは褒めることができないが、味自体は素材の味がそれなりに残っているため、本当に頑張れば妥協することもできる程度で済んでいる。

 ただ、もう少し料理のことは勉強したほうがいいな。

 持っていたお玉をテフィアに返し、俺は率直な感想と意見を告げようとした。


「食えたものじゃないって程でもないが、もう少し料理について研究とか勉強をしたほうが──テフィア?」

「──っ!」


 何故かお玉をジッと見つめていたテフィアに声をかけると、彼女はハッとした様子を見せ、顔を赤くしながら言った。


「な、なに! そういえば私もこれで味見したから間接キスになっちゃったなんて、ちょっとしか考えてないんだからね!」

「……」


 大きな声で本音を口走ったテフィアに俺は『とりあえず、本音を隠す努力はしたほうがいいぞ』とだけ言い残し、木箱を持って調理場を後にした。

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