第2話 奇妙な箱
男がそのように唱えて箱の上部を開ければ、最初はその全てが影に隠れて真っ暗闇が広がっているように見えた。ようやく目が慣れれば、金色の土台の中にガラス玉のようなものが設えられ、そしてさらにしばらく目を凝らせばその奥に次第にキラキラとなにかが瞬くのが見えた。
「又吉さん、おいでなさいますね」
「おじさん、呼んだかい?」
しばらくしてその奥底から、小さな声がした。確かに又吉の声のように聞こえた。その声はかつての又吉と同じように明るく聞こえた。最近ではとんと聞かなくなった声だ。けれども当然ながら、その小さな箱には人が入れる隙間などない。
「ええ、お呼び立て致しましたよ」
「又吉! お前又吉なのか?」
「……その声は
「ああ、宗佑だ。又吉、お前はどこにいる!」
「どこって……ここはここさ」
男は突然、パタリと箱の蓋を綴じた。慌てて再び開けようと手を伸ばせば、男が箱を私に差し出した。
「さぁどうぞお開けください」
警戒心が沸き起こる。この男は俺に箱を見ろといった。それが目的なのだろう。何故閉じた。一体何がしたいのだ。
「坊っちゃんは本当に疑り深い」
「……何故そこから又吉の声が聞こえた」
やはりその小さな箱には又吉が入るはずがない。とすれば、蓄音機のように音を記録したものだろうか。それにしても、私の声に応答したということは予め記録しておいたものではないだろう。見渡しても、箱に繋がる線などないし、声は確かにここから聞こえた。
「……私の言う事など、坊っちゃんはお信じにならないでしょう。それほど荒唐無稽なことですから」
男は悲しそうな声音で頭を垂れる。俺は又吉と話したい。どこにいるのか問いただしたい。今この機会を失えば、二度と又吉と話すことはできないかもしれない。勘がそう呟く。
「……荒唐無稽かどうかは私が判断する」
ふむと見上げるその男は最後の真っ赤な太陽の欠片を背に帯びてすっかり暗く沈み、表情などなにも見えなかった。
「この箱の中にはアストロロギアの天球儀が入っております」
「アストロ……?」
「ええ。坊っちゃんは占星術をご存知でしょうか」
「占星術……? 占いの類か?」
「ええ。空の星は全ての生命の運命を司っております。その星々の動きを見て、その運命を知るのです」
要領を得ない。それが又吉と何の関係がある。
「ところで坊っちゃん。星の運行が通常とズレれば、どうなるとお考えでしょうか」
「どう……? そんなことあるはずがない」
運命というものが星によって定まるとしたら、その運命は変更されてしまうのだろう。けれども星の運行がズレるはずがない。星々というものは遥か古代から一定の法則に従って運行している。そうでなければ星座などというものは成り立たない。
「この天球儀は星の動きに干渉し、現在とは異なる平行世界を映し出すのです」
「異なる……世界?」
「ええ。そこで坊っちゃんに中を見てほしいのです」
「お前が自分で見ればいいじゃぁないか」
男はこれまでになく悲しそうな音を出した。
「動かせるのは、自らの運命を定める星々だけなのです」
そこからの男の話はますます奇妙だった。
この占星術を学ぶ男は、弟を病で無くしたそうだ。そしてこの天球儀を入手し、弟が病に罹らぬ平行世界を見つけ、立ち入った。
「異なる世界に、立ち入る?」
「ええ、ご聡明な坊っちゃんにはおわかり頂けるかもしれません。たくさんの世界は、あたかも一冊の辞典のように重なり合っております。近くの世界はさほどかわらず、遠く離れるほどその違いは大きくなります」
そうして男は急にしんみりと顎髭のあるあたりを撫でさする。
「私は過ちを犯しました」
「過ち?」
「ええ。世界が近ければ病にかかるのがわずかに遅れるだけで、再び死ぬかもしれません。弟が死ぬことがないよう私の運命の範囲で最も遠くの世界に入りました」
「それで弟は病から免れたのか?」
「はい。おおよそ5年前のことです」
けれどもその男の声音は悲嘆に暮れていた。
不可解だ。
仮に男の話が真実であったとしたら、それは喜ばしいことではないか。
「坊っちゃん。私は確かに、しばらくは幸福に弟と暮らしました。けれども弟は病で死ぬことは有りませんでしたが、戦争で死にました。私の元いた世界には、この戦争の兆しなどまったくなかったのです」
「この戦争が、ない?」
「ええ。弟は敵軍に捕まり、酷い辱めの上で死んだと聞きました。私は結局、より弟を不幸にしただけなのだろうかと酷く悩みました。けれども私にとって弟はたった一人の身内です。どうか、今度こそ弟が死なぬ世界を求めているのです。ですから坊っちゃんにこの天球儀を見ていただき、新しい世界を探したいのです」
「自分で覗けばよいのだろう」
「それができれば……」
どうやら運命を動かせるのは自分の星のめぐりの範囲だけらしい。男は既に移動してしまったことで自らの星の可動域が限界を迎え、それ以上移動ができぬそうだ。だから他人の運命に基づいて新しい世界を探している。箱を開いた、もっといえば天球儀は最初に見つめた者の星を中心に、その範囲内の世界を映し出す。
「何故子どもにばかり声をかけるのだ」
「それは……子どもというものは過去が少ないものですから」
「過去?」
「ええ。過去が積み重ねられるほど、その未来は狭まっていくのです。私はなるべく多くの運命を見たいのです」
「又吉はどこに行った」
男は不意に、言葉を止めた。日はすっかり暮れ、遠くの大通りの街灯と月明かりだけが、男のシルエットと私を幽く照らしていた。急に寂しさが込み上げた。又吉は本当にいなくなったのか?
「又吉さんは、ご覧になった世界にお渡りになりました。こちらから呼びかけることはできますが、こちらに戻ることは不可能です」
「どういうことだ……?」
「この世界の又吉さんは、異なる世界に移動されることで既に失われました。存在が断絶しておりますから、ここに戻ることはできません」
「何故、又吉はその世界に……」
そこまで言いかけて、私には大凡、その先がわかった。又吉がどこかにいくのなら、その理由はたった1つだ。
「その世界では、又吉の兄は今も生きていたのだな」
「ええ。この天球儀はその世界を遍く映し出します。ご存命のお兄様を見て、又吉さんは迷われませんでした。そして私も……止めることはできませんでした」
又吉にとっては兄は唯一の身内だ。それが生きているのなら。そこまで考えて、弟を探すこの男に又吉を止めることはできなかったのだろうと推測された。俺は半分男を信じかけていた。それは荒唐無稽なこの男の話についてではなく、世界を渡ったであろう又吉の心情に理解が及んだだめだった。
「……坊ちゃん。どうか、お願い致します。この箱を覗いてくださいませ」
「私は……」
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