四羽 追う者
有理沙はなにが起きたか分からず、混乱のままさらに強くユウキの肩を揺すった。
「ユウキ。どうしたの、ユウキ」
力なく揺れるばかりのユウキの体に、押し寄せた不安が有理沙の心臓を痛いほどに叩く。ユウキはまったく反応を示さないかに見えたが、不意に低くうめいて弱々しく体を丸めた。
「ユウキ、苦しいの? お腹が痛いの?」
夢中でとり縋って呼びかけていると、横から伸びてきた衣兎の手が有理沙の前脚を押さえた。
「あまり動かしてはだめです」
厳しさをはらんだ声に止められ、有理沙は縋る相手を衣兎に変えて涙ぐんだ。
「衣兎様、ユウキどうしちゃったんだろう。どうして急に、こんな……」
「わたくしにも、分かりません」
衣兎は動揺で息を詰まらせる有理沙の背中を数度撫でてから、横たわるユウキに触れ、耳に口を寄せた。
「ユウキ、聞こえますか。ユウキ」
衣兎の声にも、ユウキは応えない。ときおりうめきながらか細い呼吸を繰り返すばかりの弟の姿に、有理沙の心臓は引き絞られた。
恐慌する頭で、必死に原因を考える。ユウキに持病らしいものはなかったはずだ。では最近、なにがあったか。記憶を辿り、輝夜殿で隼がユウキを蹴り飛ばしたのを思い出す。あの時、隼の足はユウキの腹部に直撃しているように見えた。やはり外から見えないところに傷を負っていたのかもしれない。
有理沙の恐怖を煽るように、心音だけでなく雷鳴までが大きくなり、鼓膜が痛んで耳鳴りがした。目を覚まさないユウキの姿に、有理沙の呼吸まで苦しくなってくるようだ。
その時、予期しない方角から声がした。
「有理沙!」
よく知る少年の声に、有理沙の意識が性急に引き戻された。はっとして空を仰げば、角ばった白いものが頭上を通過した。目を丸くする有理沙の前に降り立ったのは、大きな折り紙のウサギだ。一瞬不安を忘れるほど仰天した有理沙だったが、折り紙ウサギの背に乗る隼と有毅を見て、即座に現状を思い出した。
「隼!」
有理沙が呼び返すと、険しかった隼の表情がやや和らいだ。
「よかった、見つけた」
声に安堵をにじませた隼に対し、有理沙は切羽詰まって叫び返した。
「隼、ユウキの様子がおかしいの!」
一度開いた眉間を隼は再びひそめ、有理沙の隣に横たわる白ウサギに気づいて顔を強張らせた。隼の肩口から首を伸ばすように、有毅も有理沙たちに顔を見せた。その瞳に哀切が覗き見えた気がして、有理沙の背筋を冷えたものが這い下りた。
隼はウサギのユウキにはなにも言わないまま、硬質な表情で衣兎へと視線を移した。
「もしかして、その子がツクヨミの奥さん?」
衣兎の幼い見た目のせいだろう。隼は怪訝さを隠さない声色で誰にともなく問うた。答えたのは、それまで呆然としていた衣兎自身だった。
「はい。衣兎と申します」
隼はさらになにか言おうとするように口を開き、しかし間近で轟いた雷鳴に素早く口をつぐんで顔を上げた。
耳をつんざく轟音と同時に、視界が閃光で真っ白になった。悲鳴をあげて、有理沙は身を伏せた。つかの間、視覚と聴覚が役目を果たさなくなり、痺れるような感触が毛皮の表面を走り抜ける。衝撃が去り、頭痛がするほどの耳鳴りに耐えながら恐る恐る目を上げれば、目の前のススキが広く薙ぎ倒されていて、その中心に、ツクヨミがいた。
「ここにいたか」
穏やかに話すツクヨミしか知らなかった有理沙は、発せられた声の冷たさにぞっとした。真っ直ぐに向けられた冷徹な眼差しに、衣兎があえぐように息をもらす。
「ツクヨミ……」
鷹揚な動作で、ツクヨミは手を差し伸べた。
「衣兎、こちらへきなさい。彼らは衣兎にとってよくない者だ」
隼たちに目もくれず、ツクヨミは平板な声音で言う。衣兎は唇の端を引き結び、答えあぐねる間を置いてようやく声を発した。
「都は、どうしたのですか。ウサギたちは、無事ですか?」
「さて。わたしには分かりかねる」
いかにも興味がなさそうにツクヨミが言い放ち、ユウキに寄り添っていた衣兎は勢い込んで立ち上がった。
「分からない? あれだけのことをしてですか!」
衣兎は叫び、ツクヨミの背後に見える火影を指さした。
ツクヨミに反論してみせた衣兎に驚いて、有理沙は少女の横顔を見上げた。衣兎が声を荒らげることがあるとは思わなかったのだ。怒りに打ち震えているかと思われた少女の眼差しは、隠しきれない恐れをにじませ揺れていた。少女の覚悟が有理沙にもうかがえる。
雷雲は塊となってススキの原の上まで流れてきていたが、遠く見える地平は、いまだ衰えることのない炎を立ち上げ赤く燃えていた。ツクヨミは衣兎の示す景色にちらと目をやっただけで、心動かされた様子もなくすぐさま顔を戻した。
「衣兎がわたしから逃げなければ起きなかったことだ」
「それは……」
言葉を失う衣兎に向かって、ツクヨミは改めて腕を伸ばした。冷たかったかんばせが、ふと柔らかく綻ぶ。あまりに鮮やかな表情の変化に、有理沙はかえって空恐ろしさを感じた。
「屋敷と都はまた造ればよい。ウサギはいくらでも連れてくることはできる。衣兎の望むものはすべて手に入れ、なんでも造ろう。わたしにはそれができるし、これまでもそうしてきた。なにも不満に思うことはないはずだ。わたしと共にいることが、衣兎の幸福になる」
一方的に言い切るツクヨミに、有理沙もいよいよ黙っていられなくなった。初めて会った時や、輝夜殿で怪我をしたユウキに見せた優しさが偽りだったならば、あまりにいたたまれない。人として好ましいとさえ思っていたからこそ、裏切られたと感じられた。
「ツクヨミ様、そんな勝手な――」
「勝手に決めないでください!」
悲鳴のように叫んで、衣兎が有理沙を遮った。感情の高ぶりに、衣兎の華奢な肩がわなないている。
「わたくしの幸福はわたくしが決めます。あなたに決められることではありません。お願いです、ツクヨミ。わたくしはあなたを嫌いになりたくありません。どうか、わたくしの話を聞いてください」
祈るように、衣兎は体の前で両手を組んだ。ツクヨミの顔から再び笑みが消えた。差し伸べられていた腕がゆっくりとおろされ、目元が鋭利に細まる。
「やはり、好ましくない影響が出ているようだ。放っておかずに早く対処すべきだったらしい」
ツクヨミの胸元の珠で五色の光が揺らめき、雷雲の唸りが大きくなった。
力を失って、衣兎はくずおれた。少女の決死の訴えは、わずかもツクヨミに届かなかったのだ。なけなしの勇気はいとも簡単にへし折れ、衣兎は打ちのめされて両手をついた。
「衣兎様……」
有理沙は思わず呼んだが、それ以上どう言葉をかけていいか分からなかった。
打ちひしがれる衣兎の頭上を、折り紙ウサギが飛び越えた。隼と有毅を乗せた折り紙のウサギが軽やかに跳ね、ツクヨミと少女たちの間に着地する。柳眉をひそめたツクヨミと正面から向き合い、隼は大げさなため息をついた。
「他人の夫婦関係に口を出すもんじゃないと思って黙って聞いてたけど、さすがにこれ以上は無理だ」
呆れて面倒がっているのが、声から明らかだった。それでも、目の前で困っている者を見捨てておけないのが、隼だった。次に発せられた彼の声は、幼なじみの有理沙ですら聞いたことがないほど低いものだった。
「最低だな、あんた」
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