第四章 月のウサギ

一羽 燃え落つ

 低く唸るような遠鳴りを聞きつけ、はやとは折り紙ウサギの背中で天を仰いだ。頭上の空は相変わらず平坦な黒で、瑠璃色の星だけが存在を誇示している。しかし進行方向に目を移せば、とぐろを巻くように垂れ込める灰色の雲が見えた。


「天気が崩れそうだな」

「おかしい」


 なにげない隼の呟きに、後ろに乗っている有毅ゆうきがかぶせ気味に言った。


「月の国に雲が出るなんて」


 駆ける折り紙ウサギに振り落とされないよう注意しながら、隼は首を捻って有毅の方を見た。


「なにがおかしいんだ」


 有毅は固い表情で、前方の雲だけを見詰める。


「月の国に雲はないはずなんだ。雨が降らなくても水は湧くし、種を撒いて世話さえすれば農作物は育つ。そこに天気の影響は一切存在しない。ここはそういう場所だ。それなのに、どうして雷雲が……」


 雲が光った。青白い光が、縦に筋を描いた。


「落ちた!」


 隼が叫んだのと、轟音が耳をつんざいたのは同時だった。二人が向かう先に、赤い光が灯った。


「急げ! 輝夜殿に火が!」


 隼が言い終わる前に、折り紙ウサギは心得たように速度を上げた。

 再びやってきた月の都は、ウサギたちが右へ左への大わらわに駆け回っていた。悲鳴をあげて逃げ惑うウサギもいれば、桶に溜めた水を必死で運んでいるウサギもいる。彼らを飛び越して駆けつけた輝夜殿はそこだけが赤く染まり、塀の上で炎の穂先がちろちろと揺れていた。


 折り紙ウサギが高く飛び上がった。輝夜殿全体を見渡せるほど高く飛び、風に乗ってゆっくり降下する。素早く目を巡らせれば、最も火の手が大きいのが寝殿おもやであることが分かった。炎は腕を広げるように、渡殿わたりろうかを伝って対屋はなれへと穂先を伸ばし、屋敷全体を包み込んでいく。外周は砂庭と池に囲われているので敷地の外まで燃え広がる懸念は少なそうだが、建物が燃え落ちるのは時間の問題と思われた。下仕えのウサギたちが命からがら、こけつまろびつ次々に飛び出してくる。ごうごうと地鳴りのように響いて聞こえるのが炎のあげる音なのか、あるいは雷鳴なのかも判然としない。

 折り紙ウサギが、池を渡る橋へと着地した。池は炎の色を水面に映し、赤く染まっていた。


有理沙ありさはどこだ」


 折り紙ウサギの足元を我先に駆け抜けていくウサギの中にも、庭の隅で身を寄せ合うウサギの中にも、白ウサギの姿は見つからない。まだ建物の中にいるのだろうかと思い、隼は火柱をあげる御殿へと目をやった。

 炎を噴き上げる階の上に、白い人影があった。二度目の相対となる相手に、隼の表情は自然と強張る。燃え盛りきしむ御殿から出てきただろうツクヨミは、炎が見えてないかのように優雅な足どりで階を下った。火影ほかげに浮かび上がる姿の威圧感は凄絶を極め、声を出せずにいる隼の背を汗が伝った。

 白砂の庭に降りたツクヨミが、据わった目で隼たちを見た。


衣兎いとを連れ去ったのはなれらだったか」


 低音で発せられたツクヨミの言葉に、隼は訝しんだ。


「いと?」


 問い返した隼の声に反応するように、ツクヨミの胸元の珠飾りが光った。


「隼、つかまって!」


 有毅が叫ぶのと、折り紙ウサギが身をひるがえしたのは同時だった。刹那、轟音が隼の鼓膜を貫き、青白い閃光が網膜を焼いた。強い光に目が眩み、視界が失われる。ちらちらと視野を浸食する黒い斑紋をどうにかやり過ごしながら慎重に目蓋を開けば、目に飛び込んできたのは炎に包まれた橋だった。逃げるのが一瞬でも遅ければその炎の中にいただろうことに、隼は背中の汗がそのまま凍りついたような心地がした。

 ゆっくりと進み出てきたツクヨミが、炎を踏んで橋を渡り始めた。


なれらがきたから、衣兎は消えたのだろう。どこにいる」

「一体なんの話をしてるんだ。人探しをしてるのはこっちだってのに」


 隼が呟く声で言えば、ツクヨミの据わり切った目が細まった。


「とぼけるつもりか」

「とぼけるもなにも、知らな――」

「隼、ちょっと作戦変更!」


 言い返そうとした隼を有毅が遮り、折り紙ウサギが勢いよく飛び上がった。慌てて折り紙ウサギの耳にしがみつきながら、隼は背後に非難の目を向けた。


「どうしたんだ急に! なんで逃げるんだ」

「戦略的退却! どうしてかは分からないけど衣兎様がいなくなって、ツクヨミがキレてるんだ。しかも、それがぼくらのせいだと思われてる。紙に火はさすがにまずい。いったん距離をとらないと」


 折り紙ウサギは輝夜殿の築地塀を飛び越えて着地し、往路よりずっと速く都の中心を駆け戻る。振り落とされそうになる体を、隼は必死で支えた。


「そのってのは誰なんだ」

「ツクヨミの奥方。ツクヨミは奥方を溺愛してるんだ」

「まじか……」


 かなり面倒な方向へこじれた事態に、隼はうんざりしてぼやいた。

 低い雷鳴が空気を震わせた。輝夜殿の上にわだかまっていた雷雲がとぐろを解き、都を覆うように広がっていく。雲が閃き、並木の柳が火を噴き上げた。


「うわぁ、やばいやばい」


 折り紙ウサギが飛び退くように跳ねる。有毅は焦った声をあげて、通りに面した長屋の屋根に折り紙ウサギを飛び乗らせた。道を右往左往するウサギたちを眼下に見ながら、折り紙ウサギは足を止めずに家々の屋根を軽快に飛び移る。

 何度目になるか分からない雷鳴が轟いた。一瞬前までいた家の屋根から火の手があがり、隼はさすがに肝を冷やした。通りから、ウサギたちの悲鳴が聞こえた。


「あいつ、町まで燃やす気か」

「それだけ我を忘れてるんだ。被害が広がる前に早く都の外に出よう」


 波立つ海原のようにきらめく瓦屋根の上を、折り紙の白ウサギは跳ねていく。そのあとを雷鳴が追い駆け、また火の手があがる。罪なきウサギたちの悲鳴にさいなまれながら、隼を乗せた折り紙ウサギは死に物狂いで都を駆け抜けた。

 連なっていた家が途絶え、折り紙ウサギは平坦な道に下りて速度を上げた。都を覆っていた雷雲は細くなり、首を伸ばすように折り紙ウサギを追い続ける。

 石畳の道が砂利道に変わり、幅員ふくいんが狭くなると共に景色が緑豊かな田畑へと移っていった。ウサギたちが丹念に育て上げた実りにさえ、雷は容赦なく降り注ぐ。

 地平に、銀にきらめくススキの原が見えた。あそこならば、他に巻き込むものもないように思われた。畦道を駆け抜けた折り紙ウサギは、ススキの斜面を一足でのぼり切るように高く飛んだ。

 跳躍した頂点を過ぎ、下降を始めた時だった。進行方向をじっと見据えていた隼は、ススキの花穂の合間に、白い影がちらと覗いたのを見つけた。


「有理沙!」

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