2. 静寂が燃える

 家に帰ると両親は起床していて、夏休みに入る前くらいぶりに家族と一緒に朝ごはんを食べていた。

 夏休みに入ってからは碌に時間通りに起きもしないで、昼間からバイトに行って夜は多少の勉強をしてトレーニングをし、日が回って夜が深くなった頃に就寝する生活を繰り返していたから、父さんも母さんも驚いた様子を見せていた。


 さすがに生活習慣を直さないといけないとわかっているが、今日は夏休みの宿題という怪物を退治するために使った致し方ないコストだった。

 食べ終わると物凄い眠気に襲われて陽の昇った朝にゆっくりと眠りについた。


 起きると正午を回っていてすっきりとした目覚めだった。

 まだ働かない頭を働かせようとしながら、水を飲んでそのあとにトイレを済ませた。


 自分の部屋に戻ろうと階段に足をかけたところで爺ちゃんに手招きされた。

 爺ちゃんの部屋に入ると畳の良い香りがした。

 無造作に置かれた座布団を一枚、ちゃぶ台の前に敷いて爺ちゃんは向かいにゆっくりと腰を下ろした。そこに座りなさいということなのだろう。


「行く先の明るくない年寄りが持っていても仕方ないものがいくらかある。お前に爺ちゃんの夢を託すつもりはないが、きっと何かしらの歩みに良い影響を与えてくれるだろう」


 爺ちゃんはいつも曲がっている背筋をきっちりと伸ばして、今朝方の落ち着いた雰囲気とは打って変わってとても真剣な眼差しでそう口にした。

 頑丈そうな箱の上に老人とは思えないほどの無骨な手を置いている。


「倅は論理的で現実的なヤツだからロマンとかそういったものは向いていなくてな、爺ちゃんが学者をやっていた頃はこいつらを預けることもできんかった。燎護ならそういった類もきっと意味のあるものにしてくれるんじゃないかと思ってな」


 爺ちゃんは爽快な笑顔を浮かべた。

「オレは爺ちゃんの望んでいるような生き方はできないよ」

 少し困って、思ったままに言った。

「きっとそうだろうな。けど爺ちゃんはわかったうえで話しているんだ。これは燎護にはまだ早いと分かっている。研究資料にもならなかったものだが、わしを好いてくれているのであればこいつたちをどうか受け取ってはくれないだろうか」


 爺ちゃんはスッと頭を下げた。

 簡単に下げているわけではないとすぐにわかった。存外、自尊心がそれなりにある人だからある程度の決断をしているのだろう。

「爺ちゃん、本当にオレで良いの? 爺ちゃんの研究を引き継いだ人とかじゃダメなの?」


「さっきも云ったがこれは研究の資料には成り得ない。けれど、わしにはこれらには聖遺物や神秘といった遺物を目にした時と同じような感覚があった――。きっとこれから先の時代において重要なものなのかもしれない、そう思うと燎護に渡すことがきっと正解になる気がしたんだ」

 あまりにも熱烈な想いに思わず固唾を飲んだ。


「父さんじゃなくてオレなのか?」

「あぁ、お前だ」

「オレ以外にも渡していい人がいるんじゃないか?」

「確かにお前である必要はないかもしれない。だが、知っての通りわしは人にあまり気を許さん」

「それじゃあそういう人を見つけ」

「いいや、お前だ。いつまで持つ命かわからんのだ」

「でも」

「でもじゃない。いま、この瞬間に決めたことだ」

「いままで迷ってたなら。それなら親父でも良いだろ」

「わしの直感がお前で間違いないと云っている」

「本当に?」

「相手に選択を委ねるではない。お前の悪い癖だ」

「――」


 爺ちゃんは黙ってソレをオレの方へ動かした。

「受け取ったらオレの勝手にして良いってこと?」

「構わん、ただし返すのはダメだ」

 オレはため息をついた。

 こうなったら爺ちゃんは頑固だ。

「わかったよ。貰うよ。でもさ、本当にそれで良かったんだな。オレ、そんな立派な人間じゃないぞ」


「今朝も話したが、お前は立派な男だ。ロマンの分かる男だ。相手は相手だと理解のある男だ。そう云った人間は立派だ」

「オレの負けだよ。貰うよこれ」

「あぁ、貰っていけ!」


 爺ちゃんは快活な笑みを満足気に浮かべた。

 只より高い物はない、そんなことを考えながら僅かな後悔があった。

 中身はなにが入っているかわからないが、あとでゆっくり中身を確認することにする。


 爺ちゃんはタンスから別の箱を取り出した。中には葉巻が入っていて慣れた手つきで葉巻の一部を切り落として、そのあとにライターが力強く火を出しているところに葉巻を焙った。しばらくして長く吸い込んで、ふーっと息を吐き出した。

 思い出したように「少し窓を開けてくれないか」とお願いされた。

「火災報知機が鳴るから窓を開けてくれって真奈美さんに怒られてな」

 窓を開けると乾いた風に葉巻の煙が緩やかに流されていく。

 オレはお礼を告げて爺ちゃんの部屋を出て行った。


              ◇

 

「これで燎護も何かしらの縁ができることだろうな。貴様の云う通り、わしの眼には確かな人間を貴様のところに預けたぞ」


 高城譲は大きく吸い込んだ煙に達成感と不安を混ぜてゆっくりと吐き出した。

 自身に残された使命はようやく完遂された。


「魔法なんぞ信用ならんが、見てしまったものは仕方あるまい。継いだものをこれから生きる人々に託すことしかできんのだからな」

 すっかり衰えてしまったよう体を、息を止めながら足に力を込めて立ち上がる。

 タンスの中に葉巻の箱と一緒に保管していたウイスキーとグラスを取り出して、ちゃぶ台の上に置いた。


「約束されていたことはすべて終わったからな。今日ぐらいこれからの次代に祝杯をあげようじゃないか、フォルダン、愛永。すべては貴様らの望んだようになるだろう」


 若いころに出産祝いとして貰ってから大切に保管してあった五十年前のウイスキーとヴィンテージのグラス。

 彼にとってこれ以上ない宴であった。

 グラスを片手にリビングの冷凍庫から大きめのロックアイスを二つほど入れて、自身の和室へ戻って、ウイスキーを少量注いだ。

 喉を慣らすため、少量を勢い良く飲み干して次はグラスに半分程度注いだ。


「もし、魔法が使えたならどうかあの子を無事に生きていてほしいな」

 カラカラとグラスを回しながら、独りの人間はこれから巣立っていくのだろうと予感する。

 もう十七になる譲の可愛い孫は立派な男になった。年齢に合わない落ち着いた空気感は何か諦めのような感情か、それともこれからの出来事に己に宿る火を大人しくさせているのかわからない。それでもきっかけをやらねばならない。

 それがたまたま今日だった。


「あとはのんびりと生きるだけだな」

 譲はこれからを決意して、ようやく肩の荷が下りたような気がした。

 葉巻の煙は窓へ向かっていく。

 酔いが進んで気分が大きくなる。

「フォルダン、わしの孫はきっとすごいことをやらかすぞ。期待するんだな」


 そう簡単に笑ったりしない譲が愉快そうに大声で笑った。


――わしは魔法なんぞに興味はない。貴様の云う逸材はそのうち用意してやる。代わりに貴様の知り得ることを教えろ。


 学者だったころに見つけたフォルダンとそんなやり取りをしたことを思い出した。

 あの時、フォルダンは何と言ったかすでに忘れてしまっていたが、約束したことは鮮明に覚えていた。


――譲が人間として憧れるような人をわたしに紹介して欲しい。


 それから譲の世界は大きく変わった。

 学者という身でありながら、この世に実在していると思ってもみなかった魔法というものの存在を目にし、そして想像もつかないほど遥かに長い時を生きているという神波愛永という人物とも出会った。学者人生の半分以上は魔法の歴史がどの点に関わっているか想像しながら、或いは話を聞きに赴いたこともあった。


 譲が若いときに燎護と出会っていたならば、ソレをソレとして受け入れる分不相応なその度量と堂々としたその振る舞いに尊敬の念を抱いていただろう。そう思ったとき、フォルダンに会わせるべき存在は自分の孫だと直感した。

 危険な時に力になってくれたフォルダンへのせめてもの恩返しのつもりだった。

 ただ、何かを企てているのかもしれない。

 一抹の不安はあるが、フォルダンたちの常に態度は一貫したものだった。

 もしもそんな話が本当なのだとしたら、まだ小さく幼い燎護の世界は譲が想像もできない広大な世界へと導いてくれるかもしれない。


 後悔と期待ばかりが酒に混じる。

 きっとこの決断は間違っていない。

 そう信じるしかない。振り返ってすでに旅立った妻の仏壇を前に――せめてこの祈りで燎護を守って欲しいと、ウイスキーの入ったグラスを宙にかざした。

 

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