第3話「呟くように。囁くように」
――温かい海。柔らかなクッションを枕にして、たぷたぷと寄り添う波に抱きしめられながら、うとうとしている。
身体が欲する眠気と彼を包み込む波の気持ち良さが織りなす居心地は、此処が何処で、自分は何をしていたのかも、忘れさせる。
ただ、気持ちいい。
時と場所と場合、その全てが介入してくる事のない空間で、綾葉は柔らかい誰かに抱きしめられ、その気持ちよさに浸っていた。
このまま永遠に、眠り続けていたい。そう、無意識に願いながら、綾葉はその意識を深く沈めようと――して。
(…………?)
肌に生じる違和感に、身動ぎする。目を開けるほどはっきりと確認したいものではないが、何かが、彼の心を外から刺激した。
(…………)
ぼんやり、蕩ける思考のうち、働ける全戦力を投入して「どうして」を考える。
「眠り」とは絶対的に一人のものだ。誰かと共有されることはなく、一人の時間とは必然的に眠りの時間を指す以外にあり得ない。
では何故、綾葉は「誰か」に抱きしめられたなんて感想を抱いたのだろう。
彼自身、そんな経験は生まれて一度もない。それについて想像したことも、欲したこともない。
では、なぜ。
(…………)
しかし、思考は止まる。
その思考はあくまでも、違和感から生じた脳の表面、肌で考えているようなもので、人の思考のように形になっているわけではない。彼の意識がはっきりとしていない以上、僅かな時間のうちに弾けて消える、泡のような些末な違和感でしかない、……筈だった。
(……わにゃ)
綾葉を包み込む波。掛け布団のような温かさを持つそれが、さらに強く、彼を抱きしめたりしなければ。
(…………?)
ぽつりと、最初は一粒の泡に過ぎなかった違和感。水面に浮かぶ数が徐々に増えていき、ぼんやりと思考の形になる。
……そういえば、顔に少し圧迫感がある気がする。瑞々しくハリがあって、肌に吸いつくような柔らかさは嫌ではなく、触り心地の良さでは極上に違いないけれど、この感触を前に何処かで味わったような気もする。
(ふにふに……?)
枕。枕も波の一部だ。ふかふかのパンみたいな触り心地ではなく、表面はもちもちの感触で、それなのに綾葉の側頭部をしっかりと受け止めている。不思議に思うのは、自分のお腹の辺りにも同じ形のものがかけられている、ということ。
自分にぴったりと寄り添い、温めてくれているのは、布団ではないのか。
自分は一体、何に抱きしめられている――?
△◯
「…………わにゃ」
ボヤけた視界。はっきりとした意識。
どこまでが睡眠でどこからが起床なのか、今回も綾葉は見つけることができていない。
いつも通り。当たり前のように、綾葉は目を覚ました。
「……ふぁ」
身体が引きずる眠気に欠伸をしながら、
「……あ、おはようございます、せんぱい」
当たり前のように目を覚ました自分の身体に、違和感を覚える。
「……」
視線を上に向けてみる。真白のシーツ、清潔感を感じさせる白い壁と天井から、綾葉は何処かの医務室か病室のベッドに寝かされているらしい。
身体を起こしたりせず、掌に意識を集中させて、親指を握ってみる。……触覚に違和感はない。
では、何が違うのか。
自分の色白な肌と脱色気味の髪も意識を失う前と変化はなく、周囲の様子も観察できていることから、視覚にも異常は見当たらない。
嗅覚。……綾葉が病院のお世話になることはこれが初めてではないけれど、元々こんなに甘くて優しい匂いをしていたかは、わからない。
味覚に関しては、今この状況では確かめようもないのでわからない。
聴覚には期待できない。何せ幻覚のようなものが聞こえているのだから。
「……せんぱい?」
「……んん」
幻覚――そう、幻覚だ。
マシュマロよりもやわもちな感触の中に、首元に当たる、くにゅりと硬さを主張する何か。
そして、一方的に語りかけていながら、綾葉を正面から抱きしめることでその口を開かせない、一糸纏わぬ姿の春牙。そんなものが実在する筈がないのだ。
認めるわけにはいかない幻覚。しかし、その幻覚は確かな質量と存在感を以て綾葉の頭を殴りつけてくる。
甘ったるい匂いしかしないのは春牙に包まれているからで、僅かながら動かせた首は今はもう、少しでも動かせば左右の双丘に埋めることになるし、全身で感じる柔らかさには身体が悲鳴を上げている。
ある種の天国と地獄が共存しているこの状態。彼にとって唯一救いだったのは、目覚めてすぐに春牙の艶やかな身体を視界に入れられたという喜び、幸福――だろうか。
(ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!)
気が触れている。いや、春牙の可愛さは間違いではないけれど――いやだから。
「――――っ!!」
叫びたくなる衝動を必死に堪えて、内心転げ回る。
綾葉の背中に回された腕は優しく彼の身体を春牙の方へと引き寄せていて、綾葉が枕だクッションだと思い込んでいたものは、春牙が持つ豊かな膨らみそのものだった。
「………ん、ほぁ……」
上から下まで、綾葉を抱きしめる全てが毒。綾葉の足にかかる春牙の足指はスベスベで、靴下だけ履いているわけでもなく、全身タイツを身に付けているわけでもなく。
(…………ちょっと待ってほしい)
心の中で既に四度目の待ったをかける綾葉だが、待っても混乱を止められない彼を他所に、彼の理性はガリガリと削られていく。
綾葉を抱きしめている春牙が何も身に付けていない――そのことに綾葉が気づけた理由は、彼自身もまた、何も身に付けられてはいなかったから。
それ故に、抱きしめられた時の春牙の柔らかさがダイレクトに伝わり、しっとりとしているその質感が、布越しでは無いことを恐ろしいほど簡単に悟らせていた。
その圧倒的な事実は、綾葉の意識をぼやかせるには簡単過ぎた。
「……うー……?」
湯船でのぼせたように思考がばらばらと解けていく。
春牙の柔らかさに挟まれ、意識の漂白が始まり、夢の続きが始まろうとしている刹那に。
「せんぱい。……わたしと、お付き合い……してください」
彼女は、特級の爆弾を投下した。
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