第53話 揺れる想い
今日は目がとても疲れて、目薬が欠かせなかった。空気が乾燥し始めているせいかもしれない。
月が変わり暦の上では秋になったのに、気温はまだ高く、ブラウス一枚で過ごせていた。
滅多にないけれど、今日はなんだか疲れてしまって、仕事も集中出来ずにいた。少しだけ休憩すればいつも通りになるかもしれないと、資料室に行くと川崎さんに伝えて、席を立った。
ずっと座っているせいか、浮腫みもあるし身体を動かそうと思い、階段を昇ってみることにした。
「少し運動しなくちゃだめね」
早朝出勤をしているから電車は座れるし、業務中も座っている。ホームから改札を出て、駅を出るまでエスカレーターだし、社内の移動はエレベーター。なんの目安にもなっていない歩数のアプリは3000歩足らずで、一日中座っている状態は、さすがにダメだなと思い始めていた。
海外事業部からリフレッシュコーナーには二階分昇ればいいだけだから、そんなに大変ではないだろうと昇り始めたが、私は自分の体力をあなどっていた。
「はあ、はあ」
たったこれだけ昇るだけで息切れするなんて、家で出来る運動からでもいいから少し身体を動かさないとダメみたいだ。
息が切れて仕方がなくて、踊り場で小休止する。すると、上の方から人の話し声が聞こえた。
(女の人……)
階段は行き来で使う人が意外といるから、最初は気にならずに昇っていた。
『ずっと好きだったんです』
え、何? 好きって、あの好きよね。どうしよう、人の告白を聞いてしまうなんて。
降りることも昇ることも出来ない状態で、息まで殺す状態になってしまった。こういう時に限って、誰も階段を使わない。私はなんてついていないんだろう。
(偶然だから、偶然)
盗み聞きをしているわけじゃないと、言い聞かせた。
『アメリカから帰られるのを待っていました』
(アメリカ? アメリカって言ったわよね)
とすると、相手は……。
『榊さん』
部長だ。そして相手はMRの榊さんで、営業成績はトップ、持っている知識は豊富で、すでにチーフになっている人。ショートカットにぴしっと着こなしたスーツ姿がとても素敵で、「宝塚の男役みたいだ」と評判の方だ。
『付き合ってもらえませんか? 私と。社内恋愛は禁じられていませんし、問題はありません』
『問題とかそういうことじゃなくて』
『フリーなのは知ってます、付き合ってください』
榊さんの強い押しに私は驚いた。榊さんは自分に自信があるから、強く押すことができるんだろう。部長には榊さんのような女性が似合ってる。
お互いに高めあいながら上を目指せるし、いい相談相手にもなるだろう。
(これ以上聞いたらいけないわ)
私は昇った階段をそっと降りて、部署に戻った。
仕事中もそうだったけど、家に帰ってもあの時のことが頭から離れなかった。
偶然とは言え、人の告白を聞いてしまったという後味の悪さ。
それに、一番の気がかりが、部長がなんて返事をしたのかということ。
部長は私の彼でもないけれど、好きだと言ってくれた以上は、私のことを思ってくれているはず。
「ばかね、なんて自意識過剰なの?」
構わないで欲しいと思っているのは自分なのに、いざ、手元から離れていくと思うと離したくないという都合のよさ。本当に根性がねじ曲がっているとしか言いようがない。
「こんな性格がねじ曲がった私に、部長は勿体ないわ」
私は榊さんに嫉妬をしているのだろうか。欲しいものが出来ると意地でも手に入れようとして、手放したくなくなるなんてすごく意地悪だ。
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