一緒に死んではくれまいか。

喋喋

一緒に死んではくれまいか。

 目にもの見せてやらぁ。そう、心の中で豪語したとある男は、深夜午前一時過ぎに縄と足継ぎを抱えて家を飛び出した。

 擦り傷の目立つ古びた革靴が、安っぽく軽い音を立てながら男を運ぶ。正常な判断力も思考力も、大いなる死の欲求の前では屑同然だ。男は木製の足継ぎの重みを忘れ、体の末端を痛いほど冷たくする気温さえも怒りの燃料にして道を進んでいた。その律動的な音が、徐々にゆっくりとしたものになった時、やっと男の呟きが聞こえた。

「死人に口無し。後悔先に立たず。知るものか、知るものか……!」

 息を切らしてもなお、恨みつらみは止め処なく、ふらついてもなお、歩みを止めない。一度、飲み下すように喉を鳴らせば、干上がった喉奥が張り付いてむせた。弱々しい光を放つ街灯もなくなった寂れた場所まで来ると、男はすっかり暗闇に包まれていた。

 十分は経っただろうか。すでに草臥れた様子の男だが、目的地にはまだ遠く、目の前には長い長い橋がある。一度、大きく息をした男は欄干に手をついて、だらしない足どりで橋の上を歩き始めた。

 不安になる程に変わり映えのしない視界と川のせせらぎ。男は気を紛らわせるかのように奥歯を噛み締めて音を鳴らした。一歩、また一歩と進んでいく。今感じている疲労感など、自分を追い詰めた苦しみには勝らないと、男は自分を励ますかのように繰り返し思うのだった。

 そうしていると、ふと、男は一瞬だけ人の気配を感じた。は、と息をして振り返った男は、暗闇の中に溶け込まず、存在感を放つ一人分の影があることに気がついた。男よりも背が高いのは確かで、ぼやけた輪郭では魍魎のようにも見える。男が一度止めてしまった足をなかなか動かせないでいると、影はゆっくりと、振り向いた。

「なんだ、人か」

 そして影はそう呟くと、また橋の向こうへ視線を戻したようだった。男は不審に思う。こんな時間に、こんな灯りも人気ひとけもないような橋の上で独り、何が目的で突っ立っているのか。男の耳に、川のせせらぎがより一層際立って届いた。

「君、ま、まさか」

 身を投げるつもりか。男がそう言い切るよりも早く、影は橋の向こうへと身を乗り出した。

「待ちたまえ!」

 足継ぎが投げだされ、やかましい音を立てる。その音が鳴り止むよりも先に、男は影に飛びついていた。薄い月明かりで照らされて、影の白目が微かに光る。

「やめてください、あなたに僕を止める道理はないでしょう!」

「う、うるさい! 死ぬな! ずるいぞ!」

 暴れる影を男は細腕で必死に止めている。

「ずるいとはなんです。離してください!」

「離すものか! いいか、世の中には——」

 先の言葉が読めた影は、一瞬のうちに怒りが込み上げ、目を見開いた。そうして、一発殴ってやろうと腕を振り上げたその時、男は情けない声で続きの言葉を口にした。

「世の中にはな、死にたくても死ねない人間がどれほどいるか!」

 影の動きが止まる。男は続けて捲し立てた。

「その一人が私なのだよ。想像もできなかっただろう、目前にある死を邪魔する人間が、同じように死の欲求を持つ者だということを」

 そこで影は理解した。男の言った「ずるい」の意味を。

「同類であるからこそ、君の行動に託した希望の大きさは分かる。ああ、分かるとも。だがしかしだな、それ以上に私は君が私の目の前で死にありつく様を見届けるのがどうにも妬ましい!」

「なんて人なんだ……」

 すでに影は欄干から体を降ろしているが、男はなお続ける。

「頼む、頼むから、今日のところは帰ってくれ。今日だけで良いんだ。それで、君の心が冷静さを取り戻すかもしれないし、たとえ今抱え込んでいる覚悟が消えなくとも、もう、そこまで膨れた勇気を止められる者は居やしないさ。だから、」

「あの、もう良いですから」

 今やすっかり情緒を乱しているのは男の方であった。影は男の肩を掴んで落ち着かせる。そうして、男の呼吸が整ってきた頃、男は影の正体が若き青年であることに気がついた。

 男は昂っていた気がおさまるのを感じた途端、下へと崩れるようにその場に膝をついた。青年は男と目線を合わせるようにしゃがみ込む。

「あの、ありがとうございます。おかげで助かったと言いますか……大丈夫ですか」

 歯切れ悪く礼を告げた青年は、控えめに男の顔を覗き込む。それを男は嫌がって、宙に語りかけるように言った。

「まずは礼を言って理由を添える。そして、流れで相手の心配をする。まるで、善人の定型文だな」

 届けるつもりのない声量で言った男の言葉は、流れる水音に混じりそうなほど小さかった。しかし、それを青年が聞き逃すことはなかった。

「そんな、善人だなんて」

 青年の返答に、男は彼と目を合わせることなど到底できそうにない。

「それから、皮肉に対して謙遜ときた。君の生きづらさはよく伝わった。伝わったから、」

 男の声の抑揚が乱れた。

「もう、何も喋らずに私の前から消えてくれ」

 男は震えるような寒さに今更、負けそうになっていた。

 下についた指の間を、冷たい風が這うように通り過ぎていく。せめて撫でるような、心地よく優しいものであれば良かったのにと男は思うと同時に、そんなことを思う自分を卑しく思って恥じた。このまま蹲って泣いてやろう。そうしている間に独りになって、そのままこの川へ沈んでやろう。そんなことも考えた。考えるだけであった。男は泣こうと思って泣けるほど器用でなかったし、未遂であれど、他人の死に方を今すぐ真似ることを好まなかったからだ。

 男は少しだけ視線を横に向けて青年を見た。途端に目が合い、すぐに逸らした。つい先ほど、男は青年のことを「分かる」と大きな声で言ったが、今となってはひとつも分からないような気がしている。同類だなんてとんでもないことを言ってしまったと男は後悔した。その後悔は、沈んでいくようにさらに深くなっていく。今この時に関係のないことまで、思い出せる限り後悔した。

 突如、視界が明るくなる。男が目を細めながら光源の方を見やると、どうやら青年が携帯端末のライトを点灯させたということが分かった。

「暗いと不便だと思いまして」

 青年は人の好さそうな微笑みを湛えている。つい先ほど身投げをしようとしていたとは思えないほど、の柔らかな笑みだ。

「何が不便だというのかね」

 一方、男はライトの明るさを煩わしそうにしながら手で遮っている。半端な土下座のような姿勢の男は、どこか情けなかった。

「これからの会話、とかですかね。僕、流々木るるぎ光樹みつきといいます。改めてお礼をさせていただきたくて」

 そこで男は突如逃げ出した。立ち上がり切るより先に踏み出して走ろうとした。しかし、そばに投げていた足継ぎにつまづいて伏せるように転んだ。男の反応は当然であった。男にとって、光樹が化け物に思えたからだ。

「逃げないでくださいよ。大丈夫ですか」

 手を貸そうとする光樹に、近寄るなと言わんばかりに手元の縄を投げつける男。それは、光樹に柔らかな衝撃と状況把握の手がかりを与えただけだった。足継ぎ、縄、橋の向こうを少し行けば手頃な木々の生い茂る場所がある。

 光樹は考えた。考えている隙に男はまた逃げ出そうとしたが、足首の痛みがそれを邪魔した。よろけてまた膝を地にぶつけた男は、患部をさすりながら、縋り付くように足継ぎに手を伸ばす。だが、その手がたどり着くよりも先に、光樹が足継ぎを持ち上げてしまった。

「な、何を」

「僕にもあなたを助けさせてください」

 光樹はそのまま足継ぎを閉じ込めるように抱きしめた。唐突な申し出だ。しかし、道理にかなっている。それが、男にさらなる恐怖心を湧かせた。

「あなたが僕にしてくれたように、僕もあなたを助けたいんです。どうかお願いします」

 光樹はそれから一言、二言ばかり、心の綺麗なことを述べた。その間、男は胸焼けと頭痛と戦う羽目になった。

 男にとっては助けたつもりなどなく、自害を実行するという機会を邪魔して奪ってやったにすぎない。そして、それをお返しされるということは、男にとってはお礼などではなくただの迷惑なのだ。

「私の望みは今すぐ独りになることだ。礼がしたいと言うのなら、さっさと何処かへ行ってくれ」

 命令というより懇願に近い感情で、男は振り払うような腕の動きをした。

「でも、そうしてしまうと、あなたは朝にはきっと死んでしまっているでしょう」

「それが私の待ち焦がれた未来だ。決して他人からの横槍で簡単に諦めるような、そんな一時的な気持ちで行おうとしているわけではない。揺るぎない覚悟を持ってここまで来たのだよ」

 男は縄を拾って固く握りしめる様を見せつけた。未だ、その場にへたり込んだまま。光樹に抱えられた足継ぎを取り返そうと腰を上げる。手が届く前に男の体はすとんとまた座り込んだ。光樹はその様子を見守るように佇んでいた。

「家まで送りましょうか」

 男は返答に悩み、悩んだことに気づき、惨めさが込み上げた。

 男には待ち焦がれた未来を阻む要因が三つもある。一つは光樹。もう一つは捻挫した足首。そして最後の一つは心身の疲労。各々が絶望級の困難である。男の沸き立っていた感情はすでに消沈しており、男もそれを理解し始めていた。憂鬱が顔を出し、自尊心は削れ、ぼやけた視界に耳鳴りが男を苛む。故に、男は光樹の提案に小さく頷くことしかできなかった。

 光樹は足継ぎを小脇に抱え直すと、男に肩を貸した。男はよろけながらも体を預けて安定を図る。握りしめていた縄は光樹が預かろうとしても、男は頑なに手放さなかった。

「あの、お名前を聞いても良いですか」

 橋の上を戻りながら、光樹は男に尋ねた。男は断ってやろうと考えたが、適当な嫌味や皮肉が思いつかなかったために、素直に口を開いた。

那挫なざ市郎太いちろうた。今日中にでも忘れろ」

「市郎太さん、ですね」

 市郎太から送られた光樹への鋭い視線は、ライトの薄明かりに溶け込んだ。


 行きにかけた時間の倍ほどかかって、市郎太はやっと自宅付近までやって来た。少し古い一軒家が見えてくると、市郎太は見飽きたはずのその外観を素晴らしく思った。やっと、光樹から解放される。そう思って腕を離せば、光樹は玄関に駆け寄り、勝手に戸を開けていた。

「鍵、かけてこなかったんですね」

 そして、また市郎太の腕を自身の肩に回し、家の中まで連れようとする。慌てて振り払おうとした市郎太だったが、光樹は「おっと」の一言でそれをあしらった。

「君、もういい」

 市郎太は抵抗した。しかし、光樹は焦る様子もなく、玄関まで運んだ市郎太を上がり框に腰掛けさせた。ついでに散らばっていた靴たちを、光樹は丁寧に揃えて並べる。それから、下駄箱のそばを探るように見つめると、発見した電灯のスイッチを押した。

 互いの姿がより明瞭になる。途端に市郎太は、自分の家だというのに居心地の悪さを感じた。普段は気にも留めない玄関の汚れやほこりが目につき、自分の内面を見られているかのような気持ちにさせられた。

「じゃあ、これ、ここに置いておきますね」

 相変わらず微笑みを浮かべている光樹が、市郎太のそばに足継ぎを下ろす。がこん、と重々しい音が鳴った。

「足、お大事にしてください。また来ます」

「来るな。来る理由がないだろう」

「ありますよ。僕は市郎太さんを助けたいので」

 やはり、つい数十分前まで自害を図っていた人物とは思えないほど光樹は明るい表情をしている。ただ、目の下のくまだけが市郎太と同じであった。

 光樹は会釈をして玄関を出ていく。影が完全に遠退いたのを見届けた市郎太は、そのまま後ろへ寝転んだ。静かになった玄関内に、居間から時計の針の音が微かに聞こえてくる。つけたままの暖房の温もりが、市郎太が凍えることを辛うじて防いでいた。

「一期一会。今生の別れ。これ以上の関わりなどあってたまるものか」

 市郎太は握りしめたままの縄を見つめる。雑に拾い上げたために絡まっていて、解こうとしてみるが、どうにもこうにもうまくいかない。市郎太は気だるげに鼻から息を吐いた。緊張の糸が切れたようで、急激な眠気がさしている。ゆっくりとしたまばたきを数回繰り返していた市郎太だったが、とうとう目を閉じたままになった。そして、次に目を開けた時には、もうすっかり自然光があちらこちらから差し込んでいる時間になっていた。


 数時間前の深夜の出来事は市郎太にとって断片的な記憶となった。冷え切った体の節々が痛んでいる。呻き声をあげながらやっとの思いで起き上がると、市郎太は居間の方へと向かった。時刻は午後一時の少し前。市郎太は使い古した座布団の上に腰を下ろすと、昨日から机の上に置いたままの水を一口飲んだ。そして、また来ると言っていた光樹のことを思い出していた。

「やはり、口だけか」

 特にそれ以上何か思うこともなく、未だに抜けない疲労感にうんざりしながら、市郎太は畳の上へ横になる。市郎太の瞳は、棚と壁の隙間あたりをじっと見つめていた。

 その時、玄関の呼び鈴が鳴った。市郎太は無視をした。また一度、呼び鈴が鳴る。戸を叩く音もした。市郎太は起き上がる気力がなく、また無視をした。しばらくすると、戸を開ける音がした。足音。勝手に入ってきたようだ。

「お、おい」

 急いで立ち上がった市郎太が立ちくらみを堪えながら廊下へ出ると、今に靴を脱ごうとしている一人の人物が見えた。めまいのせいで安定しない視界では、相手が誰だか認識するのが難しい。だが、市郎太にはそれが誰だか分かった。

「あ、お邪魔します。市郎太さん」

 光樹だ。出会った時とは違う服装でリュックを背負い、やはり微笑んでいる。

「帰れ」

「帰りません。知らない間に市郎太さんが死んではいけませんから」

 意気込む光樹と苛立つ市郎太。もはや光樹の目的は、市郎太の都合を想うお礼などではなくなっているように思える。市郎太があからさまに迷惑そうな顔をしてみせても、光樹の感情に何ら影響を与えていない。

 やっと視界のノイズが晴れて気持ちの悪さだけが残った市郎太は、鮮明に見えた光樹の微笑みに、恐れにも似た嫌悪感を抱いた。

「いいか、青年」

「光樹です」

 市郎太は出かけた悪口を飲み込んで続けた。

「私に恩返しがしたいと言うのならば、私のためになることをしたまえ」

「もちろん、そのつもりです。市郎太さんが今より少しでも快適に生きていくお手伝いをさせていただきます」

 噛み合わない会話は市郎太を余計に疲れさせている。発言だけを見れば、光樹は少々天然なだけのいい子に思えるが、市郎太にとって光樹はやはり化け物で、善人を全うしようとしている人物に思えた。

「『生きていくお手伝いを』か」

「はい。死なせません」

 光樹の意志に混じり気はない。このままでは引き下がりそうにないので、市郎太は少し意地悪をしてやろうと考えた。腕を組み、壁に凭れて光樹を睨む。

「死のうとしていた君が私を生かそうなどと言うのは、はっきり言って不合理で信用ならない」

 市郎太はこれでもかと悪態をつき、威圧的に振る舞う。しかし、光樹の微笑みは崩れない。市郎太は負けじと語気を強めた。

「そもそも君、時計は読めるのかね。今現在、とっくに正午を過ぎている。私の自害を止めるつもりにしてはやけにのんびりとした再会ではないか。詰まるところ、善人ぶるのはやめたまえ。上辺だけの優しさなど、誰も幸せにできない。つまり君は、私を生かそうとすることなどできやしない」

 素直な気持ちに悪意を添えて、精一杯に言葉を投げつけた。だがしかし、それで市郎太が得た感覚は、あの時光樹に縄をぶつけたものとそっくりだった。柔らかな衝撃、無い手応え、そして光樹の無表情。

「あなたは僕を生かしました。だから、僕もあなたを生かす。それだけです」

 市郎太の喉がひくりと動いた。

「それではまるで、復讐ではないか」

「いえ、そんな恐ろしい想いは抱いていません」

 慌てたように否定した光樹に、市郎太は妙な感じがした。先ほどから光樹から感じる空気が普通ではないように思ったのだ。その理由を探ろうとした市郎太だったが、その思考は光樹の言葉に遮られる。

「信じていただくにはまずは行動からですよね」

 光樹は背負っていた大きなリュックを前に抱えた。中身は詰まっていて見るからに重そうだ。肩にかけるベルト部分は、そのあまりの重量に限界まで張り詰めている。

 光樹がその重さを感じさせない足どりで家の奥へ進もうとすると、市郎太は当然前に出て阻んだ。

「『ようこそ』と言った覚えはないぞ」

「『お邪魔します』は言いましたよ」

 光樹の稀に出るこのとぼけは天性のものらしい。それに気づいた市郎太は、なおさらタチが悪いと腹を立てた。話も通じず、理解などできず、よく分からないが何か怖い。会話をやめたくなって黙った市郎太の横を、光樹は小さく会釈をして通った。

「独り善がりの善意の押し売り。もう、勝手にしたまえ。厄介者め」

 ぶつぶつと呟く陰気な男、市郎太は拒むことを一旦、諦めることにした。光樹は左右の部屋を見渡しながらさらに奥へと侵入している。そして、とある一室を見た途端に表情を明るくさせた。

「ここ、お借りしますね」

 そこは台所だった。市郎太は勝手にしろの意を込めて、手の甲を見せるようにひらひらとさせる。

「ああ、あと」

 光樹は部屋に入る前に、もう一度市郎太の方へ振り返った。

「ここへ来る時にのんびりなんてしていませんよ。きちんと走って来ましたからね」

 市郎太は自分に体力がなく、面倒くさがりな性分があって良かったと思った。でなければ今頃、光樹の入っていった部屋の扉に板を打ち付け、閉じ込めていただろうから。

 

 これほど落ち着きのない昼間は久しぶりだ。市郎太は仕事も手につかず、居間と書斎を行ったり来たり、寝転んだり起き上がったりしていた。仕事関係以外の人間の来客など、珍しいどころではない。この落ち着きのなさは市郎太に友人、知人の少なさを知らしめていた。

 その一方で、光樹は物音から察するに料理をしているようだ。市郎太は冷蔵庫や棚等にろくな食材など入っていないことの次に、光樹のあの大荷物を思い出していた。

 そうしているうちに、食欲をそそられる香りが漂ってきている。初めは興味など示さず、気にしないことにしていた市郎太だったが、空腹の具合が大きくなるにつれてそれは難しくなった。そろりと襖を少しだけ開けて廊下を覗く。すると、ちょうど台所から出てきた光樹の姿が見えた。手にしたお盆の上には、湯気のたつ器が乗っている。市郎太に気がついた光樹は、得意げな顔をして市郎太の元へ歩み寄った。

「失礼します」

 そして、居間まで入ってくると、光樹は机の上にお盆を置いた。出汁のいい香りを放つその正体は、野菜のたくさん入った雑炊であった。無関心な態度でもとってやろうと思っていた市郎太も、すでに視線は釘付けになっている。

「召し上がってください」

 市郎太は、はっとした。悔しい気持ちにもなった。しかし、食欲が勝ったために姿勢を正して匙を取った。

「いただきます」

 拗ねたような声色で小さく言うと、早速器の中身を掬って数回息を吹きかけた。それから、それを口に運ぶとわずかに表情が明るくなる。美味しい。市郎太は素直にそう思った。光樹は満足そうな顔をするだけで特に何も言わず、市郎太が完食するまでの間、居間の中で見つけた本を読みながら時間を潰した。

「ごちそうさま」

 幾分かはっきりした声で市郎太が言う。それには、満たされたのが腹だけではないことがよく表れていた。実際、家庭的な手料理を久しく食した市郎太は、体の内側から感じる温もりの心地良さに浸りかけている。光樹は読んでいた一冊の本を持ったまま振り返った。

「はい。全部食べていただけたんですね」

 それから、立ち上がってそばまで寄ってきた光樹に目を向けた市郎太は、礼の一つでも言ってやろうと思った。思ったのだが、そこでふと光樹の持っている本の表紙が目に入る。すると、目を見開き、血相を変えてそれをむしり取った。それは一冊の小説本。著者名には「戯柵げさく」と書かれている。

「えっと、ああ、すみません。大切なものでしたか」

 首を傾げる光樹に、市郎太は本を抱きしめながら声を荒げた。

「難しい質問をするな!」

「ごめんなさい」

 咄嗟に光樹は謝ったが、市郎太は依然として気が収まらないようで狼狽している。

「いいか、青年」

「光樹です」

「この家にある本を私の断りなく読むのはやめたまえ。それから、今読んでしまったこれについて、如何なる感想も私に伝えるんじゃないぞ。分かったか」

 早口で詰るように述べられれば、光樹は疑問の一つも口にせずに「分かりました」と、返すほかなかった。でなければ、市郎太の顔の赤みが引きそうになかったからだ。この時、光樹はとある推測をしていた。

 

 光樹が食器の後片付けをするために居間を出た後、市郎太は光樹から奪い取った本を眺めていた。堅苦しい装丁とそこそこの厚み。市郎太はページをめくることなく、しばらく控えめな光沢のある表紙を見つめてから、その本を棚の引き出しに収めた。水を飲もう。そう思った市郎太だったが、光樹に食器と共に下げられてしまったことを思い出す。

 感じる満腹感、温もりのある眩しくない自然光、そして適温の室内。昼寝には最高の条件が揃っている。市郎太は吸い寄せられるように畳へと横になり、その辺にあった薄い毛布を纏った。寝息を立て始めたのは、その数分後であった。

 

 その間、光樹はというと、居間の入り口で淹れた茶を持て余していた。市郎太はしばらく目覚めそうにない。襖の陰で、光樹はいずれ冷めてしまうものを提供することの良し悪しを思い悩んでいたが、結局は自分で飲むことにした。一口飲んで、予想以上の熱さにむせる。市郎太を起こしてはいけない。そう、思った光樹はとりあえずその場を離れることにした。

 湯呑みを持ったまま廊下をうろつく光樹。踏みしめた木質の床が鳴き声をあげると、光樹はさらに慎重な足どりで散策をし続けた。

 すると、閉じられた扉ばかりの中、一部屋だけ室内が見えていることに気がついた。覗き込めばそこは書斎のようで、机の上には様々な資料と、ワープロソフトが起動されているノートパソコンがあった。よく見ると、パソコンのそばには所謂プロットらしき紙まである。光樹の中の推測が確信に変わった。市郎太は小説家「戯柵」だ。

 判明した途端、光樹はこの書斎の中にある本の数々が宝物のように見えた。戯柵の著書以外も多分に含まれているが、小説家が選び取った本というだけで、光樹には特別に感じられた。特段、光樹は戯柵のファンというわけではない。しかし、個性や感性、そして才能を活かした職というものに、魅力を感じているのだ。溢れ出す読みたいという感情。だが、ここで市郎太の言いつけを思い出す。この家にある本は、市郎太の断りなく読んではいけない。光樹の口元に力が入る。

 そこで、光樹は携帯を取り出して「戯柵」について検索した。売っているものをネット等で勝手に買う分には文句を言われないだろうと考えたのだ。ついでに作家としての市郎太について知ってみよう、という目的もあった。

「え」

 画面に表示された情報の数々。それらを読んで、光樹は鳥肌の立つ思いをした。

「そんな、すごい人、だったんだ……」

 随分と失礼な言い回しだ。だが、その反応も頷けるほど、今まで光樹が市郎太という人物から受けてきた印象と、ネット記事の見出しの華やかさとがかけ離れていた。今一度、光樹は書斎の中を覗き込む。好奇心を掻き立てていた宝物たちは、今となっては触れ難い貴重品のように見えた。

 

 日も暮れかけた頃、市郎太はようやく目を覚ました。

「起きましたか」

「ま、まだ居たのか」

 寝ぼけまなこも即座に覚醒した市郎太は、我が物顔で湯呑みの茶を飲む光樹に呆れのような感情を抱いた。

「もう帰りますけどね」

 市郎太はほっとした。監視目的で居座られるのではないかと内心不安だったからだ。光樹の隣にあるリュックは、来た時よりもその体積を減らしていた。

「そうか。もう来るなよ」

「んー、えへ」

 ふざけたような笑い方だ。実際、ごまかし半分で、残り半分はふざけている。

「返事をしたまえ」

「じゃあ、いいえ」

 市郎太にとって、光樹はつくづく思い通りにならない。清々しいほどにだ。その素直さに、市郎太は羨ましいとさえ思う。だが、尊敬するには至らなかった。なぜなら、羨望に勝る苛立ちと、歪んだ自尊心があったからだ。市郎太は光樹をあえて凝視した。光樹はまた、あの微笑みを浮かべた。市郎太はやはり怖がった。なぜ、怖いのか。それはまだ、分からなかった。

「あ、そういえば、市郎太さんって作家さんだったんですね」

 光樹の一言に、市郎太は「なっ」という悲鳴に似た声を出した。市郎太の息があがる。

「き、君、侵入、書斎か、このっ」

「ああ、落ち着いてください。中には入っていませんから」

 光樹の両の手のひらを上下させる宥めるような仕草に合わせて、市郎太は自身を落ち着かせるように呼吸をした。

「覗いただけです」

「このっ」

「ああ」

 再び市郎太の呼吸が忙しくなる。動悸がして、数回咳き込んだ。光樹がそばへ寄って持っていた湯呑みを差し出すと、市郎太はそれを拒んだ。背をさすろうともしたが、市郎太はやはり拒んだ。少しして平静さを取り戻してきた市郎太だったが、どうにも表情が暗い。光樹はこれ以上この話題に触れるべきかどうかを悩んだ。

「あの」

 それ以上、何を言えばいいのか光樹には分からない。握る湯呑みを指先でさする。

「まあ、バレてしまえば仕方のないことか」

 そこで、市郎太は諦めたように呟いた。

「許していただけるんですか」

 光樹が尋ねれば、市郎太はよそを見ながら答えた。

「許すも何も……まあ、あまり私の職と作品のことに触れてくれなければ良い」

 市郎太の視線は、光樹に読まれた本をしまった棚に向けられている。すると、その視線は若干の気まずさでまだ無言でいる光樹に移った。

「あわよくば、君が二度と私の前に現れなければ心穏やかに死んで逝けるのだが」

「明日も来ますね。もし、僕が来た時に市郎太さんがいなければ、この家を自由にします」

 市郎太は「自由」という言葉にこれほどの恐れを抱いたのは初めてのことだった。

 光樹が丁寧に別れを告げて、居間を出て行って少しすると、玄関の戸が閉まる音が響いた。市郎太は光樹を見送ることはしなかった。一人になった居間という空間で、市郎太はただ一点、棚と壁の隙間あたりを見つめていた。

 

 翌朝、早くから目を覚ましている市郎太は書斎にいた。仕事である執筆作業を進めている。すると、玄関の呼び鈴の音が聞こえた。市郎太は無視をした。また一回、二回と音が響く。市郎太は気にするそぶりも見せず、作業を続けた。今日は玄関の鍵を閉めている。勝手に侵入するなど、手練れの盗人でもない限り不可能なのだ。もう一度、呼び鈴が鳴る。市郎太はあくびをした。それからは、やかましい電子音が聞こえることはなかった。

 数時間経ち、時刻は正午。昼食になりそうなものでも探そうと、市郎太は台所へ向かった。見慣れた室内。そのはずなのだが、市郎太は違和感を感じた。

 訝しげに周囲を観察しながら、コップに水を注ごうと水道の蛇口を捻る。そこで気がついた。綺麗なのだ。流しも床も、掃除がされている。積もっていた角の埃も無くなっているし、水回りやコンロの目立つ汚れは薄くなっている。少し落ち着かない気分になってきたところで、市郎太は冷蔵庫を開けた。感じる冷気はいつもより随分と控えめだった。呆然とする市郎太。冷蔵庫の中には、買った覚えなどない食材や調味料が満遍なく詰まっていた。また、呼び鈴が鳴る。市郎太は急ぎ足で玄関へ向かい、戸を開けた。そこに居たのは、やはり光樹だ。

「こんにちは」

 爽やかに挨拶をする光樹に、市郎太は眉を顰めた。

「君、馬鹿だろう」

「そんな、前期の成績は良好でしたよ。先ほど受けてきた小テストも、手応えありです」

 光樹の返答にまたも苛立たせられた市郎太だったが、同時に疑問も浮かんだ。

「朝方、呼び鈴を鳴らしたのは君ではないのか」

「僕ですよ。朝に来て、その後に大学の授業に出席して、それからまた来ました」

 ここで市郎太は光樹が大学生であることを知った。知ったからどうというわけでもないが、光樹の素性が一つ明らかになったことで、市郎太が光樹に感じていた得体の知れなさが軽減した。

「お昼、また作らせてください」

 張り切る光樹の今日、背負っているリュックは、以前ここへ訪れた時よりは身軽そうだ。市郎太は追い返すという選択肢も考えた。だが昨日、口にした雑炊の味が上等であったという事実が市郎太を寛容にさせた。そのため、悩んだ時間は数秒であり、市郎太は玄関の奥へ光樹を通した。

 

 香ばしい料理の香りが、市郎太の仕事の進捗に影響を及ぼし始めた頃、またも呼び鈴の音が響いた。市郎太は、机の上に積んでいた資料を抱えて出迎える。戸を開けた先に居たのは、眼鏡をかけた一人の男だった。

「こんにちは、先生」

 彼が揶揄うような言い方をすれば、市郎太は表情を和らげ小さく吹き出した。

「ようこそ、担当編集者殿」

 市郎太は光樹の時とは打って変わり、あっさりと彼を家の中へ歓迎した。先ほど交わした挨拶のくだらなさや、軽い近況報告で談笑している様子から、彼と市郎太は友人のように仲が良さそうに見える。

 二人が居間で早速話し合いを進めようとした時、襖から遠慮がちに覗き込む光樹がいた。手元には、炒飯を乗せたお盆を持って。

「ええ、市郎太、いつの間に家政夫なんて雇ったんだ?」

 そんな光樹を見るなり、眼鏡の彼は驚いた様子でそう訊いた。

「そいつは家政夫などではない」

「じゃあ、どなた?」

 光樹と市郎太を交互に見る眼鏡の彼。光樹は微笑んで会釈をした。

「光樹です。よろしくお願いします」

「ああ、槙原まきはら慎二しんじです。よろしくお願いします」

 困惑が抜けないまま、慎二は会釈を返した。妙な気まずさと、炒飯の放つ香りが居間を充満している。

「槙原さんは、お昼食べましたか」

 机の上に運んできた炒飯と茶を市郎太の前に置きながら、光樹は慎二に尋ねた。

「いえ、まだですけど」

「ご用意しますね」

 光樹は慎二の返事を待たずに台所へ戻って行ってしまった。未だ心が追いつかない慎二が市郎太へ視線を向けると、市郎太はもう匙を持って、ひと掬い分の炒飯を今に口に運ぼうとしているところであった。

 少しして、慎二の分の昼食も運ばれてきた。

「ありがとう。いただきます」

 一口食べた慎二は「うまいな」と嬉しそうにこぼした。美味しそうに食べ進める二人を、光樹はその場に居座って眺めている。市郎太が向こうへ行けと手で払うような仕草をすると、慎二はそれを良いじゃないかとでも言いたげに宥めた。作家とその担当編集者、そして特に何の肩書きもない関係性の大学生。不思議な組み合わせの三人が居るこの空間は、会話こそ多くないにしろ、平穏な時間が流れていた。

 

「お二人はどういったご関係なんですか」

 食事も終わり、茶のおかわりを注ぎながら光樹は慎二の方を見て訊いた。慎二はすっかり光樹を気に入っているようで、上機嫌で答える。

「自分が彼、那挫市郎太の担当編集をしていて、そもそも、自分たちは幼馴染なんだ」

「そうなんですね」

 会話を聞きながら、市郎太はどこか居心地が悪そうに茶をすすった。

「市郎太は凄いんだよ」

 慎二の一言で、市郎太の湯呑みを持つ手に力が入る。まるで、何かを堪えているように。慎二の瞳は輝いている。ヒーローを目前にした少年のように。

「市郎太はさ、昔から本当に文章の才能があって、自分なんかじゃ追いつけないくらいでさ」

 興奮気味に話す慎二が市郎太のことを心底尊敬している気持ちは、声に乗って十分に届いている。それは、光樹にだけでなく市郎太にもだった。市郎太は茶を飲んでも渇きを感じる喉奥から、度々こくりと音を立てていた。

「書くもの全部が世に出さないのは惜しいくらいで、だから自分は編集者になって、そんな市郎太を全力で推してサポートしてるんだ。もう、自分は市郎太こと戯柵の一番のファンだと言っても良いくらいだね」

 身振り手振りも声も大きく、精一杯の愛を込めて話し終えた慎二に、光樹は数回頷きながらそれとなく賛同の意を伝えた。しかし、光樹の意識は今、視界の奥側に向いている。そこには、外方を向いて空になった湯呑みを両手で握りしめる市郎太の姿があった。光樹は気掛かりでありながらも、この場では愛想笑いをして、居間を出ることしかできなかった。

 一時間ほど経った頃、仕事の打ち合わせが終わったようで、慎二は市郎太と光樹に見送られながら市郎太の家を後にした。光樹は何か小言の一つでも言われるかと、市郎太からの言葉を待ったが、市郎太はただ、つらそうな顔をして、閉じた戸の先を見ているだけだった。光樹は浮かんだ疑問を投げかけるか迷った。時に人にはそれぞれ、触れてはいけない核心というものがある。光樹はこれまでの経験上、それが分かっていた。だが、光樹は躊躇ったところで、訊きたいという気持ちを抑えられるほど大人ではなかった。

「槙原さんのこと、嫌いなんですか」

 咄嗟に振り返った市郎太の瞳は光樹に対する非難の色を含んでいて、その問いに対する否定の意が込められていた。しかし、声は出なかった。この質問に対する適切な答えを、市郎太は瞬時に見つけられなかったからだ。その事実に市郎太の心はひどく傷つけられた。光樹はそんな市郎太の動揺を露にした顔を見て、やはり訊くべきではなかったと小さく反省した。

 話題を変えなければ。そう思った光樹は、また判断を間違えることになる。

「そういえば、市郎太さんの死にたい理由って、何なんですか」

 あまりにも遠慮のない問いかけに、市郎太はまたもや言葉を失った。市郎太にとってこの質問は、人に向けてはならない鉄砲の先を突きつけられるようなものだ。しかも、先に尋ねた内容も相まって、光樹は市郎太の感情を大きく乱している。光樹はそれを少しかかってやっと察した。

「あ、すみません。市郎太さんにとって、不快な質問でしたよね。これからはより気をつけて発言を——」

「やめてくれ、君は、また善人の定型文を! 取り繕った言葉など、私は求めていない!」

 光樹は驚いて黙った。それは、市郎太の突然の大声が要因ではない。光樹は自分の中にも触れられたくない核心というものがあることに、たった今、気がついたからだ。

「君は、まだ私と関わるつもりなのかね」

 市郎太の声色からは怒りを感じさせられる。冷静になろうとしているのは、二人とも同じだ。光樹はなんと言えば良いのか、それを考えようとして、さらにその思考は正しいものなのかと思い煩った。ただ、そんな状態であっても、光樹の表情は無意識に適切を心がけている。口を閉じて、やや俯き、反省している様を見せつけているようだ。

 市郎太は待った。たった一言でも良いから、光樹からの取り繕っていない返答が欲しかった。静かな時間は、互いに苦しい思いをもたらしていた。

「僕は、まだ市郎太さんと関わっていたいです」

 やっと口にした光樹の答え。それは純粋な、光樹自身のためだけの願望だった。相手に譲歩し、己を捨てたものではない、自分の言葉。この時ばかりは、市郎太の光樹に対する恐れが姿を消していた。

「そうか。では、さっさと帰りたまえ」

 素っ気なく言った市郎太に、光樹は食い下がろうとしたが、市郎太は廊下を歩いて行ってしまう。光樹は見放されたような寂しさが湧いた。

「今日はもう遅い」

 しかし、市郎太は居間の入り口の前で立ち止まると、こう付け加えた。

「明日、話をしよう」

 光樹は自然と「ありがとうございます」と口にしていた。


 朝方、市郎太の自宅前では光樹が携帯で頻繁に時刻を確認しながらまごついていた。現在、午前八時。大学が休みなために、光樹は浮かれたように早くにここへ訪れたのだ。迷っていても仕方がない。どう、遠慮をすれば良いのかも分からなかった光樹は、呼び鈴を押し込んだ。

 市郎太が出てくるのは早かった。待ってましたと言わんばかりだ。そのくせ、光樹を見るなり億劫そうに相手をする。光樹を居間へ通すと、机の上には茶の入った湯呑みが二人分置かれていた。座布団の上に座った二人が手に取ったそれはすでにぬるくなっており、その意味を察して和んだ光樹に反して、市郎太は決まりが悪そうだった。

「さて、私についての話だが」

 市郎太は気を取り直して、堂々と構える。

「先に君ついて話したまえ」

 それから、まるで元からそういう約束であったかのようにそう言うと、光樹は「え」と声を漏らした。

「当然だろう。私も好きで話してやるわけではない。私の事情と君の事情、取引のようなものだ」

 後出しの市郎太の言い分に、光樹は大方納得した。納得できなかった部分に関しては、適当に相槌を打ちながら、湯呑みに口をつけて喉奥に流し込んだ。話さなければ、話してもらえない。それが分かっていた光樹は、覚悟を決めたように口を開き、息を短く吸った。

「じゃあ、僕から」

 光樹はどう話そうかと思い、まず、自分自身の内側に意識を向けた。それから、傷がつかないよう丁寧に自分の心の分析をしていく。言うことがまとまってから、光樹がそれを声に出すまでは少しかかった。

「僕は、怖がられるのが嫌なんです」

 市郎太は聞き返すようなことはしなかった。それが、かえって光樹に緊張感を与えた。しかし、光樹は話すのをやめたいとは微塵も思わなかった。光樹の速まる鼓動の理由が、緊張だけではなかったからだ。

「僕も他人に怯えることがあって、その時の何とも言い難いあの怖い感じを知っていて、」

 光樹は今、自分自身について聞いてもらう喜び、そして高揚感も感じていた。

「だから、せめて自分は誰からも怖がられないような、優しい人になりたいんです」

 光樹の口ぶりはまるで、決意の宣誓のようだ。市郎太は続きを促すような視線を送った。

「でも、市郎太さんに言われた通り、それはどう頑張っても取り繕っていることには変わりなくて、未熟な僕には優しさの加減ができず、逆に相手に違和感とか恐怖心を与えてしまうことがあるんです」

 市郎太は間をとって「そうか」とだけ言った。

「僕はいつの間にか、なりたかった『優しい人』になれず『善人』のふりをした詐欺師になってしまったようで、そんな自分を嫌だと思い続けて耐えきれなくなり、先日、あんなことを……」

 話し終えた光樹は、心が軽くなることを期待した。しかし、実際は汗をかきそうなほど気が張り詰め、動悸がしていた。市郎太に話したことで、急に自分の抱えていたこの理由と感情がちっぽけなものに思えたからだ。光樹は市郎太からの反応、及び、感想が不安で仕方がない。

 少しの間、互いに黙った。それから、市郎太は光樹を真っ直ぐに見据えて言った。

「この話を聞いた以上、君が私にどれだけ優しくしようと、私が君を善人と見做すことは当分ないだろう。君の言う恐怖心だってたくさん感じてきたからな」

 光樹は市郎太の視線から逃げるように俯いた。市郎太からの返答に対して、光樹は不安だけを抱えていたわけではない。それが自分で分かった光樹は、自分自身を浅ましく感じた。市郎太は、光樹に視線を向け続けている。

「だから、安心したまえ」

 市郎太の言葉に、光樹は顔を上げた。市郎太は普段と変わらず、不貞腐れたような顔をしている。

「それはどういう意味ですか」

「自分で考えろ」

 市郎太は冷たく言った。しかし、市郎太のこの突き放すような態度が、光樹を傷つけることはなかった。皆まで言わないことで、光樹に想像する余地を与えたからだ。それは、一種の対話であった。光樹の思考に市郎太の言葉が住み着いた。これから光樹が自分という人間について思い悩む時、独りぼっちになることはしばらくないだろう。光樹は市郎太の言葉の真意をまだはっきりとは理解できていないが、心に訪れた小さな変化と、常に感じていた寂しさがわずかに軽くなったのを感じていた。

「では、次は私の話だな」

 光樹がまだ頭の中を忙しくしているのも構わず、市郎太は話し始める。市郎太はできるだけ感傷的にならないよう努めながら続けた。

「私は作家を辞めたいと思い続けている」

 思わず光樹は理由を尋ねようとしたが、先ほど市郎太が自分の話を聞いてくれた様子を思い出してそれを控えた。

「だがしかし、それは叶わない。暮らしていくためには、現状を維持するほかないのだよ。私に今から他の職に就く気概もなければ、やっていける自信もない。慣れた日々を手放す勇気もない」

 話すことで、市郎太は改めて自分の弱さと向き合わされる。市郎太は暗がりを広げていく自分の心を、我儘だと思った。

「それから、辞められない要因は他にもある。この要因こそが最も大きく、私の死にたさに繋がっていると言っても過言ではない」

 市郎太の唇がわずかに震えた。

「慎二だ。あいつが、私の人生を握っている。慎二は私にとって、ずっと昔からの憧れだ」

 光樹は疑問に思った。確か慎二は、市郎太のことを「自分なんかじゃ追いつけない」と言っていた。つまり、慎二が市郎太へ憧れを抱いているのではなかったのかと。市郎太は、言葉がつっかえるのを表に出さないように努めながら続けた。

「慎二の文才は、私ごときでは敵わないほど凄まじい。学生の頃は二人で作家になろうなどと言い合っていたが、私は内心、慎二だけが夢叶うと思っていた。それほどにだ。だが、実際に夢を実現させたのは私だけで、慎二は早々に諦めてしまった」

 悲しみと怒り、憧憬と妬み。市郎太は久しく、この相反する感情による昂りを感じていた。

「尊敬と盲信を履き違えたんだ、慎二は。自分の才能を下に見て、私を押し上げることに必死になって、自分の華々しい道を見向きもせずに捨てた。馬鹿だ、あいつは」

 慎二を罵る市郎太だが、そこに蔑みのような感情は含まれていなかった。今でも慎二は市郎太に心酔しており、市郎太は慎二への憧れを失くさずにいる。心のすれ違いとは、どちらか一方でも相手の本質や私情に目を向けることを疎かにすれば簡単に起こってしまうものだ。慎二が抱いている市郎太への深い尊敬も、市郎太を推す行為も、結局は利己的なものであり、相手を知ることを怠っている。そして何より、自己愛に欠けていた。

「私には、慎二の期待に応えたいという強い思いがある。だが、同じ私の中には慎二への消えない劣等感と罪悪感とが入り混じった、最悪な感情がいつまでも居座っている。辞めるに辞められず、今更言えないことばかり。昨日、君に言われた通り、慎二のことを嫌うような、恨むような感情もある。しかし、慎二がいなければ私は自尊心を保つこともできない」

 市郎太は消え入りそうな声で言った。

「生き地獄だ」

 市郎太が話し終えてしばらくしても、光樹は何も言わなかった。それは、あえての沈黙ではない。市郎太にはそれが分かった。

「善人がかける言葉を探しているのか」

 光樹は思わず市郎太を睨んだ。市郎太は怯む様子もなく、そんな光樹を鼻で笑った。

「いい加減にしたまえよ。君は先の会話で得た感情や学びをもう忘れたのか。自由に自分の言葉で喋りたまえ」

 それが難しいというのに。光樹はそう思うと、余計に頭に血が上るような感覚がした。

「市郎太さんの言った最悪な感情、僕にも分かる気がします」

「気がするだけだろう。煽りのつもりだろうが、口喧嘩で私に敵うと思うな」

 市郎太がそう言ってのけると、光樹は握り締めた拳を見せつけたくなる衝動に駆られた。

「だが、まあ、今は互いに冷静ではないようだ。私は書斎にでも籠るとする。君もここで頭を冷やしたまえ」

 しかし、市郎太が有無を言わせず部屋を出ると、光樹はその拳に込めた力をゆっくりと緩めるのだった。

 

 一人になった光樹は姿勢を崩して目を閉じて、部屋の静けさに耳を傾けた。窓の外の微かな環境音、暖房の音、そして時計の針の音だけが聞き取れる。時計に目をやると、もう昼時と言って良い時間帯を示していた。

 また、食事でも作ろう。そう思った光樹は立ち上がり、回収しようと湯呑みに手を伸ばしたところで動きを止めた。

 目線の先は、棚と壁の隙間あたり。何かが暗がりの中にある。光樹がそばに寄って覗き込むと、それは一冊の古びたノートだった。光樹はそれに慎重に触れた。丁重に引っ張り出すと、表紙には学籍番号らしき文字列と「那挫市郎太」の名前がペンで書かれていた。開けるのを躊躇った光樹だったが、それも少しだけで。これは本ではないから市郎太の許可はいらない、バレなければ大丈夫などと自分に言い聞かせながらその表紙をめくった。

 現れたのは、黒色の芯で書き綴られた文字の群れ。それが光樹をこのノートの世界へと誘い込み、心を捕らえて抱き込んだ。ページをめくる。このノートに込められた思いは一つだけ。光樹が見開きの端から端まで目を通すのに、そう時間はかからない。ページをめくる。脳内で市郎太の声で読み上げられていたはずの文章が、いつの間にか光樹自身の声で再生されている。ページをめくる。光樹の呼吸が浅くなる。違う言葉で同じような内容を繰り返す文章たちは、まるで光樹に暗示をかけているようだ。ページをめくる。ページをめくる。ページをめくる。ページをめくる——

 最後に裏表紙をめくって閉じた。しかし、光樹の心は未だノートの中にある。光樹は理解した。市郎太の話を聞くだけではなく、このノートを読むことで真に「那挫市郎太」を理解した。そうして思う、自分はなんという過ちを犯したのかと。光樹は成すべきことを見定めた。その覚悟は、冒頭で市郎太と出会った時とは比べ物にならないほどのものだった。

 

 玄関の戸の閉まる音を聞いて、市郎太は廊下へ出た。居間を覗くと光樹の姿はなく、玄関にも光樹の靴はもうない。別れの挨拶くらい言ってくれよと思う市郎太だったが、居間に二人分の湯呑みが置かれたままなのを見て、胸のざわめきを覚えた。突然、光樹が気を利かせるのをやめたのは、取り繕うのをやめることの顕示なのだろうかと市郎太は考察する。しかし、確信には至らず、とりあえず湯呑みを片付けようとしたところで、湯呑みの下に一枚のメモ用紙がはせてあることに気がついた。そこには、走り書きのような字でこう書かれている。

 ——今夜、午前一時過ぎに橋の上に来てください。お願いします。 光樹

 市郎太は息を呑んだ。言葉足らずにも思える内容だが、市郎太と光樹の二人の間では、これだけで十分だった。「午前一時過ぎ」「橋の上」この二つの言葉から察せないほど市郎太は鈍感ではない。光樹との関係の区切り、もしくは、死に関する何らかの区切りを市郎太は予感した。それが所謂、嫌な予感であることは明確だった。

 互いに連絡先も知らず、会って三日経つか否かの知り合い程度。今後の二人を再び巡り合わせるのは、この紙切れ一枚に書かれた約三十字が成す情報のみ。市郎太は光樹との繋がりの脆さを、今更実感し始めていた。

 

 厚手の上着に腕を通す。それから、襟巻きも身につけた。身支度の整った市郎太は、一本の懐中電灯を握りしめる。玄関の上がり框に腰掛けると、未だ置かれたままの足継ぎと縄が見送るかのように佇んでいた。

「もし、その気なら、もう一度飛びついて喚いてやる。抜け駆けなど許すものか」

 小声で呟きながら、あの日よりは多少まともな靴を履く。すでに鼻先が冷えるのを感じながら、市郎太は暗闇の中へと足を踏み入れた。

 一筋の光が行先を照らす。こんなに橋の上まで遠かったかと思う市郎太は、すでに体力をそこそこに消費していた。今夜は月も出ず、星もない。活気のない明るさの街灯は心許なく、市郎太が頼れるものは、懐中電灯ただ一本のみだ。

 ようやく橋の元まで辿り着いた市郎太だったが、ここからも長い道のりであることを思い出し、白い息を長く吐いた。せめて、時刻を確認できるものを一つでも持ってきていれば良かったと後悔もした。しかし、そんな事を気にしてばかりもいられない。市郎太は先を急ぐべく、あの日よりも随分と勇気のいる一歩を踏み出した。

 数分歩き進めるが、後方も懐中電灯の光の及ばない前方も、変わらず暗闇に覆われていた。それがまるで、自分に迫り来るようで、市郎太は疲れを感じる足を速めた。

 変わり映えのしない視界と川のせせらぎ。だが、市郎太はあの日とは違って、不安に呑まれることはなかった。今夜は死ぬためではなく、望ましい翌朝を迎えるために歩いているからだ。とうに、決意は固まっている。鼓動が速くなっても、体が震え始めても、市郎太は立ち止まることをしなかった。

 突如、照らした先に影が立ち塞がる。灯りを持ち上げて上を照らせば、そこに居たのは光樹だった。気づいた光樹は市郎太を見つめて、微笑んでいる。その様子に、市郎太の呼吸が一瞬支えた。光樹の微笑みが、怖かったからだ。何を考えてあのメモを残したのか、光樹本人に会えば多少なりとも分かると思っていた市郎太だったが、その淡い期待は打ち砕かれた。振り出しに戻っている。光樹に対する理解も、光樹との関係も、そして、光樹の中の死の欲求も。市郎太は一歩、せめてもの足掻きのように近寄った。

「帰ろう」

 口をついて出たのは、市郎太自身の願望とも思える言葉だ。

「どうしてですか」

 光樹はわざとらしく首を傾げて尋ねた。

「どうしても何も、こんなに寒い」

 市郎太の声が震えるのは、寒さのせいだけではない。光樹は一度、視線を逸らし、そしてまた市郎太を見た。

「もう、帰る必要はありませんよ」

 そう言った次の瞬間、光樹は欄干の上を身を乗り出す。あの日よりも、ずっと躊躇いのない動きでだ。市郎太は懐中電灯を投げ出して光樹に飛びついた。衝撃音と点滅。市郎太は必死に光樹にしがみついたが、光樹に腕を強く掴み返されると、わずかに怯んで力が抜けた。その隙に光樹は欄干の向こう側へ行ってしまう。お終いだ。そう、思った市郎太だったが、依然として腕が掴まれたままであることを感じ取ると、恐る恐る目を開けて光樹を見た。

「抜け駆けすると思いましたか」

 光樹は欄干の下の隙間、橋の際に立っていた。だが、まだ安心はできない。光樹が市郎太の腕を離してしまえば、簡単に暗い川の中へ落ちていってしまえるからだ。市郎太は光樹の行動を、悪い冗談だと思いたかった。しかし、これが冗談ではないと、今の光樹を見ればよく分かった。

 今の光樹は化け物だ。市郎太にとって、何一つとして分かり合えない化け物だ。光樹が取り繕うのをやめたあの時、やっと同じ人間だと思えたというのに。いったい何がそうさせたのか。市郎太には心当たりがなかった。だから、余計に恐ろしかった。

「市郎太さん、死にたいですか」

 光樹の市郎太の腕を掴む力が強くなる。

「あ、ああ、死にたいさ」

 若干の痛みを感じながら、市郎太は答えた。

「僕もです」

 光樹はそう言い切った途端、腕を突然強く引いて、市郎太を引き寄せた。市郎太は欄干を掴んで耐える。前のめりになる体。光樹は加減などしていない。市郎太を引き摺り込むことも厭わないくらいの強い力だ。

「市郎太さん」

 光樹の声は落ち着いていた。

「一緒に死んではくれませんか?」

 市郎太は目を見開いた。光樹は、市郎太と心中をするつもりだ。

「そうすれば、先に死ぬも後に死ぬもないでしょう」

 離れていく現実感。正気を失っているとしか思えない発言を並べる光樹の声は、市郎太の耳には届けど心に届いていない。市郎太は混乱していた。現状に、そして何よりも自分の心情に。市郎太は、心中という選択肢に追い詰められて、初めて自分の心の裏面に「死にたくない」という気持ちが佇んでいることに気がついたのだ。自分を取り巻く環境や、慎二との関係。それらの現実から逃げたいがために、市郎太は死にたかった。それはつまり、市郎太にとって、死にたさとは免罪符であり、そして、逃げ道だったのだ。死ぬことに魅力を感じていたわけでもなければ、最善の方法だとも思っていなかった。押し寄せる真実。受け止めきれなかったそれは、市郎太の瞳から涙となってこぼれ落ちた。

 光樹に掴まれた腕の痛みが和らぐ。ゆっくりと体を起こせば、一度、市郎太と光樹の目が合った。光樹は、雫を流す市郎太の目元を見ていた。

「帰ろう、光樹」

 市郎太に言えることはそれだけだった。決して「生きたい」とは言えなかった。言ってはいけないと感じたから。

 光樹は短く何度も息を吐き出し、同じように涙を流した。下を向いて、横に首を振る。市郎太は咄嗟に何か言おうとしたが、顔を上げた光樹がもう、化け物の顔をしていないことが分かると、光樹の返事を待つことにした。

「僕は、」

 震えた声。咳き込むように感情の波を抑え込む光樹を、市郎太は優しく見守った。

「これが、これが最善だと、思ったのになぁ」

 欄干を握りしめる光樹の手に、温かい雫が数滴落ちた。市郎太は少し離れて、光樹に手を差し出した。

「難題でなければ、私達はこれほどまでに思い悩んでいないだろうさ」

 光樹は一つ頷いて、市郎太の手を取った。そして、欄干の向こう側から市郎太のいるこちら側へと戻ってきた。互いに指先まで冷え切っていたが、二人ともすでに震えはおさまっていた。

 市郎太が投げてしまった懐中電灯を拾い上げる。すると、故障なのか電池切れなのか、明かりが消えて周囲が真っ暗になってしまった。素早く光樹が携帯のライトを点灯させる。

「幸先が悪いですね」

 光樹が鼻をすすりながら、笑って市郎太を見ると、市郎太は目元を袖で拭っている最中だった。

「まだ、泣いてたんですね」

「うるさい。ずるいぞ」

 可笑しそうに笑う光樹に、市郎太はつられて頬が緩みそうになるのを気づかれないように顔を逸らした。深夜の帰り道。二人が暗闇に包まれることはなかった。


 眩しい。不快なほどに。そう感じて嫌々ながらに目を開けた市郎太は、節々が痛む体をなけなしの気合いで起こした。開き切らない目で辺りを見渡すと、どうやら居間で眠っていたようだ。光樹の姿はない。まだぼんやりとした意識のなか、廊下から足音が聞こえてくると、市郎太は寝起きを誤魔化すように焦って座布団の上に座り直した。

「起きましたか」

「やはり居たのか」

 光樹は持っていたお盆を得意げに机に置いた。匙、茶、料理の順に、二人分配膳されていく。今日のメニューは親子丼だ。市郎太は、配膳が終わるまでの間、気持ちが浮き立っていくのを感じた。

「いただきます」

 一口分掬って口に運ぶ。市郎太は特に味の感想を言わなかったが、次、また次と口に運ぶ様子を見れば、光樹の料理を気に入っていることがよく分かった。しばらく黙々と食べていた市郎太だったが、不意にその手が止まる。

「君に昼食を振る舞ってもらうのはこれで三度目だと思うが、なぜ毎回米料理なんだ」

 光樹が今まで市郎太に提供した料理は、雑炊、炒飯、そして今回の親子丼と、確かに米料理揃いだ。光樹はのんびりと頬張っていた分を咀嚼し飲み込む。

「お米、十キロのやつ買っちゃったんで、消費するためです」

 市郎太は久しく満たされていた米櫃と、食料の詰まっていた冷蔵庫のことを思い出した。

「後で今までの食費を渡そう」

「えへ、ありがとうございます」

 昨日どころか、今日の深夜から早朝にかけての時間までは考えられなかった、穏やかな時間が流れている。不思議なことに、二人は未だに友人でもなければ連絡先も知らないままだ。取り巻く現状も変わっていなければ、明日、明後日も生きているだろうという確証もない。しかし、それで良かった。二人は今を生きていて、もう互いに相手を出し抜いて死んでやろうなどとは思わなくなっているのだから。

 食事を終えた後、市郎太は寝転がり、光樹は読書を楽しんでいた。書斎から市郎太が選び取った本のため、もちろん、戯柵として書かれたものではない。

「この季節は息がしやすい」

 市郎太は微睡みながら、何の気なしに呟いた。

「どうしてですか」

「虫の声がしないからだ」

「虫、苦手なんですか」

 市郎太は寝返りを打って、光樹の方を向いた。

「虫そのものではなく、虫の声が嫌なのだよ。主張激しく鳴き喚いて、生命を見せつけられている気分になる」

 光樹はらしさを損なっていない市郎太に、嬉しさを感じた。それを隠そうとも思わなかったため、光樹が市郎太に嬉しげな顔を見せると、市郎太はまた寝返りを打って反対を向いた。

 そうしていると、ここ数日で何度聞いたか分からない呼び鈴の音が響いた。市郎太が立ち上がるのに苦戦している間に、光樹が来客を出迎えた。

「お邪魔します」

 光樹に連れられ市郎太の元へやってきたのは、ファイルをひらひらとさせて挨拶をする慎二だった。市郎太に促され、慎二は市郎太の向かい側に腰を下ろす。

「僕、お茶淹れてきますね」

 光樹が台所へ行ってしまうと、室内では市郎太と慎二の二人きりになった。他愛のない話をして、それから仕事の話をする。いつもと変わらない、何度も繰り返してきた状況。そのはずなのだが、市郎太は慎二のことがいつもと違って見えた。

「で、進捗はどうかな?」

 雑談もそこそこにして、慎二は持ってきたファイルを広げながら言う。

「順調だ。締切には問題なく間に合う」

 慎二の表情がぱっと華やいだ。

「さすが、市郎太だ」

 慎二はいつも、市郎太のことを褒めそやす。そう、いつものことだ。

「文章の質と効率の両方を落とさずに今まで続けられてるのって、本当に凄いことなんだよ。しかも、維持するだけじゃなくて、成長してる部分もしっかりあってさ。やっぱり市郎太は自分なんかとは違って——」

 慎二はそこで言葉を止めた。市郎太が、自分へ突き刺すような視線を向けていたからだ。今日この日、いつもと違うのは市郎太の方だった。

「市郎太……?」

 身を案ずるような調子で名前を呼ばれれば、市郎太は堰を切ったように言葉を連ねた。

「私は『自分が好ましいと思う事物を、その他の事物より優れている』と思い込む奴が大嫌いだ!」

「え、ええ?」

 戸惑う慎二をよそに、市郎太は立ち上がって慎二を見下した。

「慎二、また文章を書け。自分の作品を作れ。世に出すんだ、君の才能を」

「そんな」

「君は私よりずっと凄い」

 市郎太には、慎二からの反論を受け入れる気など毛頭ない。市郎太は今まで何度も自分を疑い、慎二の感性を信じようとした。だが、幾度それを試みたところで、最終的には慎二の才能に敵わないことを再確認し、自尊心を傷つけるだけだった。しかし、光樹に自分の心を吐露したあの時と、心中に追い詰められた経験を経て、市郎太は慎二との関係を変えたいと本気で思えるようになっていた。

「頼む。私がこの地獄で寛ぎだす前に、君の手で、私に天上への想いを蘇らせてくれ」

 市郎太は慎二の前に膝をついて目線を合わせた。懇願の瞳に見据えられた慎二は困惑しきりだったが、次第に目の前にある道について真剣に考え始める。今いる道は真っ直ぐ続き、どこまでも果てしないように見える。障害もなければ花もない。そんな道だ。隣の分かれ道はどうだ。慎二は想像した。先が見えない。花はあるだろうか。分からない。慎二は答えが決まりつつある。それぞれ、道の先には何があるのだろうか。自分が見たいと思う道の先とは。

 ここで、ようやく決心をした慎二は、伏せていた目を上げた。市郎太はこくり、と喉を鳴らした。

「分かった、書くよ。もう一度、書いてみる」

 慎二から市郎太への眼差しには、憧れとやる気、そして、新たに小さな期待が秘められていた。だからといって、慎二に急に自信が湧いたり、市郎太への盲信が完全になくなったわけではない。しかし、今この時を以て、慎二と市郎太は再び目線の高さが合った。それは、共に成長してきた幼馴染として、市郎太にとっては喜ばしい限りだ。市郎太は張り詰めていた気が緩んだためか、気の抜けたような声を出して慎二の肩を軽く叩いた。

「ああ、良かった。全く、断るようなことがあればどうしてやろうかと」

「恐ろしい言い方をするなよ」

 はしゃぐ市郎太を久しぶりに見ることができた慎二は、自分の選択が今後どうあれ、きっと間違いではないと思うことができた。

「こんこん、お邪魔します」

 そこへ襖をノックするような仕草をしながら、にやけ顔の光樹が現れた。居間の入り口で入る頃合いを見失い、随分前から襖の陰で二人の会話の行く末を見守っていたのだ。

「熱々ですね。お茶は冷えちゃいましたけど」

 光樹は、二人分の湯呑みが乗ったお盆を軽く持ち上げるようにしてみせた。

「それなら、さっさと淹れ直したまえ」

「いやいや、そのままで良いよ。お茶、淹れてくれてありがとう、光樹くん」

 光樹は「えへ」と、嬉しげに笑った。そのまま、部屋を出ようとするのを慎二が引き留めると、その後は三人で談笑を交え、予定時刻を大幅に上回る時間をかけて、仕事の打ち合わせを終えた。

 

 慎二が帰って、日が沈み、夜と言って差し支えのない時刻となった。市郎太が書斎で仕事を片付けて居間へ戻ると、光樹はまだそこにいた。

「帰らないのか」

「えっと、お話ししなければならないことがありまして……」

 市郎太は先日の心中未遂の件か、と思った。光樹は申し訳なさそうにしていて、落ち着きがない。大抵の人間は謝罪すべき案件を前にすると、こうなるものだ。

「まあ、聞いてやろう」

 市郎太はわざと太々しい態度をとって、光樹の向かい側に胡坐をかいた。しかし、光樹が一人で狼狽えている間に心地の悪さを感じ、慣れた正座で座り直す。そうして、市郎太が急かしてやろうと思った矢先、光樹は声を張って罪の告白の第一歩を踏み出した。

「あの、読んじゃいました。ごめんなさい」

 頭を深々と下げる光樹。心中未遂のことについてかと思えばそうでなく、言葉足らずの謝罪に市郎太は疑問符を浮かべている。市郎太は、読んだという点から戯柵として書いた本のことかとも思ったが、仮にそうだとして、光樹がここまで深刻そうに謝ることに不自然さを感じた。

「何を読んだというのかね」

「それは、」

 光樹の視線が泳ぐ。その途中、ある一点をほんの僅かな時間見つめた。市郎太はそれを見逃さなかった。市郎太は自分の背後を振り返って観察した。棚がある。市郎太はまさか、と思った。

「ノートを」

 光樹が言いかけると、市郎太は眉間に皺を寄せて光樹の方を向いた。

「読んだのか。あれを」

「本当にごめんなさい」

 市郎太が問い詰めるように言うと、光樹はまた頭を下げた。市郎太は返事もせずに立ち上がった。そして、光樹がそろりと顔を上げた時、市郎太は棚と壁の隙間あたりから、件のノートを取り出していた。その表情から窺えるのは、怒りや憎しみなどではなく、わずかな気恥ずかしさと後悔だった。

「まさか、見つけたうえに中身を読むとはな」

「全部、読んじゃいました」

 想像よりも柔らかな雰囲気に油断した光樹が口を滑らせると、市郎太はどこかつらそうに「そうか」と、こぼした。市郎太はノートの背表紙に手を添えて、その表紙をめくった。そこに目一杯書き記されているのは、市郎太の内面の吐露と、自害で結末を迎える短編作品の数々だった。後半のページには、あの時、光樹が読むことのなかった文章がある。光樹は不安を顔に出して、市郎太の次の言動を待っていた。

「あまり、見えるような場所に置くものではなかったな。すまない」

 光樹は市郎太から謝られる道理はないように思った。しかし、それを口に出して伝えることはしなかった。先ほどの市郎太の発言が、ひとつのけじめのように思えたからだ。

「私はこれに縋っていたんだな」

 市郎太はノートに記された文字列を指で優しく撫でた。比較的新しい文章は、擦れて黒色の線を伸ばす。

「いつまでも、ここに書かれた心に感情を沿わせて、暗がりを求めては書き足していた」

「暗がり、ですか」

 指先を汚し続ける市郎太を、光樹は哀れだとは思わなかった。

「この世は私には明るすぎる」

 黒く滲んだ文字が読めなくなってくると、市郎太は少しずつ解放されていくような気持ちになった。それを光樹は「でも」の声で遮る。

「あの世が暗闇である保証もないでしょう」

 市郎太の手が止まった。

「だからそのノート、もういらないんじゃないですか」

 光樹は軽々と言ってのけた。呆気にとられた市郎太だったが、光樹の発言に込められた気持ちは単純なもので、否定しようなどと思うことは無かった。

「それもそうだな」

 市郎太はノートを閉じながら、自然と光樹に微笑んだ。それから、そのノートを屑籠に落とし入れる。新品よりも厚さが増しているそれは、見た目に見合わないほど空っぽな音を立てた。

「どうやら私も君も、もう独りで死ぬことはできないらしい」

 光樹を見据えながら、市郎太は顔を合わせて座る。

「だが、未だ私達は挫けやすい。だからまた、容易に死を選ぶだろう」

 互いに背筋を伸ばして、気分の高揚を感じていた。それは、将来に馳せる思いや過去の出来事によるものではない。

「光樹、君が太陽のような人間でなくて良かった」

「明るいもの、お嫌いですもんね」

 自分らしさと今を生きること。それだけが、二人にとって大切なのだ。

「もし、私達に来るべき時が来たら、その時は、」

 友人でもなければ、互いの連絡先も知らない、会って数日程度の知り合い。しかし、二人の繋がりは、もう脆いとは言えないだろう。

 市郎太は言う。

「一緒に死んではくれないか?」


 こんな途方もない約束を結んでしまうのだから。

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