第15話 ひび割れ

「あの人マジで無理」


 マジでむかつくあの男……。なんなんだよ。

 私は保健室に戻るまで森永に対する愚痴を堀さんにぶつけた。


「奈緒美さんのその感情は間違っているものではないですよ。でも、感情に任せて暴力を振るうのは、ダメです。それは、香帆ちゃんを想う気持ちからのことかもしれませんが、同時に香帆ちゃんを裏切ることになります」


「それは……そうなんですけど。堀さんは、何も思わないんですか。あの人のこと」


「私はきっと、若山先生と似ているんです。沢山のそういった子供達を見てきた。理不尽も、不条理も同時に。だからこそ、心のどこかで、これは仕方ないんだって割り切ってしまっているんだと思います。でも、奈緒美さんは今日感じた怒り、不快感、苦痛。それらを忘れないでください。私たち一職員には香帆ちゃんは救えません。里親である、奈緒美さんにしかできないことです」


「どう……ですかね。だって私は────」


 私は、香帆ちゃんにとって、所詮赤の他人なのだから。

 私にだってどうしたらいいかなんて、わからない。

 今日だけで、自分の里親としての情けなさを痛感した。私は、里親失格なのかも知れない。


 気が付くと、すでに保健室の前だった。


「失礼します」


 堀さんの後に続いて私も保健室に入る。

 若山先生がお帰りなさいと迎えてくれた。どうやら香帆ちゃんはまだ眠っているらしい。


 もう下校時間を大分過ぎていた。

 堀さんが香帆ちゃんの荷物を持ってくると言って1人で香帆ちゃんの教室に向かった。


 私は椅子に座り、堀さんを待つことにした。


「……森永先生とのお話、上手くいきませんよね」


 若山先生が話かけてきたが、資料室でのことがあった後だから、どう返していいか困る。


「あー……わかります?」

「ひどい顔してますよ~そんな顔香帆ちゃんに見せたら、余計不安にさせちゃいますよ」


 そういって、若山先生からマグカップに入ったブラックコーヒーを渡された。

 さっきのことに、急な罪悪感に襲われた。


「さっきは、感情的になってすみませんでした」

「大丈夫ですよ。奈緒美さんが怒る理由も、わかりますから」


 ……なんだろうな。保健室の先生ってのは不思議と包容力があるというか、聞き上手なんだな。




「ごちそうさまです」


 私はコーヒーを飲み干し、カップを若山先生に渡した。


「はい、おそまつさまでした」


 そのタイミングでちょうど堀さんが戻ってきた。いつの間にか外は大雨が降っていて、堀さんが車で家まで送ってくれることになった。私は寝ている香帆ちゃんを堀さんの車まで運ぶことになった。

 起こさないようにだっこをして車まで運んだ。


「それじゃあ失礼します」


 土砂降りの雨の中、校門まで若山先生が見送ってくれた。

 後部座席に香帆ちゃんを乗せて、その隣に私が座った。


「奈緒美さん。香帆ちゃんがもし、学校に行きたくないと言った場合は、無理強いさせないようにしてくださいね。私に連絡してもらえれば保健室登校もできるので」


「……ありがとうございます。その時は、よろしくお願いします」

 そうして私たちは学校を出た。




 雨音が響き渡る夕方の部屋。

 寝ている香帆ちゃんをベットに運んだ。

 キッチンの椅子に座り、1人思いにふける。


 今日、香帆ちゃんについて初めて知ったことが多かった。前の家では虐待を受けていて、学校ではクラスメイトからいじめられていて、担任は糞みたいなやつだった。


 香帆ちゃんは、よく、耐えてこられたな。

 私は、何も知らなかった。というより、知ろうとしていなかった。香帆ちゃんが笑ってくれていたから、香帆ちゃんとの生活に不満がなかったから。このままの生活を望んでいたから。だから香帆ちゃんのことを、ろくに知ろうともしてこなかった。それが今になって津波のように一気に押し寄せてきたのだろう。


 何が、里親だよ。


「……奈緒美、さん?」


 しばらくして、香帆ちゃんが目を覚ました。


「おはよう。といっても、もう夕方だけど。お腹空いてない? もうご飯作っちゃおうか?」

「あ、あの……わ、わた……ッ!」


 何かを言いかけた香帆ちゃんだったけど、口に手を当てながらトイレへと走って行った。

 強く戸を開ける音が聞こえた。


「”お”ェ─────ヴィッ────」


 すぐに吐いているのだとわかり、私もトイレへ向かった。

 案の定、便座に手をついて吐いている香帆ちゃんの姿があった。


「香帆ちゃん大丈夫?」


 私は香帆ちゃんの背中をさすりながら声を掛けた。

 鼻につく胃酸特有の酸っぱい匂い。吐いたばかりでも、その匂いで再び吐き気に襲われることがあるくらい、嫌な臭いだ。


「はァ────はァ──────はァ────────”ァ”ッ!」


 それからしばらく、香帆ちゃんはずっと吐いていた。

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