第42話  帰還

 ハナが井戸端で洗い物をしていると、スッと風が頬を撫でる。

 微かな梅の花の香りに振り向くと、安倍一真が立っていた。

 この香りはウメのものだ。

 ハナはウメが魂となって戻ってきたのだと思った。


 一真の衣はあちこちに裂け目ができて、被っていた烏帽子も無残に割れている。

 ハナは慌てて立ち上がった。


「お帰りなさい! かず君。無事だったのね」


「うん、ただいまハナちゃん。心配をかけたね。でももう無事に終わったから安心して」


 ハナは一真に抱きつきたい衝動に駆られたが、なぜかそうしてはいけないような気がして動くことが出来なかった。


「ハナちゃん、手伝うよ。洗い物はこれで終わり?」


「ううん、大丈夫。もう終わるから。それよりかず君、お湯が沸いているからお風呂に浸かってゆっくりして。後で傷の手当てもしなくちゃ」


「わかった。そうさせて貰おうか。随分汚れちゃったからね.」


「ゆっくり入ってね。後でお湯加減を伺いに行くから」


 一真は大仕事を成し遂げた後とは思えないほど、飄々とした笑顔を残して湯殿に行った。

 その後ろ姿を見ながら前掛けをギュッと握ったハナは、心からホッとしている自分に驚いてしまった。


「ハナさん、御上がお呼びです」


 シマさんが厨房に続く扉から顔を出した。


「はぁ~い」


 座敷に行くとおじいちゃんの前に座っているすが坊が、疲れ切った表情で微笑んだ。


「お帰りなさい、すが坊。えっと……いろいろ……大変だったよね」


「ただいま帰りました。ハナさんも頑張りましたね。見事な祝詞と護符でした。私はもうお役御免というところでしょうか」


「そんな! 私はまだまだ全然未熟です。すが坊先生が頼りなのに……」


「ははは。そう言っていただけると嬉しいですが、もう卒業でいいでしょう。それよりあなたにしかできないことを頑張ってください」


「私にしかできないこと?」


「そうですよ。あなたは一言主神様の愛し子だ。言の葉に神力を乗せることができる。これはどれほど高い神格があろうとも元祖神以外ではあなた方だけなのです」


「そうですよね……」


「これからも廻るのでしょう? 全国津々浦々の社をすべて廻り終えるのに何年かかるでしょうね?」


「津々浦々ってどれほどの社があるのでしょうか」


 フッと笑顔を浮かべたすが坊が一言主神の顔を見た。

 おじいちゃんがすが坊の代わりに答える。


「そうじゃなぁ……八百万ほどかのう。まあ祝詞をあげねばならぬ重要な社だけなら五百くらいじゃから、週に二か所廻って五年というところか?」


 すが坊が続ける。


「そうですね、主なところを廻ればその周辺に点在するものにも波及しますから、結局は八百万全てを廻るのと同じ効果はあるでしょうね。ただ、それを家庭を持ちながらやらなくてはならない。妻ともなれば子を育てながらということになる。なかなかの重労働ですよ?」


 ハナは眉間に皺を寄せた。


「そうなのじゃ。今までのハナ達はとても苦労しておったよ。だからせめて俺の世話くらいは免除してやろうと思って、婚姻させた後は旅に出るようにしていた」


 ハナはおじいちゃんの顔を見た。

 昔を懐かしむような穏やかな表情をしている。


「愛し子が亡くなったあとは、この社を守らねばならんから戻ったが、一人では退屈で仕方がなかったよ。まあいろいろと話を持ち込む神々もおるから、忙しくはあったがの」


 ハナは初めてこの社に入った日の、おじいちゃんの喜びようを思い出した。


「おじいちゃん、寂しかったの?」


「そうじゃなぁ。寂しくないと言えば噓になるが、慣れれば独りも快適ではあった」


 少し困ったような顔でそういうおじいちゃんを、ハナはとても愛おしいと思った。


「大丈夫だよ、おじいちゃん。私が死ぬまでずっと一緒にいようね」


「お? ハナは結婚せねばならぬのだぞ? お前が子孫を残さねば葛城の家が絶えてしまうぞ?」


「うん。でもおじいちゃんとはずっと一緒にいたい」


「そうかそうか、ハナは可愛いのう」


 すが坊が口を挟む。


「いっそハナさんを継子神になさっては如何です? 葛城の家は名だけ残せば良いでしょう。ここを神社として神官を置けばいい」


 おじいちゃんが目を見開いて黙った。


「しかしそうなるとハナは永久に生きることになる。それはそれで惨いことじゃ」


「それはハナさんが決めることですよ。何なら安倍の息子も使徒神にして娶わせてはいかがです?」


「なるほど、一言主神の愛し子の夫が陰陽師か。なかなかよい取り合わせじゃな」


「その子らに各所の神宮に派遣しても良いでしょうね」


「ほうほう、さすがに頭が良い男じゃ。どうじゃ? ハナや」


 ハナはビクッと肩を震わせた。


「そんなこと、すぐに決められるわけ無いじゃん! かず坊の気持ちだって聞かないと」


 カラッと音がして神官の普段着に着替えたかず坊が入ってきた。


「何の話です?」


 ハナは呼吸が止まりそうなほど驚いて、頬を真っ赤に染めて俯いてしまった。

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