一言主神の愛し子

志波 連

第1話  17歳の誕生日

 葛城ハナは17歳の誕生日を迎えた今日も、朝から忙しく働いていた。

 10年前に母が亡くなり、それからすぐに父が迎えた後妻との間には、すでに子供がいた。

 ハナの義妹となったその娘は、ハナより二つ年下の可愛らしい少女だった。


「では行ってまいります。お義姉様」


「行ってらっしゃい聡子さん」


 正面玄関前に停まっている黒塗りの乗用車に、何の感慨も無さそうに乗り込む聡子。

 今年から名門女学園に入学した聡子の送迎のために、父親が用意したこの大きな車にハナは乗ったことが無かった。

 ハナは義務教育が終わるとすぐに、修行という名目で、家政のほぼすべてを担うように命じられたのだ。

 家族全員の食事の支度はもちろん、各人の私室と客間の掃除、それが終われば洗濯だ。

 炊飯は竈で羽釜、洗濯は桶と板、掃除はハタキと箒と雑巾だ。

 しかしハナはそれを淡々と受け入れ、それなりに楽しんでいる。


「今日は洗濯ものが多いから、お天気が良くて助かるわぁ」


 ハナは大きな洗い桶に井戸の水を張りながら、天に向かって手を合わせる。


「お天気の神様、ありがとう存じます」


 事あるごとにハナはお礼の言葉を口にする。

 これはハナを可愛がってくれた祖母の教えだった。


「いいかい? ハナ。自分で何とかして良くなるなら、精一杯頑張らなくちゃいけないよ。でもね、自分ではどうしようもない事があるだろう? そういうことは頑張りようが無いだろう?」


 病床にある母の代わりに、ハナを膝に抱きながら祖母は何度も同じことを言い聞かせた。


「自分ではどうしようもないことは、放っておけばいいんだ。だってそうだろう? ハナがお庭で遊ぼうって決めていた日に雨が降ったとしよう。でもお天気は神様がお決めになったことだ。ハナにはどうしようもない。考えても仕方がないし、お空を睨んでも雨は止んだりしない。誰のせいでも無いのだから、誰かを怨むこともできやしない。だったらもう放っておくしかないんだよ」


そして祖母は最後に必ず言った。

「それが生きるコツさ」


 その言葉を胸に、ハナは今日まで生きてきた。

 ハナは勉強が大好きだった。

 自分が頑張れば、成績が上がるということが楽しくて仕方がなかった。

 努力をすれば分からなかったことが理解できるということが嬉しくて夢中になった。

 そんな日常が崩壊したのは今から2年前、ハナが15歳になる早春だった。

 最高学年になり、生徒代表として答辞を読むことになったと報告したハナに、父親は至って普通に、まるでお茶を淹れてくれというくらいのテンションで告げたのだ。


「お前は修行をしなくてはならない。上級学校には行かせない。これは決定事項だ」


 ハナは静かに頷いた。

 自分の努力で変えられるような事ではないと判断したからだ。

 卒業式を終えて帰ってきたハナは、その日から家族のために働いた。

 食事の支度は勿論、掃除や洗濯、果ては庭の草むしりまで何でもやった。

 ハナにその全てを教えてくれたのは、ハナが生まれる前からこの家の使用人として働いているシマさんという老婆と、その夫で下働きをしているヤスさんだ。

 雑巾を洗うために、井戸水を水桶に張りながらハナはふと考えた。


「今日って……何か大切な用事があったような気がする」


 父親に言いつけられていた、銀行への融資申し込み書類も出来上がっている。

 義母が買ってきた反物も、命じられた通りに縫いあげてある。

 義妹に頼まれた日本史のレポートも書き上げた。


「なんだっけ……」


 雑巾を洗った水を庭に撒きながら、小首を傾げるハナの後ろから、シマが声を掛けた。


「ハナお嬢様。お昼までには禊を済ませてしまいましょうね」


「シマさん、そうよ! 今日はなんとかという儀式を行う日だったよね」


「ええそうですよ。ハナお嬢様一世一代の大仕事の日です」


 シマが引き締まった顔で続ける。


「今日はハナお嬢様が17歳になられる日であり、成人として迎える最初の満月の日です。今日のために雲一つない晴天をご用意下さった神に感謝をしなくてはなりません」


「うん、ちゃんとお礼を申し上げたよ」


 本当は違う意味で礼を言ったのだが、広義では違わないということにした。


「左様でしたか。さすが一言主の愛し子。私などが口を挟む必要はございませんでしたね」


 シマが嬉しそうにハナを褒めた。


「この洗濯物を干したらすぐに準備に向かうね。確か白装束を着るんだよね?」


「左様でございます。すでにお部屋に準備してございます」


「準備してから昼食にする?」


「いいえ、本日は儀式が終わるまで何も召し上がってはなりません」


「ゲッ!」


 ハナは盛大に溜息をついた。

 そう言えばそんなことを言われたなと思いながら、忙しさのあまり味噌汁と冷や飯をかき込んだだけのいい加減な朝食にしたことを後悔した。


「さあさあ、ここは私がやっておきますからお着替えになってくださいな」


 ハナから洗濯ものを奪い取ったシマに、背中を押されるようにして自室に向かう。

 今日の儀式のことは、もう何日も前から聞かされていた。

 聞かされてはいたが、あまりにも浮世離れした話のために、理解が追い付いていないのが正直なところだ。

 汚れた前掛けを外し、作業着を脱ぎながらハナは思った。


「一言主神(ひとことぬしがみ)の愛し子って、結局良くわかんないのよね……」

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