第36話

唇が指先に触れて琥珀こはくはぎゅっと目を瞑った。

まるで火花が心臓ではじけたみたいだ。

雪久ゆきひさの息が暖かい。手の平が汗ばんでいる。

ゆっくりと瞼を開けて目の前の雪久を見る。彼もまた視線を上げた。

『・・・雪久・・・さん。』

『何?』

『今・・・。』

琥珀は言葉に出来ずに飲み込んだ。それに気付いて雪久は微笑む。

『ああ。』

『・・・あの。』

『好きだよ。』

さらりと彼の口から言葉が漏れる。

けれどからかいではない。雪久の目はまっすぐに琥珀を捉えている。

『嘘だと思ってる?』

雪久は琥珀の手を引くと体を近づけた。

『琥珀さん、俺は・・・強引なのかも知れない。』

『え?』

指先で顎を引き上げられて唇が触れた。

煙草の匂いとかすかに香る柔らかな匂い。

雪久の部屋で時々焚かれている香だ。

『目を閉じて。』

はい、と返事する間もなく唇が割れる。

暖かい舌先が唇に触れて琥珀は強く目を瞑った。

口付け、本では沢山見たのに体験するのはまるで違う。

溶け出しそうな体が雪久の胸に沈んでいく気がする。

唇が離れてそっと瞼を開けると、雪久の顔が優しく微笑んでいた。

『悪い。』

『・・・いえ・・・。』

『・・・足りないかな。』

『え?』

雪久の指先が琥珀の首に触れて、びくっと大きく体が揺れた。

『怖い?』

もう一度優しく頬に唇が触れて、ぎゅっと抱きしめられる。

耳元でかすかに長い溜息が聞こえて琥珀は雪久にもたれかかった。

そっと彼の背中に腕を回して力をこめると雪久の手が琥珀の頭を撫でた。




『じゃあ、また。』

別れを告げて、琥珀が寮に入るのを待って見えなくなると車は走り出した。

雪久はシートにもたれてハンドルを握る。

右手で唇に触れると息を吐いた。

強引だった・・・だろうな。無理矢理口付けてしまった自分が止められずに、後悔しているどころか戸惑いもない。いっそ・・・そんなことを考えている自分がいる。

完全にたがが外れてしまったようだ。

腕の中にいた琥珀の小ささ。華奢な手、柔らかい体。好きだと自覚してしまえば愛おしさが溢れてしまう。

今までこんな風に女性を感じることはなかった。まるで物みたいに扱っていた自分に気付いてしまう。

雪久は息を吐く。どうして・・・そんな風に出来たんだろうな。女なんて簡単だと、体の関係ばかりを結んできた。口だけの好きという言葉は何度でも言えたのに、受け取った女たちの顔は覚えていない。

覚えていないのに、琥珀の言動は全て思い出せる。

『・・・真舌ましたのことばかりは言えないな・・・。』

ぽつりと呟くと煙草を銜えて火をつけた。

車を走らせながら、自分の情けなさに呆れてしまう。

きっと次に琥珀に触れたら・・・抱いてしまうだろう。大切にしたい気持ちも彼女の前で紳士でいたい自分も、好きだと思う気持ちには負けてしまいそうだった。

せめて彼女が泣かないように・・・そう思う。

ああ、でも。もう一度、彼女の口から・・・。



深夜過ぎ、珍しく鳴った電話、受話器の向こうは真舌で眠れないから話し相手になれとの誘いだった。

『それで?お前もう怪我はいいのか?』

『ああ。大分な。今日は菊ちゃんがお婆さんのところに行ってて留守なんだ。俺が怪我して心配かけっぱなしだったからさ。少し羽根を伸ばしてくれればいいんだけどね。』

『ああ、そうだな。』

『で、琥珀ちゃんは?』

真舌の言葉に雪久は天を仰ぐ。

『・・・。』

『何?なんで黙る?喧嘩でもしたか?』

『するかよ、お前じゃあるまいし。』

雪久の軽口に真舌が舌打ちする。

『言い方。じゃあなんだよ?確か彼女も仕事してんだろ?会ってるのか?』

『ああ。』

真舌は雪久が黙ると噴出して声を上げて笑った。

『おい!』

『くっ・・・悪い。悪かったって。雪久、お前・・・本気なんだな。今までそんな風じゃなかった。女の話してもサラっとしてたのに。琥珀ちゃんの話になると堅くなる。』

『そうか?』

雪久も知らない所で何か違うらしい。

『ああ、違うね。まあ、前に連れてきた時に思ったんだよ。珍しいなって。それに・・・随分と優しいんだなって。菊ちゃんも言ってたよ。』

『菊さんが?』

『うん。いつも優しい雪久が琥珀ちゃんの前だともっと違う。あの時はまだお前の中では琥珀ちゃんって普通の女の子って感じだったんだろうけどさ。今は違うんだろ?』

雪久は大きく息を吐くと前髪をくしゃりと潰した。

『・・・違うな。』

『お、素直になったか?』

『茶化すな。』

『すまん。で・・・話してくれるのかよ。』

『・・・ああ。前とは違う。彼女は特別なんだと思う。お前が菊さんを大切に思うように・・・俺は彼女を。』

『愛してるとか?』

真舌の言葉に雪久は苦笑すると、真舌も笑った。

『・・・そうだな。』

『・・・なあ、雪久。義務とかじゃないよな?』

『違うよ。』

雪久の答えに真舌は少し黙った後、息を吐いた。

『なら良かった。あの子はお前に惚れてるよ。本気でな。』

『知ってる。』

『まあ、分かりやすいか。あの目で追われたら殆どの男はイチコロだろ。』

『・・・だから困りものだ。』

『違いない。』

会話が途切れて、じゃあと電話を切る。床に座ったまま雪久は壁にもたれた。

『惚れてるか・・・。』

初めてこの家に来た時、琥珀と話をした時、色んな彼女を思い出す。彼女はいつも雪久から視線を逸らして顔を赤くした。

雪久は髪をかきあげると笑みを零した。





雨の午後。

琥珀はお洒落をして寮から少し離れた場所にある喫茶店でお茶を飲んでいる。

先日雪久から電話で仕事が休みの日を聞かれて、ここで待ち合わせをしている。

所謂デートだ。

雪久から告白をされたあの日からは少し日が経っているが、琥珀の中では嘘みたいな事実だった。

まさか自分の好きな人が好きになってくれることがあるなんて。そんな夢のようなことが起きるなんて思ってもみなかった。

鞄から赤い本を取り出すとそっと手を重ねた。

あれからこれを何度も読んでいる。

今日は雪久に返そうと持ってきたが、自分が今幸せなのはこれのお陰かもしれない。

カランと喫茶店のドアが開いて、スーツ姿の雪久が入ってくる。仕事だったのか珍しく眼鏡姿で店内を見渡すと琥珀を見つけて微笑んだ。

『待たせて申し訳ない。』

雪久は席に着くと何かに気付いたように琥珀に手を伸ばす。そっと指先で頬にかかった髪を直すと飲み物を二つ注文した。

『すいません。恥ずかしいな・・・。』

琥珀は髪を両手で撫で付けるも雪久は首を横に振る。

『いいや、可愛いよ。』

当たり前のように彼は言い、注文した品がテーブルに来るとそれに手をつけた。

『うん?どうした?』

『いえ・・・。』

琥珀の前にも暖かい紅茶が湯気をあげている。そっと指先を暖めると顔を上げた。

久しぶりに会う雪久の顔はやっぱり綺麗だ。少し疲れて見えるのは仕事終わりだからだろうか?

『あの、雪久さん・・・疲れてませんか?』

『いいや。大丈夫。といっても・・・忙しかったのは確かだ。ここの所バタバタしていて。琥珀さんの事もほったらかしになっていたかな?』

『そんなことは・・・。』

『悪かった。』

雪久の目が優しく揺れる。琥珀はたまらず唇を噛むと俯いた。

『寂しかった?』

さっきよりも優しい声で問われて琥珀は視線を上げる。

質問の答えは会いたかった。ただそれだけだ。けれど実際琥珀も忙しくはしていたし、雪久が多忙なのは理解している。それでも・・・。

答えを待つ雪久に何か言いかけて琥珀は口をつぐんだ。

言えば・・・わがままだ。ただのわがまま。大人なのだからお互いを尊重しなくてはいけない。

琥珀は背筋をぴっとのばすと首を横に振った。

『大丈夫です。』

『そうか・・・。』

雪久は少し残念そうに笑うと頬杖をつく。

『・・・俺は・・・琥珀さんに会いたかったよ。』

『・・・え?』

『寂しいと思っていたよ。あの日、君に触れたから・・・どうにもね。』

琥珀の顔が赤くなると同時に雪久は破顔する。

『あ!もうっ!』

むっとする琥珀に雪久はくつくつと喉元で笑った。

『雪久さん!』

琥珀の抗議に雪久は小さな声で言った。

『でも・・・嘘じゃない。君に会いたかったよ。』

この人はこんな顔をして冗談を言う人だったろうか?

人が変わったように感じるのは琥珀だけだろうか?

態度は何も変わってはいない。でも琥珀を見る目が優しい。

以前もとても優しかった、けれどそれ以上に、甘えても許してもらえそうなそんな優しい目だ。

琥珀は目の前に座る雪久をちらりと盗み見る。

雪久は今煙草を片手に窓の外を眺めている。横顔に長い髪がかかってとても綺麗だ。

出逢ったときも同じ、やっぱり見惚れてしまう。

琥珀はカップの紅茶に口をつけると、雪久の視線が飛んできた。

それに驚いてピクッと肩を揺らすと雪久は頬杖をついて微笑む。

『何?』

『・・・いいえ。』

『ふうん。』

多分、雪久は気づいている。けれど言葉にはせずに琥珀の様子を伺っている。

あっと声を上げて琥珀は鞄から赤い本を取り出すと机の上に出した。

『これ。』

『・・・ああ。そういえば琥珀さんが持ってたね。』

『はい。』

琥珀は赤い本を捲るとくっついていた頁を開く。

『雪久さん、ここ読まれましたか?くっついていたところ。』

雪久は本を覗き込むと、いいやと首を振る。

『父・・・の字かな?』

『はい。高良さんの書かれたものになります。どうぞ。』

琥珀は本を回転させて雪久のほうへ差し出した。

雪久は本を手繰り寄せて、煙草を銜えると視線を落とした。



陽が落ちて、二人は車を走らせて続木の家へと向かっていた。

寮へ向かうはずだったが、琥珀が本を借りたいと言ったのがきっかけだった。

『今日は珠はいないから、上がって。俺はお茶を入れてくる。』

書斎へ通されて雪久はいつものように部屋を出て行った。

この家はいつも綺麗に清掃されている。雪久の仕事部屋も同じく整理整頓がなされている。

琥珀は鞄を置くと赤い本を持って書棚に向かう。幾つか見知らぬ本を見つけて手に取ると表紙を見て微笑んだ。

恋愛小説だ。雪久が読みそうにない本だが、きっと琥珀のために用意していたのだろうか。

幾つか抱えて雪久の部屋に戻ると、湯飲みを二つ持った雪久が立っていた。

『あ、新しいのがありました。』

琥珀は本を机に置くとそれを雪久が覗き込む。

『うん、琥珀さんが読むだろうと思ってね。はい、どうぞ。』

湯飲みを渡されて畳の上に座ると彼もまた壁際にもたれるように座った。

『お茶を飲んだら、出ようか。』

雪久は静かにそう言うとお茶を飲む。

『え?もう?』

驚いたように琥珀が声を上げたので、雪久は胡坐に頬杖をついた。

『送っていく。』

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