第30話
文月、
私が目利きをしていたと聞いて御礼を言ってくれた。大したことなんてないのに。申し訳なさそうにして、私のほうがろくでもないのに。
雪久ちゃん、可愛い。可愛い声で
葉月、体が痛い。嘘をつくのは得意だけど高良さんにはすぐわかってしまう。
お医者も呼んでくれて、私は幸せね。
長月、雪久ちゃんに本を読む。あの子は賢い。きっと高良さんに似て素敵な人になるだろう。
神無月、お嫁さんが来てくれた。私の知っている商人を紹介した。これで少しは自信になるかしら。清さん、ごめんね。
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儚い恋は夢のように始まった。どうして恋なんてしてしまったんだろう?
奨は鏡の中の自分を眺める。初めて来てくれた客の中で一番好ましい人が今も目に焼きついている。呉服屋の息子だとか聞いたが、正直そんなことどうでもよかった。
座敷に入ったのは彼の父親がせっかくだからと自分を指名したからだ。
美しい着物に身を包んだ
『
『はい・・・いつも雪慈さんを指名なさる方ですね?』
『そう。けどね・・・お仕事でもあるのよ?今日は揚花ちゃんも一緒だから勉強できるといいわね?』
雪慈はそう言うと品良く笑う。花が零れるというのはこうした微笑みだろう。
座敷には品の良い男が二人座っている。年は四、五十くらいの精悍な面立ちで体躯が良く着物が映えている。その隣には優しそうなまだ若い男が目を伏せている。店には不釣合いな雰囲気でどうやら連れて来られたらしい。
『続木さん、いらっしゃい。来てくれて嬉しいわ。』
雪慈が席に着くと続木と呼ばれた男性は頷いた。
『うん、ああ、こっちは息子の高良だ。こうした店は初めてでね。慣らすためにもつれてきたんだよ。』
続木の隣の高良は雪慈の顔を見ると軽く会釈した。
『初めまして・・・続木高良です。』
『初めまして・・・雪慈です。こっちの子は揚花です。可愛がってくださいね。』
『揚花です。』
奨は頭を下げてからゆっくりと高良の顔を見た。少し色の白い美しい顔に少し長めの髪が彼の動きに合わせてさらさら揺れている。
『よろしくお願いします。』
ぎこちない視線の高良は奨と目が合うとパッと目を逸らした。
座敷に酒が並び雪慈と続木は仕事の話に花を咲かせている。どうやら本当に仕事の助言が欲しいらしく続木は色々と聞いていた。それに笑顔で答えている雪慈も楽しそうに見える。
『そうか・・・やはり雪慈は賢いな・・・今度また外に出てみるか?』
『あら、一緒にお仕事させてもらえるの?流行は目で見てナンボですからね。』
『違いない。』
ハハハと続木が笑う。その隣で静かに聞いていた高良も微笑んで頷く。
『さて・・・そろそろ仕事の話は切り上げて、楽しませてもらおうかな?』
『ええ。』
雪慈は続木の手を取り、奥の部屋へと進んでいく。襖がぴしゃりと閉まると奨の前に座っていた高良が顔を真っ赤にした。
『・・・こういう場所ですよね。ここって。』
『ええ。高良さんも楽しまれますか?』
『ええ??』
奨の言葉に高良は驚いて声を上げると俯いた。
『・・・お、お誘いは嬉しいんですけど・・・僕は・・・そういう経験がないので。』
『フフ、ならお任せくださいな。』
高良はぎゅっと目を瞑ると俯いたまま小さく頷いた。
可愛い人だと思った。二度目に来た時、やっぱり父親と一緒だったけど高良が揚花を指名してくれた。
座敷に行くと高良一人で、いつもの仕事と変わらないのに何故か彼の目を見ると心臓が激しく鼓動した。
『揚花・・・さん。』
傍に座り手を握られるだけで心臓が走りだす。以前仲間内で好きな人に小指を送るなんて恐ろしい話していたけど、それで心がつかめるならやってみても損はないと思ってしまうのはどうしてだろう。
優しく手を握られて高良は少し顔を赤くしていたが、どこか視線をあげなかった。
『実は・・・結婚したんです。』
『え?』と一瞬言いかけて飲み込んだ。奨はいつもの微笑を絶やさずに声を震わせないように頷く。
『それは、おめでとうございます。』
『うん・・・だから今日は君を・・・。ごめん。』
『いいえ、そんな。でも奥様は幸せな方ですね。』
奨はそっと酒を注ぐ。徳利を持つ手が少し震えているのが分かった。
『・・・どうだろう?彼女は嫁いで来てくれた人でね。美しい人だけど、母の顔をよくうかがっている。』
『あら、円満なことは良いことでは?』
『それはそうだけどね。いずれ父から僕が代替わりして店をすることになる。僕は父やあなたたちから仕事の助言を聞いたりしてるけど色々不安もある・・・それで。』
『それで?』
『父のように・・・あなたの元に来てもいいだろうか?ちゃんと対価は支払うし・・・ただ、君を抱くことがないから・・・その。』
高良の指が奨の指に触れた。熱い指先から言葉と裏腹な気持ちが見えてくるようで不思議だ。
『ええ、ご利用くだされば嬉しいです。そればかりではありませんから。』
『そうか、良かった。会えなくなると寂しいから・・・。』
高良は優しく微笑む。
『寂しい・・・そう言って貰えると女冥利に尽きます。』
『うん。』
奨が顔をあげると高良の瞳とかち合った。
『・・・でもこうして手だけでも繋いでいいかな?』
高良の大きな手が奨の手を包み込む。指を絡めてじんわりと暖かさを感じた。
『ええ・・・。』
高良の指名が入ると店から小言を言われる。大したことではないが、金払いが悪いわけではないのにどうしてか父親の続木とは違うからだろうか。
他の客も取ってはいるが、少し前から調子が悪い。医者に見てもらったら流行病だろうと言っていた。
外出の日、高良と外で仕事をして幸せな気分で店に戻る。座敷で酒を飲みながら彼の仕事の助言をするのも好きだが、外に出てどこか夫婦のように歩くのがたまらなく好きになっていた。
春の頃、店に立てなくなった。体の調子がおかしくなって床に臥せっている。
店の御母さんも優しくしてくれるけど、どうにも気が重い。この仕事に就く女は大体こうなるらしいけど。
高良以外の客も彼と同じように話すだけと指名をしてくれる。ありがたいと思いつつも体が思うように動かず辛いばかりだ。
そしてとうとう寝込んでしまった頃、久しぶりに高良が店にやってきた。
けれど会う事もままならず部屋にいると襖が開いた先に彼がいた。
『揚花・・・君を貰いにきたよ。』
『え?』
奨の両手を握り優しく高良は微笑みを浮かべる。
『金は払った。これから僕の家で君は暮らす。』
『でも・・・そんなこと。』
『いいかい?君はもう僕のものだ。さあ、おいで。』
手を引かれて高良の家に着く。立派な一軒家に通されて日当たりの良い部屋が奨のものだと教えてもらった。
ふかふかの布団に奨が好きなものが部屋の奥に並べられている。お嫁さんとしてここへ来たわけではないが胸が幸せで一杯になった。
高良が仕事に出ている時間は一人家にいる。それでも店にいるよりも穏やかで幸せで、何よりこの家には高良の気配が多くしている。
安心が心を満たしているせいか体調はとても安定していた。
暑い夏の日、廊下の向こうから小さな影がパタパタと走ってきた。縁側に座っていた奨の膝に飛び込むと嬉しそうに幼子が笑顔を向ける。
『奨ちゃん。』
高良の息子・雪久だ。まだ小さな雪久は人見知りもせずに朗らかな性格だ。
父親に似ているようで小さな高良のようだ。雪久の母親が仕事に出ているらしく子守をまかされている。せっかくなので本や字を教えているが飲み込みが早い。
先日雪久の前で倒れこんでしまい、とうとう傍にいることができなくなった。床に臥せっていると襖の向こうから泣き出しそうな雪久の声がして、愛らしくてたまらない。傍にいたいと懇願するので襖越しに一枚の紙に何か書いては交換しあって遊んでいる。なんだか静かになったと思って襖を少し開くと雪久が眠っていた。小さな手が鉛筆を握っている。その愛らしい手に触れたくて奨は手を伸ばすが触れそうになって手を止めた。
部屋の隅に置いてある小さな鈴を取りチリンと鳴らす。隣の部屋で掃除をしていた使用人の娘が顔を出すと雪久が眠ったことを伝え続木の家へ送らせた。
『ねえ、奨ちゃん?』
真夜中近くに始まった晩酌に少し顔を赤くした高良が微笑む。月明かりが差し込む縁側で奨は高良の体にもたれている。
『なあに?』
『どうして雪久を抱いてやらない?医者は少しくらいなら良いって言ってたろう?』
『…そうだけど。でもあの子は可愛いから傷つけたくないのよ。』
『ふふ・・・でも雪久は奨ちゃんが好きだよ。』
そう言って優しく笑う高良の顔が近づいて奨は顔を背けた。
『嫌かい?』
嫌じゃない。頭の中で即答するのに唇は動かない。少し前のこと、高良の妻・清が話をしにきた。凛とした女性は美しく、奨が部屋には入らないようにと告げると襖を開いて廊下に正座した。
何気ない挨拶を交わし、体調を尋ねられた。自分の夫が囲っている女にも関わらず彼女は微笑を絶やさない。
『それで・・・揚花さん、先日はありがとうございました。交渉は時間がかかるでしょうがきちんとしてまいります。』
『ああ、そうですか。良かった・・・私が一緒に行けると良いのですが・・・。』
『いいえ、義父が亡くなった今となっては義母や夫に任せきりではいけないと思っています。それに私には目利きなどありませんし。』
清は少し眉を下げて笑う。
『感謝しています。揚花さんには・・・本当に。』
この人には勝てないと奨は思った。だからこうして高良と二人きりの時間を過ごすことを許されている自分を大切にしたいとも。
月明かりの中、奨はゆっくりと高良の体に身を寄せる。猫が体を寄せるように目を閉じた。
『高良さん・・・あちらのお屋敷には行かなくていいの?』
『・・・なんでまた?そんなこと聞くの?』
『なんとなく。』
『うん、そうだな・・・僕は母に嫌われているからね・・・きっと恥ずかしいと思われているんだろうね。この家は僕のために建てられた。そうするべきだと父と母が考えたんだろう。』
『そう・・・。』
『本当はさ、仕事だってあんまり興味がない。勿論反物は好きだ。仕事も面白いと思うし・・・そうでなければ君に出会えなかったからね。でも何かに執着して目の色を変えてというのは僕は好きじゃない。』
高良はフフと笑う。
『情けない僕を君は笑うかい?』
『いいえ・・・高良さんが情けないのなら私はもっと情けない。もう仕事もできない、体もこんなに細くなってしまって・・・今更店に立つこともできないのよ。できれば姐さん・・・雪慈姐さんのように立派な人になりたかった。』
奨が情けなく微笑むと高良の手が奨を引き寄せて胸に抱かれた。
『・・・奨ちゃん、僕は君が好きだよ。』
奨の指に高良の大きな手が重なる。絡めた指が温かく心臓がドッと走り出した。
このままこの腕の中にいたい。甘い誘惑が奨の頭を鈍らせる。目の前の高良の顔は美しく優しく初めて会った時以上に恋焦がれていた。
『・・・高良さん・・・私は・・・。』
絡めた指が熱い、跳ねるように感じる鼓動は一体どちらのものだろうか?
高良の顔がゆっくりと近づいて唇が頬に触れた。
『嫌じゃない?』
どうしてだろう?優しくされるたびにこの人が愛しくなる。きっと私はいなくなるのに彼の全てが欲しくなる。
奨の瞳から涙が零れると高良はゆっくりとその場に奨を横たわらせた。
『泣かなくていい。僕はずっと君の傍にいる。』
誓いの口付けのように指先に唇が触れた。
浴衣の袖から見える腕は白く細い。なんて恥ずかしい・・・。奨の一番綺麗な時はきっと彼と初めて会ったあの時だろう。揚花として客を取っていたけれど、それでも高良との一夜は素敵なものだった。
『高良さん・・・私は・・・。』
高良は奨の隣に横たわり笑う。
『覚えている?僕が君と一緒に過ごした日のことを。僕はね・・・君に会った時、恋をしたんだ・・・初恋の人をこの腕で抱いた幸せな思い出だ。今もこうして・・・傍にいる。君は忘れてしまった?』
『いいえ・・・覚えてる。』
『良かった・・・。君はどうだった?僕を少しでも好きだったかい?』
月の光の魔力だろうか?この夜が永遠に続くような気がしている。
『初めて会った時・・・好きだと思った。』
奨の唇から素直に言葉が零れ落ちた。それに高良は嬉しそうに微笑む。
『じゃあ、もう一度僕に恋をしてくれるかい?』
高良の美しい瞳が、姿がぼんやりと滲んでいく。涙が溢れて奨はただ頷いた。
『高良さん・・・あなたを愛している。』
両腕で高良を抱き寄せて彼の髪を撫でた。
ごめんなさい、清さん。今だけ、この一瞬を、この永遠を・・・忘れずに持っていくから、どうか許してください。
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