第4話 六月

    1


 四月が終わり、五月が過ぎ去り、六月になった。

 もどかしい。

 日々、代わり映えのしない毎日が流れてゆく。

 練習の基本はロード三日とトラック三日。雨が降った分だけロードの比率が上がる。そしてロード三日のうち、一日は伴走のおまけが付く。銀色のヤマハ・ベルーガにまたがった坂本(さかもっ)ちゃんが後ろからペースをコントロールし、少しでも気を抜けば檄が飛んでくる。全員の走りは抜け目なく監視の下にさらされる。

 とりわけやっかいなのは、電波塔の坂がトライアル区間と化すことだ。

 電波塔の坂とて、必ずフリーで競り合うわけではない。淡々と上がるだけならそれほど苦にならない。一方で、斉藤あたりはフリーの方がありがたいと思っている節がある。逆にペースを落とせるからだ。しかし先生の伴走付きとなれば事情は違ってくる。先生はバイクを武器にして前にも後ろにも楽をさせない。

「よし、ここからフリー」と先生が一声かければ、集団は一気にばらける。最終的にはバテ比べだ。斉藤にせよ、夜野にせよ、井上(バクダン)にせよ、楽をすればすぐにベルーガがやってきてあおられる。

 今日もそうだった。先生の声で固まりが弾けた。いつもながら三年二人と和泉先輩は速い。その後に鹿沼先輩以下、北澤、中垣、藤井が続く。おれも食らいつこうとするが、気持ちとはあべこべに差が広がってゆく。

 道は全体の中間あたりで大きく右へカーブを切る。コースは左の枝道に入ってさらに傾斜を増す。先頭をゆく三人の姿が三十メートルくらい先に見通せる。少し遅れて鹿沼先輩が追走し、その後ろを北澤が粘りつくように追いかけている。中垣と藤井はさらに十メートル以上後ろ。花岡先輩を含めた三人のグループ。そしておれはその数メートル後ろにいた。

「それ行け、大村!」

 いつもならとうに脱落しているところだ。これでも入学当初に比べれば粘りは増している。それはわかる。でも、足りない。同様に相手も速くなっている。そして北澤はそのもう一段上にいる。北澤だけは次元が違う。追いつくどころか、差は広がっている。中学時代、京田には最後まで勝てないままだったが、いつかは勝てそうな気がしていた。だが、北澤に対してはそんな気がまるでしない。

 中垣、藤井と花岡先輩、そこにおれを加えた四人の争いは坂の頂上まで続いた。おれのピッチ走法に対して、中垣の走りは短距離走者を思わせるストライド走法だった。花岡先輩も根が中距離指向だからそれに近い。藤井はその中間くらい。バランスのとれた走り方をする。

 上り坂はおれのようなピッチ走法に分がある。仕掛けるなら自分に有利なフィールドでやる。鉄則だ。本来、おれはとっくに動いていなければならなかった。逆に遅れ気味になったおれに逆転の目はない。電波塔の坂は最後の五十メートルくらいがもっともきつい。そして、ここまでもつれると瞬発力に勝る者が勝つ。中垣がスパートをかけると、おれと藤井は見る間に引きちぎられた。花岡先輩だけが反応して坂を上がってゆく。おれは藤井にも振り切られて、いつも通りの九番目で坂を上がりきった。

「見たか! ざまみろ、くそ!」とゴールするなり中垣が空に向かって吠えた。こっちには見向きもしないが、相手はわかっている。おれは知らんぷりでやり過ごした。あと少しで一角に食い込めそうなのに、その少しが険しい。避けがたい現実。ムカっとするが、認めざるを得ない。力の差は依然として大きい。




   2


 六月の中旬、梅雨入り前の木曜日。関東大会に出場する青井菜幹の壮行会が行われた。

 全校生徒が体育館に集められた。一限目が始まる前だ。広い体育館といえど、千四百人の生徒が入ると息苦しいほどの鮨詰め状態になる。この季節独特の蒸し暑さが、汗になってじわっと肌にまとわりつく。

 うちの高校から関東大会の出場選手が出るのは昨年に続いて二人目らしい。昨年はこの春に卒業した日比野総(そう)という先輩が関東大会を三位で突破してインターハイに進んだ。やはり陸上部。専門は五千。おれでも知っている。校長のスピーチもその名前で始まった。

公立とはいえ、高校側にとって生徒の活躍は対外的なアピールに絶好の対象なのだろう。必然、力が入る。言い換えれば、半分以上は大人の事情だ。たぶん、本人だって望んでない。プレッシャーが増えるだけで一利もない。集められた生徒だって大半はどうでもいいと思っている。高校野球のように全校あげて盛り上がれるスポーツではない。誰が関東大会に出ようと、自分の将来にはなんの関係もないのだから。高ぶっているのはほんの一部の教師だけだ。

 校長の挨拶に続いて、青井菜幹が壇上に立った。

 日焼けした肌とショートカットが印象的だ。スカートの裾から伸びる膝下を見ただけで、誰もが速そうなイメージを想像するだろう。

「今日はわたしのためにわざわざ同級生や先輩の皆さんに集まっていただき、本当にありがとうございます」

 青井菜幹は全校生徒を前にしても、まったく緊張していないようだった。

「たいしたもんだな」とすぐ後ろで斉藤が言う。おれもうなずいた。あの自信はいったいどこからくるのだろう。天性の資質なのだろうか。大きなところを狙う奴には、最初からそうした天賦の才が与えられているのかもしれない。

 壮行会はほんの十分ほどで終わった。




   3


 短距離と長距離が同じ時間に終わることはほとんどない。月に二度か三度。今日はそんな珍しい日だった。

 帰りは北澤らいつもの四人に混じって、青井菜幹も一緒だった。

「なんで来んだよ」と中垣はぶつぶつと言った。

「いいじゃない。ねぇ」と菜幹は藤井に同意を求めた。藤井と菜幹は同じクラスだった。もはやすっかり打ち解けている。

「もちろん。今朝のスピーチはなかなかよかったな」

「ありがとう」

 菜幹は素直な笑顔を作った。

「ねぇ、応援に来る約束は覚えてるわよね」と菜幹は北澤に言った。

「日曜日に行くよ」

「よし。じゃ、一次予選は突破しとかないと」

「負けろ、負けろ、負っけちっまえ!」と中垣が茶化す。

「明日は何時なんだ?」

 北澤は中垣を無視して訊いた。

「七時に平塚駅。いつもより早起き」

「おれたちなんて毎朝七時半には朝練始めてるぜ」

「おう。がんばれよ、少年!」と菜幹は中垣の後頭部をぽんと叩いた。

「貴様、走れないようにしてくれようか?」

「やれるものならやってごらんなさいな」と菜幹は自転車のペダルを力一杯踏み込んだ。

「殺す」

 中垣はサイクリングコースを逃げる菜幹のあとを、全力で追いかけていった。

 みるみる小さくなってゆく菜幹と中垣の自転車に、藤井は呆れ顔でため息をついた。

「あいつら仲いいな。つきあってるのか?」

「さぁ」と北澤は素っ気なく答えた。

「お前らって、いつからのつきあいなんだっけ?」

「小学校」

「その頃から青井は速かったのか?」

「五十メートルじゃ、おれは勝った記憶がない」

「へーえ、やっぱり短距離って素質だな」

「あいつの武器はスタートだと思う」

「それはおれも思ってた。だから関東行くなら二百じゃなく百だと思ってたんだけどな」

「百は最初、隣がフライングしたからな。たぶん、あれでリズム崩したんだ。いつものスタートじゃなかった」

「なるほどな。二百は完璧だったぜ」

 意地悪く自慢する藤井に北澤は顔をしかめた。

「中垣は?」と夜野が訊く。

「小学校で青井と五分にやりあえたのはあいつだけだ」

「じゃ、何であいつは長距離なんだ?」と藤井。

「さぁ」

 言いながら北澤は大きなあくびをした。練習中にのぞく厳しさは微塵もない。

「あいつにはインターハイまで行ってほしいな」

 北澤はのんきな口調で言った。

 サイクリングコースは夕日でオレンジに染まっていた。中垣と菜幹の姿はその光に飲み込まれそうなほど小さくなっていた。




   4


 週が明けて、南関東大会が終わった翌朝。朝練が始まる前のグラウンド。北澤はもう走り始めていた。一応の集合時間にはまだ十五分以上ある。おれは珍しく二番目だった。いつもは殿とブービーを斉藤と競っている。今朝に限って早く目が覚めた。青井の結果が気になっていたせいかもしれない。

 北澤はすでにどれくらい走ったのか―。顔にうっすら汗がにじんでいる。

 いつもと違う勝手に戸惑いつつ、おれもだらだらと走り始めた。

「よぉ」と北澤がペースを落としておれに合わせてきた。

「よ」とおれも返す。

「青井はどうだった?」とおれは南関東大会の結果を訊いた。北澤たちが昨日応援に出掛けたのは聞いている。斉藤も行くと言っていた。おれは行ってない。たぶん、井上(バクダン)も。協調性を欠いたはみ出し者だ。

「決勝で七番目だった」

「惜しかったな」

「0・03差だった」

「さすが関東大会。電気時計か」

「県大会でも電気使ってたぞ」

「そうか?」

「少しは関心持てよ」

「あの日は練習がきつかったもんでな」と嫌みで返した。どう返してくるかと思ったら、聞こえないふりでごまかされた。

 普段なら気にもとめない0・03秒。もしおれならどんな気分になっただろうか―。

「落ち込んでたか?」

「いや。まったく。切り換えは早い奴だからな」

 北澤はこともなげに返した。

 敗北さえ糧にする強さ。

 もちろん、悔しかったはずだ。そうでなければ、進歩はない。

 負けても落ち込まない精神力―。

 果たしておれにあるだろうか?

 北澤にはあるはずだ。だから青井をそう評価できる。

 うーん―。

 おれは唸るしかなかった。

 練習はそのままの流れで始まった。すぐあとに加わった和泉先輩がちょっと意外そうな顔をしたが、なにも言わなかった。興田先輩が混じってペースが少し上がった。それから十分のあいだにどんどんと列が伸び、最後に斉藤が入って全員が揃った。そこから六千メートル。結局、今朝は九千以上走った。

 授業は惰性で流れる。半分は居眠り。そして放課後の練習を戦い、家に帰れば食って寝るだけ。単調な高校生活。ドラマなし。進歩しているか。実感なし。ただ、時間だけが流れてゆく。

「お前さ―」とおれは部活帰りの自転車をこぎながら斉藤に話しかけた。

「軽音はどうなった?」

 ちょっと気になっていた。県大会を休んだ日のことはなにも聞いてない。

 うまい下手はどうでもいい。才能云々も関係ない。好きかどうか、それだけだ。走ることより楽器が好きなら、ねじ曲げた責任の一端はおれにもある。

「軽音?」

 斉藤は怪訝な顔でおれを見た。その表情はすぐに別の色を帯びた。

「そういえば、ついこの間も声かけられたっけ」

「誰に?」

「ギターの下手な先輩」

「あぁ。例の―」

「それはドラム」

 斉藤は言葉を遮るように不機嫌な声で言った。

「なんて?」

「戻ってこい、ってよ」

「へーえ。意外と認められてんだ」

「アホ、誰が戻るかよ!って」

「言ったのか?」

「あぁ、言ってやった。少し婉曲的に」

「少し―ね」

「戻る気はねぇよ」

「県大会の日に何かあったか?」

「なんも。スタジオでちょっと楽器いじっただけ」

「ちょっと。ちょっとか」

 斉藤は舌打ちをした。

「いちいちうるさいなぁ、お前も」

 そう言って斉藤はもう一度舌打ちした。

「やめるらしいんだよ」

「誰が?」

「その下手な先輩」

「やめる?」

「受験勉強に専念すんだとさ」

「軟弱なロッカーだな」

「つまり穴埋めを探してんだよ。バカにしやがって」

「そりゃ、そうだ」

「この前だって、スタジオ練習やるから最後に一度だけ来てくれって言うから仕方なく行ったんだ。骨折直って初めてドラム叩くって言うしな」

「うまかったか?」

「……ま、悪くはなかったさ」

 忌々しいと言わんばかりの口ぶりだった。

「でも楽器で食っていけるわけでもねぇしよ」と斉藤は続けた。

「陸上でだって食えねぇよ」

「お前はなんで陸上やってんだよ」

「インターハイに出たいから」

「インターハイ? 大学の推薦でも欲しいのか?」

「まさか」

 考えたこともない。

 野球とは違う。陸上競技にプロはない。三年やってもその先は行き止まりだ。あるいは、斉藤が言うように、運よく大学推薦を取れるかもしれない。だが、そこには陸上を続ける義務が生じる。さらに運よく就職までできるかもしれない。そしてまた陸上を続ける義務が生じる。

 走る先にいったいどんな未来があるのか―。

 茫漠とした未来には悲観しかない。

 好きなことをやる。斉藤に覚悟はあるのだろうか。

 おれの覚悟はたかだか三年に満たない儚いものだ。

「お前はどうなんだよ」

「お前が誘ったんじゃねーか」

「アホ。誘わなきゃ―」

 別の高校を選んだか―。

 言いかけてやめた。そんなわけがない。おれも斉藤も選んだ気持ちに迷いはなかった。

 ただ、未来はたいてい想像通りにいかない。おれたちは訳もなく努力を惜しんだり、間違えたりする。想像とはかけ離れた道を歩き、違った目的地にたどり着くかもしれない。

「アホで上等だ」

 そう。アホでもいいのだ。

 おれたちはこの道を進むしかない。




   5


 季節が進んでゆく。

 湿気でよどんだ蒸し暑い教室から、ねずみ色の空を眺める日が増えた。

「今日もロードかな」と昼の弁当を食いながら、斉藤が憂鬱そうにため息をついた。

 教室から見えるグラウンドには一面に水が浮き、雨の波紋が絶え間なく古い波紋を打ち消し続けていた。やむ気配はいっこうにない。

「止んでもグラウンドは無理だな」

 まぁ、どちらでもよかった。この雨だって炎天下に比べたらむしろありがたいくらいだ。坂本ちゃんもここまで降ればベルーガで追いかけ回したりはしないだろう。

「お前はいいさ。坂を苦にしないから新コースだろうとどこだろうと関係ねぇもんよ」

「おれだってきつい」

「あーあ、おれは平坦巧者なんだ。せめて大磯コースにならねぇかなぁ……」

 斉藤はおれの返事など聞いてなかった。ただ自らの希望が叶うことだけを祈っていた。

 そして、その日の練習は新コースに決まった。




   6


 梅雨に入ってからは一週間のうち四日はロードになった。雨が降っていなくても、グラウンドの状態が悪ければ外に出る。そのうち三日は新コースだ。公園は四月のあの一度きりだ。抹消された存在になっている。たとえ職員会議があっても、坂本ちゃんが練習メニューを決めるようになったからだ。裏には和泉先輩と北澤が絡んでいる。みんなわかっていたが、誰も面と向かっては咎めない。自分から矢の的になるバカはいない。

 現在の練習コースは公園コースをのぞいた六つ。


マラソンコース

電波塔コース

旧コース

新コース

新新コース

大磯コース


 マラソンコースは距離五・五キロ。秋にやる全校マラソン大会のコースからそう呼ばれている。電波塔コースは電波塔までの坂を上って折り返してくるコース。距離は八キロ。この二つは朝練用だ。それ以外の四つが放課後用だが、もはや旧コースは廃止状態だ。新と新新はともに旧コースからの派生コースになる。それぞれ三キロ、八キロと距離が伸びる。新新コースは二十キロに達する。朝練と合わせて一日の走破距離は二十五キロを超える。時間的な制約もあって、土曜日以外は組まないメニューらしい。幸いにして、まだ未経験だ。できれば卒業まで未経験でいたい。

 朝からだらだら降り続いた雨は、午後に入って勢いを増した。放課後にはグラウンドの端から端を見通せないほどのどしゃ降りになった。

 長距離グループは校門前にTシャツ、ランパンで集合した。外来用の校舎玄関前は雨をしのげるピロティになっている。おれたちが準備運動している脇を、下校する生徒たちが両手でがっちり固めた傘を手にして通り過ぎてゆく。浴びせる視線は気狂いでも見るかのようだ。

「おっ?!」と中垣(アホ)が頓狂な声を挙げた。その声の先に傘をさした青井菜幹がいた。

「お前、練習どうしたんだよ?」

「この雨だもん。短距離は休養(きゅーよー)」と小馬鹿にした口調で答える。

「貴様ぁ……」と中垣は青井を睨みつけた。

 そんなやりとりを尻目に、興田先輩と原田先輩が顔を見合わせて頷き合っている。いやな予感だ。こういう時はたいていハードな展開が待っている。

「長倉、後ろの面倒は任せたぞ」

「了解」

 長倉先輩がうなずく。一年のサポート役というポジションはすっかり定着している。そこには人柄が大きく影響しているようだった。和泉先輩には絶対できない役回りだ。花岡先輩にも回ってこない。そもそも今日は朝から顔を見ていない。花岡先輩は朝練が強制になって以来、練習を休む日が増えた。もともとそういう人ではあったが、いまでは一週間の半分も出てこない。

「出たくねぇ……」と斉藤がつぶやくように言った。こいつの泣き言は中学時代からしょっちゅう聞いてきた。でも、理由なく休んだことはない。実際のところ、言えば言うだけ休めなくなる。手抜きもしづらくなる。そうやって自分を追い込むのが斉藤のやり方だ。和泉先輩はそれがおもしろくないようだ。かわいそうに。時どき怒鳴られる。

「最初だけだ」とおれは言った。少し走れば体は温まるし、いったん濡れてしまえば雨そのものの意味はほとんどなくなる。

「その最初が問題なんだろ」と不満は止まらない。

 たしかにそうだ。

 先輩たちもまだ飛び出すことを躊躇している。それくらいひどい雨だった。

 ピロティの境界線から恨めしそうに空を見上げる斉藤の背後で、ふっとおれと藤井は顔を見合わせた。藤井の顔に悪ガキの色が浮かんでいる。きっと考えていることは同じだ。

「よし、いけ!」

 おれと藤井は示し合わせたように斉藤の背を力任せに押し出した。

 斉藤の体がふわっと雨のなかに飛び出した。

「わ! バカ野郎!」

 雨に打たれたのはコンマ数秒だったろう。しかし斉藤の全身は川からはい上がってきたような姿に変わり果てた。

「貴様らぁ……」

 ぐっしょり濡れた長い前髪が両目を覆って禍々(まがまが)しい。その姿に三年生二人はようやく腹を括ったらしい。

「よし、行くぞ」と二人が同時にピロティから飛び出した。その姿が煙った雨にかき消されると、おれたちも追うように雨のなかへ走り出した。

「がんばってねー」と青井の呑気な声が背中でしたように思えた。

 案の定、スタートからペースは速い。隊列がどんどん縦長に伸びてゆく。遅れた奴は容赦なく捨ててゆくと言わんばかりのプレッシャーが伝わってくる。三年二人に和泉先輩と鹿沼先輩、北澤と続き、おれと藤井、中垣も電波塔の坂まではグループを形成してひとかたまりだった。

 坂に入ると、さらに集団がばらけた。フリーの声は聞こえなかったが、流れでわかる。

 先輩たちと北澤、藤井、中垣の姿が雨のなかへ遠のいてゆく。今日はいつも以上にだらしなく引き離される。

 全身ずぶ濡れ。シューズも一歩踏むたびにグシュッと鯨のくしゃみみたいな音をたてる。

 いいさ、今日は―。

 甘えが頭をよぎる。同時に、遅い、挫折、敗北といった負の言葉が頭のなかをぐるぐる回り出す。

 おれは両腕をだらりと下ろして、凝り固まった腕と肩の筋肉をリフレッシュさせた。ほんの少し気分が楽になる。びしょ濡れの顔を手でぬぐうと、遮二無二スイッチを切り替えた。

 焦らずゆっくりペースをあげてゆく。追いつけなくても仕方ない。ただ、雨のせいでは片付けられない。ゴールしたあとに中垣(アホ)の勝ち誇った顔が頭に浮かぶ。負けるにしたって負け方がある。ここでの諦めは不本意の気持ちしか残らない。

 激しい雨音が走ることに意識を集中させた。やってみると脚の動きは存外スムーズだった。呼吸の乱れも小さい。

 雨に消えかけた前の背中をとらえた。十メートル前。藤井だった。今日の藤井は精彩を欠いている。さっきまでは気づかなかったが、いま、その後ろ姿には重苦しさが感じられる。今日の藤井ならかわせるかもしれない。そんな気がした。

 おれは一歩ずつ確実に差を詰めていった。

 坂のほぼ中間にあたる分岐を抜けた直後、勾配がきつくなる場所で、おれは藤井に並びかけた。雨の音のなかに藤井の激しい呼吸が聞こえる。もはやレースと同じ感覚になっている。

 いかに相手を競り落とすか―。

 力の拮抗している相手なら、優劣は気持ちで決まる。相手のやる気や闘争心をへし折れば、その差は実際の力差以上に大きくなる。舞台設定はこっちに分のある流れだった。

 おれは一息に藤井を抜き去った。そして突き放した。ついて行けると思わせたら展開がもつれる。瞬時に突き放せば、相手の気持ちは萎える。ましてや練習内での競争。タイムトライアルならまだしも、ここでの勝ち負けにさほど意味はない。必然、藤井は淡泊だった。あっさり抜かれたまま競りかけてこなかった。その一方で、藤井の前をゆく背中はあまりに遠すぎた。豪雨に煙ってそれが誰なのかも判別できない。この時点で気持ちは前より後ろを意識した。

 最後に控えるもっともきつい百メートルの勾配をへろへろになって上りきる。

 頂上には誰もいなかった。まるでかき消されたように、そこには孤独な雨が降っていた。どうやら先着した全員がノンストップで駆け下りていったらしい。なにしろこの豪雨だ。六月とはいえ、止まればみるみる体温は奪われる。

「誰もいないのかよ」とすぐあとに坂を上がってきた藤井が声をあげた。意外と元気だ。抜かれたことも気にしてないようだ。意識してのことかどうか―。

「先に行ったみたいだな」

「薄情だなぁ」

「寒ぃな」

「どうするよ?」

「そうだな……」とおれは躊躇した。

 電波塔の坂で初めて藤井に勝った。その満足感でおれの気持ちはもう萎えていた。もしここで集団に戻って仕切り直しなら意識も違っただろうが、こうなるともうダメだ。

「マイペースで」とおれは言った。

「だな」

 藤井も同調した。

 おそらく追うと言っても答えは同じだったろう。いずれにしても、会話した時点で競争心理は消えている。

 おれと藤井はだらだらとゴルフ場脇の砂利道を下っていった。

 雨はいっこうに収まる気配がない。坂を下りきって再び舗装路に入ると、どちらからともなく少しペースを上げた。

 北澤や中垣はいったいどれくらい前にこの坂を駆け下りていっただろう―。

 その意識が自ずとペースアップを促す。切れた気持ちがいつの間にか結び直されている。井上たちにも追いつかれたくない。後ろ向きなプライド―。自己嫌悪に近い。

 雨で視界は最悪。前にも後ろにも人影は見えない。風はそれほどないが、雨は大粒で全身に痛みを感じるほど激しい。新コースのパートに控える最後の急坂も、今日は競り合わずに上がる。負担はほとんどない。北澤や中垣はがりがり競り合っただろうか―。小さな葛藤が気持ちに黒いシミを広げる。

 結局、学校に戻ってくるまでそのままだった。追いつかず、追いつかれず。黙々と校門を跨いでゴールした。

 漫然とだらだら回ってきただけだ。後味の悪さだけが残った。もちろん走っている最中にそれを意識するゆとりはなかった。藤井もそうだったはずだ。ただ、戻ってきたゴールに石ころのように結果が転がっていたのだ。

 誰もがいまより速くなりたいと思っている。練習をする以上は何らかの結果を得たいと思うのは当然だ。一方で、厳しいと思う境界線の先に踏み込むことを躊躇する。練習はいつもふたつの意識のせめぎ合いだ。そういう意味では、今日の練習はおれにも藤井にもベストではなかった。

 つまるところ、電波塔で勝った満足は甘さと同義。雨がその意識を助長した。おれも藤井も守りに入った。片や勝った満足感を失わないように。片や負けを決定的なところまで追い込まぬように。

 矮小。姑息。おれたちは競り合いを避けた。もし、あのまま競争を続けていれば、あるいは中垣の背中くらいは捉えることができたかもしれない。こんなことをしている間にも、北澤の背はどんどん遠くなる。中垣にすら離されてゆく。

 後悔臍を噛む―。

 わかっていただけに質(たち)が悪い。

 その日の練習はそのまま個々にダウンをして終了という流れになった。

 先にゴールした北澤と中垣はすでに部室前の庇の下で着替えをしていた。さすがにいつものコンクリート段は使えない。さりとて狭い部室に割り込むスペースもない。

「どれくらい前に着いた?」と藤井が北澤に訊く。

「五分以上六分未満」

 北澤の返事はしっかり意識されたものだった。自分がゴールしてからの時計を見ていた。

「お前ら、遅ーよ」と中垣がかぶせてくる。

「うるせー」

 おれと藤井はほぼ同時に同じ言葉で応じた。負け惜しみだ。

「お前もおれより四分以上遅かった」

「うるせー!」

 今度は中垣が北澤に怒鳴った。

 中垣より二分近く遅れた―。ショッキングな事実だ。おれも藤井も聞いていないふりでやり過ごした。

 おれは荷物を制服ごと部室に置かせてもらった。練習のまんまの格好で帰ることにした。着替えたところで雨はやまない。この降り方ではカッパも役に立ちそうになかった。なれば、体が冷える前に自転車をとばして帰るに限る。なにしろ家までは七キロある。それだけでもちょっとした練習だった。練習後の不愉快がそういう方向に駆り立てていた。

「ほう。元気だな」と部室で着替えをしていた原田先輩が言う。

「遅い奴はそれくらい当然ですよ」

 隣で和泉先輩がぐさりと胸をえぐるような横やりを入れる。

「気をつけて帰れ」と興田先輩が唯一先輩らしいことを言った。

 校門を出るときに長倉先輩に引っ張られるようにして斉藤、井上、夜野の三人が一塊になって戻ってきた。

 やはりそれほど差はなかった。せいぜい五分。ペースから推して一キロそこそこだ。もっと短いかもしれない。

 一様に疲労困憊の色が伺える。井上は自慢の爆弾頭が湿気った線香花火みたいにしなびている。

「他のみんなはどうした?」と長倉先輩に訊かれた。

「部室です。今日はこのまま流れ解散です」

「お前、その格好で帰るのか?」と長倉先輩があきれた表情で言う。

「着替えたって同じですから」

「待て。おれも帰る。荷物どうした?」

「部室に置いてく」

「一分待て!」

 言うや、斉藤は体育館の裏手にある部室へ走っていった。見た目より元気に見える。

 さては、またセーブしたか―。

 元来が積極的なタイプではない。おれ以上に淡泊で、楽なほうへ楽なほうへと流される。それに加えてお人好しだ。今日みたいな展開では、たとえペースが遅いと思っても自ら振り切ってくる質(たち)ではない。もっとも、斉藤の場合にはそういうところが協調性にもつながっている。だから関東大会の応援にも喜び勇んで出掛けてゆく。おれにはとうてい真似できない。

 いずれにしても梅雨は早く明けてほしい。明ければ明けた秋が待ち遠しくなる。わかっているが、いまはともかくこの雨がたまらなく忌々しい。

 バチバチと肌を刺す雨は冷たく痛い。おれと斉藤は競うようにしてペダルを回し続けた。

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