第68話 雪斎禅師が倒れた
実はこんな書状も届いている。
そう言ってお館様は二通の書状を五郎八郎に見せた。
宛先は
どちらも内容は同じで尾張の情勢に不安を感じるので今川様の庇護を受けたいというものであった。
沓掛城は尾張と三河の国境の城、鳴海城の山口家は沓掛城からすこし西に行った城。
この両者が今川家に降るということは、尾張は知多半島とそれより北で完全に分断されるという事になる。
恐らくそうなれば知多半島の国衆は海路でしか支援が得られなくなり、今川家に降るという判断を余儀なくされるだろう。
「いっそこのまま、ここ岡崎を拠点として知多を平定してしまってはどうかとそれがしは考えるのだが、五郎八郎はどう思う?」
元々知多半島は田原城の戸田家、刈谷城の水野家の侵攻を受けていて、
その戸田家、水野家の本城を今川軍はたて続けに落城させてしまっており、知多の国人がなびくのも時間の問題と思われる。
従わない家を一つ落とせば後は雪崩を打って旗色を変える事だろうというのがお館様の目算だった。
「良い案ですね。伊丹権大夫殿の水軍を呼んで、
篠島、
そんな話をお館様が楽しそうに語っていた時であった。
部屋の外で慌ただしくバタバタという足音が聞こえてきた。
お館様はいづこというかなり焦ったような声が聞こえてくる。
声の感じからして三浦左馬助だろうか。
どうやら何かあったらしい。
お館様は立ち上がって何事か騒々しいと言って襖を開けた。
「い、一大事にございます! たった今、安祥城から急使が参りまして、雪斎禅師がお倒れになられたそうです!」
左馬助の報告にお館様は体をぐらりとさせ、五郎八郎と左馬助の二人で体を支えた。
急使としてやってきたのは、岡部美濃守の家人であった。
雪斎禅師は数人の近習しか兵がおらず、その主軍は朝日山城の岡部美濃守の軍勢であった。
その美濃守の家人がやってきているという事は、かなりの一大事という事になるだろう。
つまりは残念ながら早合点などではないという事になる。
岡部家の家人の話によると、安祥城を落城させてから雪斎禅師は一日中あれやこれやと指示を出し続けていたらしい。
日中は穏やかな春の日差しが心地良いと言っても、朝晩は中々に冷え込む。
どうやらそれで風邪をひいてしまったらしい。
ところが雪斎禅師はここが正念場だと言って、咳やくしゃみを頻繁にしながら政務を続けていた。
そして、ついには高熱を発して倒れてしまったらしい。
五郎八郎は、雪斎禅師の様子を見に安祥城に行ってきますとお館様に申し出た。
だがお館様は良い顔をしなかった。
一つには、もしかしたら流行り病かもしれないという懸念。
もう一つは五郎八郎は悲しいかな武芸がさっぱりで、それなりに供を連れていかないと道中危険かもしれないという懸念。
今ここで雪斎禅師、五郎八郎の両名を一気に失ったら今川家は瓦解しかねないのだ。
そのお館様の懸念は、浅井小四郎も三浦左馬助も全く同意であった。
松平三郎にまで三河衆を代表してそれは賛同できないと言われてしまい、渋々諦めるしかなかった。
「いづれにしても、こうして雪斎禅師が病を得てしまったという事は、此度はこの辺りで一旦区切りとしろという事なのかもしれないな」
雪斎禅師は絶好の機会を逸したと後々怒るかもしれない。
おちおち病気もしておれんなどと言うかもしれない。
それでも、無理をして側近を失う方が家にとっては大損失である。
そのお館様の意見に浅井小四郎も三浦左馬助も賛同した。
ならば東条城の陥落を持って今回は駿河に引き、暫くは三河と尾張の情勢を見守ろうという事になったのだった。
ところが、いつまでたっても東条城陥落の報告が来ない。
東条城が落ちる前に雪斎禅師の風邪が治ってしまい、岡崎城に帰ってきてしまったのだった。
しかも雪斎禅師はもう長くないかもしれないなどという変な噂が岡崎城内でたっており、それを耳にした雪斎禅師は激怒。
どすどすと足音を立ててお館様の部屋へと乗り込んで来た。
ちょうど五郎八郎が来ており、東条城へ援軍に向かおうと思うという話をしていた最中の事であった。
病気が平癒してなによりであったというお館様に、ご心配をおかけしましたと禅師は頭を下げた。
体調はいかがですかと聞く五郎八郎を禅師はじろりと睨みつけた。
「拙僧の体調なんぞよりも、そなたには心配せねばならぬ事が山のようにあろう! 何故まだ東条城が落ちておらんのだ? それで何をのんびりとしておるのだ!」
頭ごなしに叱咤をかます雪斎禅師を前に、五郎八郎はお館様に、どうやらお元気になられたようだと言って顔を引きつらせた。
ほっと一安心だと言ってお館様は雪斎禅師に微笑みかけた。
だが、こちらも笑顔が若干引きつっている。
「そのご様子、拙僧を死にぞこない扱いしたのはお二方ですな? 拙僧はあんな風邪くらいでくたばったりはいたしませぬぞ! わかったら五郎八郎殿はさっさと東条城を落としに行かれよ!」
おちおち風邪もひいておれんとぶつくさ言う雪斎禅師から逃げ出すかのように五郎八郎は部屋を出たのだった。
なんとか資金を送って二俣城の家人と兵を返してもらった五郎八郎は、真っ直ぐ東条城へ向かった。
東条城は、岡崎城のはるか南、小豆坂のそのさらに南、茶臼山という山の西の小山を利用して建てられている。
実は広田川を挟んだ西側は今川郷といい、今川家の発祥の地だったりする。
それもそのはずで、かつて三河守といえば足利家の事であったのだ。
東条城周辺の吉良郷は足利一門である吉良家が治めていた土地。
その吉良家の一門である今川家が領していたのが今川郷なのである。
矢作川が度々氾濫する事に目をつぶれば、広い田園が広がる実に豊かな土地である。
松井隊が到着した時点で、もう東条城は本丸以外あちこちボロボロとなっていた。
どうやら本丸だけは死守しているようで本丸前には遺体の山ができている。
城以上にボロボロなのは朝比奈軍たちであった。
確かに山城ではある。
ただそこまで規模が大きいわけはでなく、どうやったらここまでボロボロにされるんだろうというのが率直な感想であった。
陣幕に入ると朝比奈備中守がよく来てくれたと言って力無く笑った。
あの匂坂六右衛門も疲労の蓄積か覇気というものが感じられない。
大沢左衛門佐も力無く手を振るだけ。
西尾城の吉良三郎も、増援で来た大久保甚四郎、新十郎の親子も表情から覇気が感じられない。
司令官たちがこれでは、兵たちの士気は言わずもがなであろう。
「あの程度の小城がとか思ってるだろ? もう四度も総攻撃をかけているんだよ。全て跳ね返されたんだ。兵からも脱走者が出てしまって、正直手詰まりなんだよ」
備中守は頭を抱えてしまった。
松井金四郎という者が的確に指示を出していて、そいつ一人にまるで歯が立たないという有様なんだと、六右衛門も首を横に振る。
「それがしはもう松井って聞くだけで何となく苦手意識が出て敵わない気がしてしまうんだよ。誰かさんのせいだよ。全く」
備中守は五郎八郎をちらりと見て愚痴とも悪態ともつかない事を言い出した。
そう言えば以前、父山城入道から聞いたことがある。
三河の吉良家に当家の分家の者がいるという話を。
この状況を見るに、これまで城攻めを行っていた兵たちはもはや士気が落ち切ってしまっており、全く役には立たないであろう。
かといって二俣城の兵だけで攻めるのもそれはそれでどうかとも思う。
城の守備隊も疲労はしているだろうから普通に力攻めで落ちるかもしれないが、できれば味方をここまでにした松井金四郎という人物を降らせたい。
五郎八郎は小姓の新三郎から紙と筆を受け取り、開城交渉を行いたいと書いて折り畳んだ。
孫二郎を呼び、矢に手紙を括り付けて、単騎馬で近づいて場内に射こんでもらった。
そこから待つ事半時。
城から一人の武者とその従者数人が出て来た。
こちらも五郎八郎と孫二郎、九郎、他数名で城と陣幕の中間まで向かった。
交渉としてやってきたのは例の松井金四郎であった。
年齢は少しだけ下。
顔は細面で目が細く鼻が大きい。
いかにも頑固そうな顔つきである。
だが体は若干線が細く、猛将というよりは智将といった雰囲気を感じる。
「もう充分暴れたでしょう。いかがですかな? 降っては」
降ってくれるのであらば、城主である吉良上野介の処遇については相談に乗る。
城を枕に討死を選ぶというのであれば、それは致し方なしだと諦めると五郎八郎は切り出した。
「上野介様の助命が叶うというなら、それがしも交渉を持ち帰りましょう。所領安堵などとは言わぬ。せめてどこか、例えば岡崎城で預かりという形にして貰えれば……」
主君の命を守り抜こうと金四郎は交渉の座でも必死に戦っている。
そう思うと五郎八郎は、ますますこの金四郎という若き将が惜しいと感じるようになった。
「ではこういうのはどうだろうか。上野介殿はお館様の甥御。駿府で暫く蟄居し、然る後に一門として働いてもらうというのは。ただし金四郎殿、それはそなたが今川家に忠節を尽くすというのが条件です」
暫くは我が身可愛さに主君を売ったと言われるかもしれない。
だがその汚名にさえ耐えれば東条吉良家は所領没収だけで済む。
どうかとたずねる五郎八郎に、松井金四郎は静かに首を縦に振った。
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