第16話 思い出したくないもの

(思い出したくないもの)


 妙子は家に帰ると桶を紗恵子に渡した。


「どうやら合格のようね。ちゃんと桶まで洗ってあるわ」

 紗恵子は得意そうに妙子に言った。


「でも、自己犠牲というよりも優柔不断と言った方がいいかもよ」


「それも十分考えられるけど。後は観察しだいね」


「ご苦労さん。良一君は元気でやっていたかい?」

 もうすでに帰ってきていた父親が、待ちくたびれたようにテーブルについて新聞を広げていた。


「元気だったわよ。心配は要らないって……」

 妙子は椅子に腰掛けるなり、たまごのお寿司を口にほうばった。


「下宿はしないにしろ、たまには様子を見に行ってやってくれ」


「大丈夫よ。彼とは同じクラスになったから、生きているか死んでいるかは、毎日わかるわー!」


「それじゃ、良一君、ますます下宿できないわねー」


 紗恵子が、妙子の分のお茶とお吸い物を持って席に着いた。


 妙子は思い出したように……

「そういえば、小さい時にも良一君とこの家で生活していたわよね。あれってやっぱり、お母さんが入院していたから……?」


 その質問には父親が答えた。


「そうだよ。良一君を預かるのは、これが初めてではないから、簡単に引き受けてしまったけど……。あのころは一番おまえが喜んでいたのだがねー。やはり昔と同じようにはいかないな……」


「当たり前でしょう!」

 妙子はきっぱりと言い放った。


 それを見て紗恵子は、あの頃とはあまりにも違う妙子の言動に成長していく妹の変化に寂しさを感じていた。

 あの頃は紗恵子でさえ、嫉妬したくなるくらいの仲の良い二人だったのに……


「でも私、初めて良一君が来た日のことをなんとなく覚えているけど、多分お母さんのことが気になっていたんでしょうね。家に来ても一言も喋らずに、俯いていて悲しそうな目をしていた。私なんかかわいそうで声も掛けられなかったけど、妙子は元気におチンチン見せてってせがんで家中を走り回って彼を追いかけていたわね」


「ちょっと、私そんなこと言わないわよ!」


 でも、妙子はそのことをしっかりと覚えていた。


「良一君が下宿したくない理由は、もしかしたら妙子にまたおチンチン見せてって言われるのが怖いからかもしれないわねー」


「そんなバカなことあるわけないでしょ!」


 妙子は向きになって言い返した。


「でも、あれでよかったのよね。まるで、お姫様と下僕の関係だったけど、彼も寂しがる暇がなかったと思うわ。妙子のお相手で……」


 紗恵子の話に釣られながら、少し妙子をかばうように父親も口を開いた。

「でも、妙子は良一君のお嫁さんになるって言ってたぞー! キスまでしていたのだから本気だったんじゃないのかな?」


「そんな小さい頃の罪のない話は、やめましょうー!」

 妙子にもしっかりとした自覚があったから、尚のこと顔を赤らめて話題を変えようと懸命になった。


 しかし、紗恵子は留めに……

「お嫁さんになるって言っても、何でも言うことを聞いてくれる妙子の大きなお人形さんのようなものなんだから、私だって欲しいわよ。そんな彼がいたら……」


「もーおー、私、そんなにひどくないわよ!」


「でも私、二人があまりにも仲が良かったから、うらやましかったわ。私も良一君を独り占めしたかったなー」


「今度来たら、一番にお姉ちゃんにあげるわよ!」

 妙子は腹いせに、やけ食いとばかりに次々とお寿司を口に運んだ。


「でもいいじゃないか。良一君も楽しそうだったから……」

 父親がすかさずホローした。


「そうよねー、それからというもの、ずいぶん明るくなったから……。妙子のおかげね」


「じゃ、私が一番偉いじゃないのー!」


「そうよー、だから、今回も少しは良一君の気持ちを考えたら……?」


「だから、それは絶対に出来ないって、出来るわけないよ。子供じゃないんだから……」


 妙子の中でも揺れていた。最初に男を下宿させる話を聞いたときには、ただただとんでもないことのように思えていたことが、今は良一と会い、良一と話し、昔と変わらない良一がいて、妙子の中の小さい妙子がまた良一と一緒に遊びたいといっている。


 10年の時間を越えて無邪気に呼び合う良一と妙子の声が家のあちらこちらから聞こえてくるようだった。


 その夜遅く、まだ紗恵子の部屋に明かりがあるのを見て妙子がドアをノックした。


「もしもよ。もし良一を下宿させるとしたら、どの部屋で寝起きさせるのよ?」


 パジャマ姿でパソコンの前にいた紗恵子が、振り向かずそのままの姿勢で話しに応えた。


「そうねー、いくらなんでも小さい時のように妙子の部屋ではまずいでしょうね……」


「あ、当たり前でしょう!」


「それなら、私がもらおうかしら……?」


「なに考えているのよ!」


「夜、寂しすぎて……、良一君のような男の子が側にいて欲しいわー!」


「もしもし、まじめに訊いているんですけど……」


「……、あと空いている部屋といえば、お父さんの書斎か納戸ね。多分書斎がいいわね。椅子と机はあるから、あとはお父さんの本を片付ければ済むからね。それとも、お父さんと一緒に下の和室で寝てもらおうか? どうせ家にいないときの方が多いから。でもお父さんと一緒だったら、良一君が落ち着かないかもね。彼もやりたいことはあるだろうし……」


「何をやるのよ……?」


「その気になったの……?」


「なんの気よ!」


 妙子は、ドアをバタンと閉めて自分の部屋に戻っていった。

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