第9話 夜の蝶集いし花園1

 ベイナーが教えてくれた場所は一軒の店だった。笠に曲線の飾りが描かれたランプが軒先を照らしている。入り口の両端には、模様が彫られている装飾用の円柱。大きなガラス窓には室内の様子が分からないよう、飾りのビーズがつけられた、艶のある紅色のカーテンがかかっている。どこからか、聞きなれない弦楽器の音が気だるげに流れている。

「え……」

 入り口に立って、ラティラスは頬を引きつらせた。 

「よりにもよって娼館ですか、師匠!」

 思わず小声で突っ込む。

 そういえば、師匠は結構女好きだった。まあ、この状況でお薦めの娼婦を紹介したいというわけではないだろうから、何か理由があるのだろう。

 だが、ラティラスはこの手の店には行ったことがなかった。金で女を『買う』という行為に抵抗があったし、自慢ではないがモテる方で、そもそも恋人に不自由しなかったからだ。行き慣れていないため、ちょっと入りづらい。覚悟を決めてノブを回す。

 扉を開けた途端、女のさざめくような笑い声と男の話し声が響く。煙草と酒と香水の匂いが鼻を突く。

 酒を飲むためのカウンターと小さなテーブルがいくつかあり、一見ちょっとした飲み屋のようにも見える。壁には艶めかしい裸婦の絵が飾られていた。

 女たちは皆体のラインが分かるドレスを着ていて扇情的だ。そして男達は誰もがそこそこ高級な格好をしていた。借り物の、着古した服を着ているラティラスは、場違いなところに紛れ込んでしまったような、落ち着かない感覚を味わった。

「あら、見ない顔ね」

 この店の主人だろうか。年増の美女が近づいてきた。うさんくさげな表情を隠しもしない。

「悪いけど、この店は一見さんお断りなんだけど」

「師匠……ベイナーさんからの紹介ですよ。サーシャって女の子がお薦めだってね」

「ふうん、ベイナーさんの?」

 おかみは値踏みするようにラティラスをじろじろと見た。

 その視線にたじろぎながらラティラスは愛想笑いをする。

「ハハ、常連でもないのに、指名ってぶしつけでしたかね?」

「何か、特別な注文はおあり?」

 おそらくここで合言葉を言えばいいのだろう。正直いつ切り出せばいいのかタイミングが分からなかったから、聞いてくれて助かった。

「できればフェティナの香水をつけてきてくれたらうれしいんですケド?」

「……サーシャね。いるわよ」

 少し態度を和らげて、おかみは奥へ引っ込んでいった。


 しばらくして現れたのは、背の高いブロンドの美女だった。黒に近い緑色のドレスがよく似合っている。賢そうな目の輝きが、確かに師匠好みだなと思った。

「ベイナーからの紹介ですって? それじゃあいい加減な対応はできないわね」

 まるで恋人同士のようにラティラスの腕を取り、肩に頬を乗せてくる。いい香りがしたが、その香水の匂いがフェティナなのかラティラスには知識がなかった。

「ねえ、こっちでゆっくり話を聞かせて?」

 サーシャにうながされるまま、ラティラスは二階へとあがっていった。

 二階は長い廊下が続き、その両端に扉が並んでいる。意外と広い廊下には、漆喰が塗ってあり、こぎれいにしてあった。

 女は迷うことなく一つの部屋にラティラスを連れ込むと、後手でドアのカギをかけた。その瞬間、彼女の媚びた笑顔が消え失せた。

「で、ベイナーに何があったの」

 まるでラティラスが聞き捨てならないことを言って、「今なんて言ったの?」と問い詰めるような口調だった。

「無事。それは嬉しいけど、だったらなんであなたがその香水の名前を? フェティナの香水ってのは緊急事態発生の合言葉。ベイナーと決めたのよ。そんな名前の香水、実際にはないの」

 つまり、この言葉とともにここに駆け込めば、何か支援をしてもらえるということか。一見(いちげん)の、安っぽい服を着た男があっさりとサーシャに会えたのは、この合い言葉のおかげだろう。女将(おかみ)にも大体の話は通っているというわけだ。

「ワタシは師匠の不出来な弟子でしてね。ちょっと厄介事に巻き込まれちまいまして。困ってシクシク泣いてたら、師匠がここに行けば助けになってくれるはずだって、これをくれまして」

 そういって、ラティラスは師匠にもらったメモを渡した。

「確かにあの人の字だわ。弟子って、ひょっとしてラティラスさん?」

「よくご存じで」

 ようやく安心したのか、サーシャはベッドに座り、長い足を組む。スカートのスリットから足のステキな曲線が見えて、悪くない光景だった。

「あなたの事、聞いたことあるわ。私、あの人とは仲良しでね。いざという時のための物を預かっているの。もし危ない状況になって、この国を出ることになったらここに寄るから、あずかり物を渡してほしいってね」

 ありえることだった。詳しい内容は知らないが、師匠が危険な仕事をしていることはラティラスも薄々気づいていた。そういった仕事をしているのだから、何かがあったときの準備をしていない方が不思議だ。

師匠はその用意をラティラスに譲ってくれるつもりらしかった。

「待ってて」

 サーシャは、窓に歩み寄った。窓から近くに生えている木が見える。その枝は、夜の闇にさらに黒々と、空に入ったヒビのようだった。のぞかれるのを嫌(きら)ったらしく、女は窓を閉め、紫のカーテンを引く。

 そして壁に歩み寄り、レンガを数え始めた。

「ここだわ」

 言って、女はレンガの間に指先をいれ、ひっかき始めた。

「あの……」

 彼女が何をしようとしているのかわからないまま、その行動を見守っていると、レンガが急にポロッと外れた。壁にはレンガの形に浅い穴が空いている。そこに手の平におさまるくらいの袋が詰め込まれていた。

 よく見るとサーシャが手に持っているレンガは薄く、その穴を隠すための偽物だったようだ。

「どうぞ」

 サーシャは取り出した袋を無造作に投げてきた。

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