第14話
電気が点けられたのに気づかなかった。弘人は袖で涙を拭いながらすぐに立ち上がった。
「兄さん、勝手に入ってごめん。何でもないんだ」
「何でもない奴が号泣するか」
浩詩は弘人の肘を掴み、壁側のソファに座らせた。
「ちょっと待ってろ」
そう言うと小さな冷蔵庫からミルクを取り出した。アトリエには筆や手を洗う用に簡易の炊事場が据えられていて、軽食ぐらいならすぐに食べれるよう食器も一揃え置いてある。
浩詩は小さな鍋でミルクを温め、シンク脇に置いてある紅茶を鍋に入れた。茶葉が白いミルクを染めた後、砂糖を入れ鍋の中を混ぜ、カップが熱すぎないか確認してから弘人に手渡した。
「ほら、飲んでちょっと落ち着け」
「あ、ありがとう」
浩詩に何か作って淹れてもらったのは初めてだった。何が起きているのかよく分からなくなって、弘人はカップを持ってフリーズした。
「どうした、熱いか」
「ううん、その、兄さんに紅茶淹れてもらうの、初めてで、何か勿体ないなって」
「何をわけのわからん事を。冷めないうちに飲め」
「うん」
甘いものが嫌いな浩詩がアトリエのキッチンに砂糖を置いているのは、天川の為だ。でも今日は弘人のためにミルクティーを作ってくれた。
また目頭が熱くなってパタパタと涙がこぼれる。涙腺が緩くなりすぎて止められない。
「おい、また泣いて! 何だ、どこか痛いのか」
「違う……ただ止まらないんだ」
「飲めって」
「う、ん……」
弘人は泣きながら紅茶をすすった。甘すぎなくて温かくて美味しかった。こんなに優しい飲み物を飲んだのは初めてだった。
浩詩は弘人に毛布を掛けた後、筆を洗ったり絵の具を棚から出したり入れたりしていた。
途中で涙が口に入り、塩っぱさが加わったがミルクティーはそれでも美味しい。少し落ち着いて涙が止まった弘人は、手持ち無沙汰で絵を描き始めた浩詩の背中を見つめた。
浩詩は背が高い。運動している様子は見かけたことが無いのに逞しく、卑屈さが微塵も無い事を表すように背筋がピンとしている。
がっしりした体格と対称的な柔らかい色の髪が、筆を動かす度に動き、集中して描く横顔は、描く題材によって険しくも優しくもなる。
いつもは遠くからしか盗み見ることができない。今はこんなに近くで遠慮なく見れる。しっかり見ておこうと、弘人はできるだけ音を立てずに座っていた。
キャンバスの上を筆が走る。その音だけがアトリエに響き、浩詩が集中し始めた時、弘人は垂れてきた鼻をすんとすすった。その音にはっと気づいた浩詩は振り返り筆を置いた。弘人が泣いていたのを忘れかけていたようにも見える。浩詩はいつだって絵が一番だ。そんなことは分かりきっている。弘人は口角をゆっくり上げて笑った。
「落ち着いたか」
「うん、ありがとう兄さん」
「何があった」
「何もないよ」
「俺には話せないことか」
「話してもどうにもならないし……」
黙っていると、浩詩が口を開いた。
「父さんか」
自分でもよくわからない。それだけじゃないと思う。仮に父親が涙の原因だとして、それを浩詩に話しても何も変わらない。浩詩は丸沢家の長男で、画家で、自由に生きる人間だ。誰にも邪魔されず生きていく。自分は丸沢家の次男だけど、愛人の子供で、窮屈で、自由に生きることを知らない。きっとこれからも帰る場所を探して彷徨うだろう。
同じ家にいながら、なぜこんなにも違うのかと不思議に思う。突き詰めていけば、それは自分が丸沢家にはふさわしくないからだという結論にしかたどり着けない。生まれて、流されて、辿り着いた場所。そこしか居場所がないのに、そこにいる事がとても苦しくて、孤独だ。だから泣くしかできない。
「俺の問題だよ」
「弘人……」
心配をかけないように、もう少し頑張って笑った。
「無理に笑わなくていい」
「……別に無理してない」
「お前は昔からそうだった。父さんに甘えたくても、甘えられなくて、拗らせて泣いてた」
「そんなの覚えてない」
「父さんが俺の絵を褒めたから、お前も絵を描き出した。でもちっとも褒められないからお前はいじけてよく泣いていた。理由を言わないんで何で泣いてるのか、みんな分からなくて、どこか具合が悪いのかと病院へ連れて行った事もあった。大事になって焦ったのか、病院でこっそり俺にだけ、父さんが褒めてくれないのだと教えてくれた事があった。覚えてないのか」
「お、覚えてないよ、そんな事」
「そうか。そんな事が何度もあって、父さんに言った事もある。でもあの人は仕事人間でそういうのには疎いから」
「別に父さんに甘えたくて泣いてる訳じゃないよ」
「そうか」
「だって俺もう成人してお酒も飲める歳だよ。なんで今更父さんに甘えられなくて泣くのさ」
「二十歳すぎても苦しいものは苦しい」
浩詩の事をたまに怖いと思う。知らないようで実は何もかもを見ている。表面だけじゃなくて、奥の奥まで見透かして、それでいて素知らぬフリをする。
頑丈な鎧を背負わないと、ばれてしまう。あの事も、もう知っているのだろうか。確かめる勇気はない。
「あまり抱え込むな」
浩詩がまた毛布を掛けてくる。涙が零れそうになるから、止めてほしい。止めてほしいけど、止めてほしくない。この優しさにずっと触れていたい。
「兄さん……」
「なんだ」
「ありがとう」
「ああ」
いつもはすぐにアトリエから人を追い出そうとする浩詩だが、今日は弘人が落ち着いても部屋に帰れと言わなかった。ソファで眠ってしまいそうになる弘人を抱え、アトリエのベッドに横たわらせて布団を掛けた。
浩詩の匂いのするベッドで、弘人は久しぶりに深く眠った。
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