奪われた力
全身を包む鈍い痛みの中で、シトラスは目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、どこまでも暗く鈍い灰色。床も壁も天井も全てが同じ素材で覆われており、光源と呼べるものは見当たらない。まるでモノクロ映画の世界に迷い込んだかのような錯覚に陥る。
「ここ、どこ……?」
辺りを見回すが、やはり何もない。ただ広いだけの無機質な空間が広がっているだけ。もっと周辺の様子を観察しようと身体を捩ろうとして、シトラスはようやく気付いた。
「え……?」
手足の自由が、利かない。黒い影のような、もやもやとしたものがシトラスの四肢に絡みつき、動きを封じている。必死に振り解こうと力を込めるが、びくともしない。
影が質量を持ったら、このような状態だろうか。そんなことを思ったところで、シトラスはハッと我に返る。
「そうだ、私……、トルバランに負けて……!」
意識が途切れる前の出来事がフラッシュバックする。思い出すだけで恐怖心が蘇ってきた。あの時、自分は確かに敗北を喫したのだ。もう終わりだと思った瞬間、突然視界が暗転し、気付けばこの場所にいた。
ここは一体どこなのか。どうして自分がここに居るのか。
様々な疑問が浮かんでくるが、答えは出ない。ただ一つ分かっていることは、自分がトルバランに捕まったことは間違いないということだ。
(トルバラン……魔法少女を排除する、って言ってたよね)
排除、ということは殺される可能性もあるということだろうか。そう思うと背筋が凍るような感覚に襲われた。
魔族は、どうやって人を殺すのだろう。
痛いのだろうか。苦しいのだろうか。それとも一瞬で楽になれるのだろうか。そんな、悪い想像ばかりが脳内を駆け巡っていく。
どの道、魔族に捕らえられた以上、ろくな目に遭わないことだけは確かだろう。そう考えると急に怖くなって泣きたくなった。
「……おや、目が覚めましたか?」
不意に聞こえた声に、シトラスはビクッと肩を震わせた。いつの間に現れたのか、シトラスの真正面にトルバランが立っている。彼は興味深そうにシトラスを見つめていた。
「……ここはどこ?なんで私だけ、ここに連れて来たの……?」
震える声で問いかけるシトラスに、トルバランは淡々と答えた。
「ここは私の作った結界空間。外部からは認識出来ないようになっています」
トルバランの言葉を聞き、シトラスはますます混乱する。そんな場所に、何故自分だけを連れ去ったのか。何をするつもりなのだろうか。様々な疑問が渦巻く中、トルバランは続けて言った。
「貴方をこの場所に連れて来た理由は二つあります。
ひとつは、貴方のお仲間の追跡を逃れるためです。私は結界魔法が特別得意というわけではありませんが、この規模であれば貴方の魔力の気配をほぼ完璧に遮断できます。当分、お仲間は貴方の行方を辿れないでしょう」
トルバランの言葉に、シトラスは息を呑んだ。彼の言葉を信じるならば、今自分は絶体絶命の状況にあることになる。仲間たちと引き離され、孤立無援の状態なのだ。絶望感が押し寄せてくる。
「尤も─お仲間はまだ、貴方を捜索出来る段階には至っていないと思いますが」
「どういうこと?」
訝しげに眉を顰めるシトラスに、トルバランは表情を変えずに続ける。
「貴方のお仲間も決して弱くはありませんでしたが、私を阻むには至りませんでした。今頃、各々の回復に専念していることでしょう」
トルバランの言葉を聞きながら、シトラスは血の気が引いていくのを感じた。自分が気を失った後、キルシェ達の身に何かが起こったというのか。
「キルシェに、……みんなに何をしたの?!ねぇ!!」
焦燥感に駆られるように叫ぶシトラスを見下ろしながら、トルバランは僅かに口角を上げた。
「ご安心を、命に関わるような真似はしていません。ただ少々─格の違いというものを理解していただいただけです」
シトラスは唇を噛み、息を詰まらせる。
自分のせいで、仲間たちを巻き込んでしまった。
忠告された通り、ひとりでエリックを助けようとさえしなければ、こんなことにはならなかったはずだ。
後悔の念に苛まれるシトラスに向かって、トルバランは冷淡な口調で告げる。
「さて、二つ目の目的ですが。……率直に申し上げましょう。魔法少女としての貴方を無力化するためです。
平たく言えば、貴方のエナジーをここですべて吸い尽くします」
発せられた言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。理解すると同時に、シトラスは愕然と目を見開く。
「っ、なんで、そんなこと……っ!」
「決まっているでしょう、貴方達が我々の邪魔ばかりするからですよ。私の主からしたら、魔法少女の存在は目障りでしか無い。しかし我々を阻むその力がもし、利用価値のあるものだとしたら─我々にとって益となりますから」
トルバランはゆっくりとシトラスに近づくと、彼女の顎を掴んで上向かせる。サファイアを思わせるシトラスの碧い双眸は、完全に怯えと絶望に染まっていた。
「さあ、始めましょうか。時間が勿体ないですから」
トルバランの手が、シトラスの胸元にあるブローチの前へと移動する。トルバランの魔力に反応したのか、シトラスのブローチは淡い輝きを放ち始めた。自分の意志とは関係なく起きている現象に、シトラスは恐怖心を募らせていく。
「…っ!!やだっ!やめて、それに触らないでっ!!」
それだけはいけない、と本能的に悟ったシトラスが悲鳴じみた声を上げる。
ブローチは魔法少女に変身するためのアイテムでもあり、エナジーをコントロールする要の場所でもある。そんな場所に何かされてしまったら、どうなってしまうのか想像もつかない。
「お願いっ、離して!!!」
「……」
トルバランは、何も答えない。無言のまま、シトラスを見つめるだけだ。何の感情も読み取れない、ただひたすらに静かで冷たい眼差しだけがそこにあった。
ブローチに翳されたトルバランの手に、魔法を発動させる前兆の赤い光が集まる。そして─
「『
静かな声とともに、トルバランの手とブローチの間に禍々しい魔法陣が現れる。聞きなれないその言葉が魔法を発動するための呪文だと認識するのに、数秒かかった。
「あっ、ああぁっ!?」
その瞬間、身体の奥から何かが引きずり出されるような感覚に襲われた。同時に全身の力が抜けていき、意識を手放しそうになる。
それは、今まで感じたことのない程の激しい衝撃。
「うぐっ、ああっ……あああっ!!やっ、いやぁぁぁぁぁぁ!!!」
ブローチから放たれた光がどんどん魔法陣の中へと消えて行き、それに伴いシトラスの全身を度し難い感覚が駆け巡った。
身体の奥底から何かが失われていく喪失感。今まで味わったことのない強烈な脱力感と喪失感が襲ってきて、シトラスの精神を追い詰めて行く。
「やめっ、やめてぇえぇっ!!」
悲痛な叫びを上げるシトラスを無視して、トルバランはシトラスのエナジーを吸い上げ続けていく。その度に魔法陣の光が強く輝きを増していき、シトラスは自分の力が奪われている事実を突きつけられた。
(どうしよう、体に力が入らな……っ?!)
エナジーを奪われて生じた脱力感に紛れて、得体の知れない感覚がシトラスの体を走り抜けた。
背筋がぞわりと震え、何も考えられなくなるほどの強い刺激。未知のそれに戸惑いながらも、シトラスの身体は確実に反応を示す。身体中の血液が沸騰するような、甘い熱がじわりと広がる。
─気持ちいい。
この感覚に対して、最初に浮かんだ言葉がそれだった。
奪いつくされてしまえば命に関わるエナジーを吸い取られてしまっているはずなのに、どうして。
(なに、これ)
身体の内側から力を奪われるような虚脱感と共に、全身が痺れるような甘い疼きが広がっていく。身を委ねてしまいたくなるほどの、心地良い感覚。
身体の奥底から何かが失われていく喪失感とは裏腹に、それを補って余りあるほどの多幸感が溢れ出す。
(こんなの、変だよ……っ、怖い、怖いよ!)
恐怖と混乱、そこに快楽が入り混じり、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
初めて魔獣にエナジーを奪われた時、こんな感覚はなかったはずだ。ただひたすらに痛くて苦しくて、体の内側がどんどん冷えていって、死が近づいてくる恐怖しか感じなかった。それなのに、今は違う。胸の鼓動が激しくなり、全身が火照って汗ばんでいる。身体の芯が熱くなって、どうしようもなく切ない。
「ゃ、やめ、てぇ……っ!これ以上やっちゃだめぇ……っ!」
息も絶え絶えになりながら訴えるシトラスの言葉は、もはや懇願に近かった。瞳からぽろぽろと涙が零れ落ちるが、それが恐怖によるものなのか、この得体の知れない感覚に戸惑っているせいなのか、自分でも分からない。
これ以上この状態が続いたら、おかしくなってしまう。壊れてしまう。
そんなシトラスの様子を見てもなお、トルバランの表情は動かない。
「そろそろ、ですかね」
不意に、トルバランが呟いた。
その言葉と同時に、魔法陣の輝きが一層強くなる。それと同時に、シトラスの身体の奥深くで何かが弾けたような気がした。それと同時に湧き上がってくる、耐え難い衝動。
「あああっ!?あっ、あああぁ──ッ!!!」
一際大きな叫び声を上げた直後、シトラスの身体が激しく痙攣し始めた。背筋を反らせ、白い喉元を大きく晒しながら絶叫を繰り返す。グローブに包まれた手はぎゅっと握り締められ、ブーツに包まれた足の指はピンと伸び切っている。
先程とは比にならない量のエナジーが、搾り取られている。
全身の神経を直接撫でられるような強烈な感覚に、シトラスは大きく背中を仰け反らせた。
身体中をエナジーが通り抜けていく度に、全身の細胞一つ一つが震え上がり、身体中の血液が沸騰するかのような熱さを感じる。
「やだっ、やめてぇっ、あぅっ、やっ、やあぁっ!」
拒絶と懇願の入り混じった声が、喉奥から漏れる。それなのに、シトラスの五感はこの感覚を心地良い甘美なものとして受け入れていた。自分の身体が自分のものでなくなるような不安に、心の中がぐちゃぐちゃに乱される。
(嫌だ、怖い、誰か助けて……!)
理性では拒否しても、本能がそれを許さない。そんな感覚と戦い続けているうちに、シトラスの身に変化が起こり始めた。
「え………?」
シトラスが纏っていた魔装ドレスが、鈍い光を帯び始めたのだ。
光を放って輪郭が曖昧に溶け始めたそれを見て、シトラスは理解した。
変身が解けかけているのだと。
「だ、だめっ、へ、へんしんが……!」
魔法少女ではなくなったら、今度こそトルバランに抵抗する手段が完全に無くなってしまう。焦るシトラスを尻目に、トルバランは更にエナジードレインを続ける。その度にシトラスの体から放出される光の量が増え、衣服の形が少しずつ崩れていく。
「いやっ、やめて、おねが……っ、あぅっ、やっ、やあぁっ!」
抵抗を捩じ伏せるかのように、急激に吸い上げられるエナジー。逆らえない感覚に為す術もなく、シトラスは悲鳴を上げた。
手足にはもうほとんど力が入らず、拘束されていなければとっくに地面に這いつくばってしまっていることだろう。
「も、うやだ、やめてぇ……っ、やぁっ」
言葉を発するのさえやっとといった状態で、それでも尚、彼女は懇願する。今のシトラスに出来る事はそれしかなかった。拘束された中で体を捩らせ、泣き叫ぶことしか許されない。
そんなシトラスに追い討ちをかけるように、残酷な声が響く。
「貴方の変身が解除されるまで、あと数秒といったところでしょうか」
「………っ!?」
変身が保てなくなるまでエナジーを奪われて、その先に何が待つのかをシトラスは知らない。
ひとつ確かなのは、本来起きてはいけない事が起きようとしているということ。このままでは、取り返しのつかない事態になってしまう。
「いや、やだ……、たすけて、だれか、たすけてぇっ!!」
半狂乱になって叫ぶシトラス。しかしその声を聞き届ける者はこの空間に存在しない。
「言ったでしょう、貴方を助けに来る者は誰も居ないと。諦めて全てを委ねなさい」
「っ、やめてぇっ、やめてぇぇぇぇぇっ!!!」
無慈悲な宣告と共に、ブローチから絞り出されるエナジーが最高潮に達する。貪られるように、赤い魔法陣に飲み込まれる鮮やかなオレンジ色のエナジー。
「っ───!!!」
まるで心臓が破裂してしまったかのような衝撃に、シトラスは目を大きく見開いた。あまりの激感に、呼吸すらままならない。
目の前がチカチカと点滅する。
そうして、一際大きな閃光がブローチから放たれ─
「いやぁあああぁああぁあああぁああぁぁっ!!!!!」
悲痛な叫びが、結界空間内に響き渡った。
その瞬間─シトラスの纏っていた魔装ドレスやグローブ、靴が全て、次々と光の帯に変わって解けてゆく。
「あ………、あぁ………、」
魔法少女に変身する過程を逆回しにしたように、シトラスを魔法少女たらしめていたものが全て、オレンジ色のリボンに変化したのだ。ひとつ違うのは、そのリボンには何の力も魔法もないただの細い布切れ同然であること。
纏っていたドレスの形に添うように巻き付いていたリボンは、やがてしゅる、と音を立てて緩み、シトラスの肌から離れて垂れ下がっていった。
「……、へんしん、とけちゃった……」
明らかに異常を伴って変身を解かれた事実に、シトラスは呆然と呟く。
変身する前の制服姿にも戻れず、魔装ドレスを形作っていたリボンが華奢な身体に絡みついただけの、頼りない姿。
それでも、自分が魔法少女では居られなくなったことを理解するには十分だった。
「………ぅ……ぁ、」
エナジーを大幅に失った代償が、一気に襲い掛かる。
先程まで感じていた熱が嘘のように冷め切り、朦朧とする意識。
目も開けていられないほどの、抗えない疲労感。
身体の中が空っぽになったような、深い喪失感。
指一本を動かすことすら、ままならない。
トルバランはエナジーの吸収を止めて手を下ろし、シトラスに施していた拘束魔法を解除した。彼女を拘束していた黒い影は大気に溶け込むように消えていき、支えを失ったシトラスはその場に崩れ落ちかける。
「おっと」
シトラスの身体は床に叩きつけられることなく、トルバランの腕によって抱き止められた。そのまま横抱きに抱え上げられ、その拍子に身体に絡み付いていたリボンが数本解け落ちる。
「ぅ………、」
離してほしい、と抗議の声を上げようとするが、言葉を発することが出来ない。せめてもの抵抗で、トルバランを睨みつけようと視線を向ける。
(え…………、)
視界に入った表情は、シトラスが想像していたものとは全く違っていた。
目的を果たせたという満足感も無ければ、敵をいたぶって楽しむ愉悦も無い。
目の前の少女を哀れみ慈しむような瞳が、そこにはあった。まるで別人のような雰囲気を漂わせる彼に、シトラスは思わず息を呑む。
さっきまで冷徹な表情を崩さなかったはずの彼が、どうしてそんな顔をしているのか分からない。
「……なん、で、」
─なんで、そんな顔をしてるの?
─あなたにとって私は、敵なんでしょう?
そう問いかけたいのに、口から出るのは掠れた吐息だけ。
薄れていく意識の中。物言いたげにこちらを見つめる琥珀色の瞳が、シトラスの脳裏に焼き付いて離れなかった。
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