泡沫の再会

冷たい水の中にいたはずなのに、今はとても温かく心地が良い。


うっすらと目を開けてみると目の前にあったのは、端正な顔立ちをした人物だった。どうやら自分はこの人に助けられたらしいと、シトラスはまだぼやけている意識の中で理解する。


しかしどうしてだろう。どこかでこの人を見たことがあるような─そんな事を考えていたら突然男性がこちらに視線を落としてきたため目が合ってしまう。彼はふっと微笑んだ後に口を開いた。


「……気がつきましたか」


その低いテノールの声が耳に触れた瞬間、シトラスの心に記憶の断片が過る。


(この人……あの時の?)


初めて魔法少女に変身して戦った時に、現れた男性。その時も、この男性は突然現れてシトラスのことを助けてくれた。その顔、声、視線。

すべてがシトラスの記憶と一致する。


「あ、あなたは……」


「前にもお会いしましたね」


男性は柔らかい声色でそう言い、微笑む。その表情を見て何故だか胸が高鳴ったような気がした。


が、それよりも大事なことに気付いたシトラスは、慌てて男性に尋ねる。


「あの、キルシェ……っ、私の他にも、女の子がいませんでしたか?金髪で髪を二つに縛ってて……友達なんです!」


必死に問いかけるシトラスに対して、男は落ち着いた口調で答える。


「大丈夫ですよ。お友達は無事です。今は意識を失っていますが、命に別状はありません」


トルバランの向いた方と同じ方向を見ると、少し離れたところで壁にもたれかかるようにして寝かされているキルシェの姿があった。この男性の物なのか、黒いジャケットと思わしき上着をかけられている。その様子を見てシトラスはほっと息をつき安堵した。が、それと同時に現実に引き戻される。


キルシェは上着をかけられているのに対して、シトラスの状況はというと─






座っている男性の膝の上に座らされ、その腕に抱きかかえられている状態だった。



「ちょっ、ちょっと……っ、なんで私、抱っこされてるんですか!?」


思わず叫んでしまったシトラスに対し男は相変わらず冷静な様子で答える。


「驚かせてしまってすみません。二人とも体が冷えていらっしゃったので。お友達の方には私の上着をかけたのですが……失礼を承知で、このような手段を取らせていただきました」


言われてみれば確かに少し肌寒さを感じるかもしれない。冷水の中にいたのだから当然と言えば当然だが。方法はともかく、自分はこの男の体温で暖を取ったおかげで助かったのだということは理解できたため、これ以上文句は言えなかった。


(ていうかこの人、全然何ともなさそう……)


意識したり恥ずかしがっているこちらがおかしいのではないか、という気すらしてしまう。いや、この人はきっと善意で助けてくれたのだから、そこに恥ずかしいも何もないはずなのだけど。


それでも年頃の少女としては、色々と意識してしまうもので。


「あ、ありがとうございます……その、もう平気なので下ろしてもらえませんか……」


シトラスがおずおずとそう言うと男性はああ、失礼いたしました、と言ってあっさりと彼女を解放した。床の上にそっと降ろされた後、改めて目の前の男性を見やる。


赤く長い髪はシトラス達を助けようとした時に濡れてしまったのか、しっとりと濡れていてどこか色っぽい雰囲気を漂わせていた。年齢は二十代半ばくらいだろうか。同級生の男子たちよりも明らかに大人に見えるし、物腰も落ち着いているように見える。


「見たところ外傷は無いようでしたが……どこか痛むところはありませんか?」


「あ、はい!大丈夫です!!」


無意識のうちに男性に見惚れていたことに気付き慌てて返事をするシトラス。その様子を見て、男性は安心したように微笑む。


「あの、そういえばここ……どこなんですか?私、水族館にいたはずなんですけど……」


部屋の中には窓がなく、その代わりに壁一面に複雑な機械類が並べられていた。ボタンやダイヤル、更には重そうなレバーがついた鉄製のコンソールが壁沿いに配置されている。シトラスにはこれらが何を意味するのか見当もつかなかったが、誰でも触っていいような代物ではないことだけは明らかだった。


「その水族館の電気室です。本来は許可された人間で無ければ立ち入れない場所なのでしょうが、非常事態でしたし……あの魔獣も水気の少ないここには近付けないようなので」


それを聞いてシトラスは納得する。確かに電気設備は水気厳禁だし、他の場所に比べてもかなり乾燥しているはずだ。水を操るあの魔獣にとっては都合の悪い場所と言えるだろう。





「……って、あなた魔獣のことを知っているんですか?!」


あまりにも自然な流れで男性の口から魔獣という言葉が出てきたことに遅れて気付き、シトラスは思わず声を上げた。しかし男性はそれを気にする風でもなく落ち着いた様子で答える。


「ええ、知っています。─あなたが魔法少女だということも」


「……っ!!」


言葉が出ない。


どうしてこの人は知っているのだろう?魔獣の事も、魔法少女の事も。


そもそもこの人は一体何者なんだろう?


疑問が次々と湧いてくるけれど、何から聞けばいいのか分からない。ただひとつはっきりとわかるのは、この男が人間界を襲撃している魔獣や魔法少女について、何かしらの知識を持っているということだけだ。


(ポメポメに話した方がいいのかな?でも、あの時も今も私のことを助けてくれたし……悪い人では……ないんだよね……?)


沈黙が続く中、男性の顔色に微細な変化が訪れた。

まるで遠くで吹き始めた風に気付くように、微かな気配を察知したかのように視線が動く。


しかしそれも束の間のことであって、すぐに元の穏やかな顔に戻ったかと思うとすく、と立ち上がった。


「どうやら長居しすぎてしまったようです。私はここで失礼しますね」


「えっ、ちょっと……!!」


反射的に手を伸ばそうとしたが、男性はすでに距離を取っていてシトラスの手は虚空を掴むだけだった。そしてそのまま出口に向かって歩いて行ってしまう。引き止めなければと本能的に思うのに、そのための言葉が見つからない。


彼が何者なのか、どうしてこんなことを知っているのか。

その全てが、この一瞬で遠くなってしまうかのような気がした。




「─そうでした、最後にひとつだけ」


男性がくるりと振り返る。その瞬間、シトラスの心が微かに跳ねた。何かが明かされるかもしれないという希望が一瞬、頭を過ったのだ。だからつい次の言葉に耳を傾けてしまった。


「水というものは、形を変えることができます。熱を加えれば気体に、冷やせば固体に。真実はその変化の中に潜んでいる。見えないものを見るためには、見方を変えることが必要ですね」


(ん?何のことかな……)


意味がよく分からず首を傾げると男性はくすりと笑いを漏らしてから部屋を出て行ってしまった。シトラスはそれをただ見送ることしかできなかったのだった。


(水って……あの魔獣のこと……?でもそれってどういう……)


そこまで考えたところで、小さな足音がこちらに向かってくることに気付いた。




「シトラスーっ!!無事ポメーーーー?!」


叫びながら飛び込んできたのは案の定、ポメポメであった。リュックの中にいた時と違い仔猫ほどの大きさになった彼女はそのままの勢いでシトラスに飛びつき、シトラスも慌てて両手で受け止める。


「ポメポメ、どうしてここがわかったの?」


「シトラスのエナジーを辿ってここまで来たポメ!探すの大変だったポメ~!!」


どうやら自分を探して館内中を駆け回っていたらしい。


「ごめんね、心配かけて……他のみんなは?」


シトラスの問いかけに、ポメポメはハッと我に返ったような表情になり慌てて答えた。


「水族館の人も、学校の先生やクラスのみんなも、魔獣にエナジーを奪われて倒れているポメ!早く行かないと大変なことになるポメ!!」


ポメポメの言葉を受けて、シトラスは表情を引き締める。もうこれ以上、誰かを傷つけさせるわけにはいかない。


「わかった。すぐ変身するね」


その言葉を聞くと、ポメポメはシトラスにブローチを手渡す。

シトラスはそれを受け取ると、壁に寄りかかって目を閉じているキルシェの方へと歩み寄った。


「……キルシェ、あとで絶対迎えに行くからここで待っててね」


そう言って、あの男が置いて行ったジャケットを彼女に被せ直すとそっと立ち上がった。そしてゆっくりと息を吸い込むと大きな声で叫んだのだった。


「『シトラス、変身(コンベルシオン)』!!」


その瞬間、シトラスの身体がまばゆい光に包まれ始める。

着ていた学校指定のジャージや下着が光の粒子となって消え去り、一糸纏わぬ裸体が露わになったかと思うと、胸元のブローチからオレンジ色のリボンが伸びてその身を包み込んでいく。


シトラスの身体に巻き付いて行ったリボンは、グローブ、ブーツと順番に装着されていき、胴体に巻き付いたリボンはオレンジ色のパフスリーブのワンピースを形作る。さらに腰の部分に大きなリボンが結ばれると、最後にブローチから飛び出していった光が一振りのハンマーの形になる。魔槌オレンジ・スプラッシュと名付けられたこの武器を手にすることで、ようやく魔法少女への変身は完了したのだった。

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