14

 大丈夫だと言い張ったが、母は珍しく会社を休んで家に居てくれることになった。

 二月の冷えた部屋で深夜まで机に向かっていたおかげで、翌朝には風邪をひいていた。普段なら市販の風邪薬を飲んで通学する程度だったが、とてもそんな気分になれず、週明けの学校を休むことにした。

 熱も上がらず、喉の痛みと多少のふらつきを感じるだけ。だが風邪の症状とは異なるひどい気分の悪さが、昨日から今に至るまで瑞希を襲っていた。

 運命は捻じ曲げられる。現にそうして、自分は生き残った。だが、それが誰かの悲惨な運命を呼ぶことになるとは、微塵も想像しなかった。

 茜瑞希を殺していれば、あの男はその時捕まっていた。高宮朋の死体遺棄現場の様子からも、犯人に遺体を隠すつもりはなかったそうだ。むしろ衣食住の確実な生活を送りたいが故に、逮捕を望んでいたらしい。そうすれば、幼い高宮朋は死なずに済んでいた。兄の高宮佑……結城佑も暗い性格になりいじめに遭い、障害を負わされることはなかった。もしかしたら、彼らの母親も再婚せず、母子三人で円満に暮らしていたかもしれない。

 全て、茜瑞希が生き残ったから起きたことだ。たった一つの命を守ったおかげで、それ以上の犠牲が出た。一つの家族を不幸に落とす結果になってしまった。

 誘拐未遂のことを打ち明けたあの日、佑は既に察していたに違いない。彼が犯人の姿かたちを知りたがったのは、弟を殺した人間と同一である可能性を見出したからだ。その推察は正しかった。茜瑞希は結城佑にとって、弟の仇とも呼べる人間だった。

 それなら、あの時自分が死ぬべきだったのか。その考えに至る度、祖母の言葉を思い出す。「瑞希ちゃんが無事でよかった」。死ぬのはもちろん恐ろしいし、優しい祖母が孫の遺体を目にして泣く姿は、想像するだけで辛く胸が締め付けられる。

 静かな午後の部屋で、まとまらない考えだけがぐるぐると頭の中で流動する。果てしない自問に正解を導き出せない。時間を戻せる力はただ便利なだけではない、この世で一番罪深いものなのだと思い知った。

 ベッドに潜り込んだまま眠れない頭で考え続ける隙間に、聞き慣れた音が飛び込んできた。玄関チャイムの鳴る音。誰か客が来たらしい。母が駆け寄るスリッパの足音まで聞こえてくる。

 壁の掛け時計を見ると、時刻は既に午後の四時を回っていた。明日はどうしよう。そして思考が一瞬停止する。

 うっすらと聞こえてくる母の声。それに応対しているのは、間違いない、佑の声だ。今一番会うべきでない彼が、見舞いに来ている。

 帰ってくれという必死の願いもむなしく、ドアの閉まる音がしても二人の話し声が聞こえる。母が彼を家に入れたのだ。足音が今度は階段を上がってくる。どうしよう、どうしよう。答えを出す間もなく、部屋のドアが控えめにノックされた。

 そっとドアを開けて顔をのぞかせる母は、瑞希と目が合うと「なんだ、起きてたの」とほっとした様子だった。

「サークルの子……瑞希も前言ってたわよね、結城くんがお見舞い来てくれたから。起きてるなら、顔見せてあげなさい。すごく心配してくれてるわよ」

 入れるなと怒るわけにもいかない。部屋を出るにしても、彼と言葉を交わさなければならない。瑞希が迷っている内に、母はさっさと彼を招いた。ぺこぺこと頭を下げていた佑は、半身を起こす瑞希を見ると嬉しそうに「こんにちは」と挨拶をする。母はすんなり部屋を出ていってしまった。

「あの、今日休みだって小倉先輩に聞いて。そしたら、お見舞い行った方がいいって、住所教えてくれたんです」

 弥生が気を利かせたらしい。瑞希に会いたい彼も、喜んで承諾したのだろう。「一応連絡はしたんだけど、もしかしたら見てないのかなと思って、来るだけ来ちゃいました」

 スマートフォンは眠りの妨げにならないよう、マナーモードのままだった。だから彼の連絡とやらには全く気付かなかった。

「……やっぱり、具合悪いですか」

 心配そうな彼の言葉にはっとし、慌てて頭を振る。「そうでもない」と、極めて何でもない風を必死に装う。

 佑は壁際の本棚を見上げ、感心したように言った。

「それにしても、いっぱい本がありますねー」

「見ないでよ」

「あっ、アルジャーノンだ」

「ハム吉」

 本棚横のラック上にある飼育ケースを覗き込む。「可愛いなあ」と彼がケースを指先でつつくと、ハム吉は後足で立ち上がりふんふんと鼻を動かした。

 彼の様子に何も変わりはない。当然だ、瑞希が自分の過去を知ってしまったことを、佑は知らないのだから。

 このままでいた方がいいのだろうか。黙っていればバレるはずがない。そもそも言うべきかもわからない。

「ほんとに大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」

「大丈夫だってば。ちょっと風邪っぽいだけ」

「夜更かしでもしてたんでしょ」

 相変わらず勘が良い。「あんたじゃないんだから」いつもの通り、瑞希は素っ気ない返しをする。

「そうだ、手ぶらなのもあれなんで……」

 彼は鞄をごそごそ探り、五百ミリリットルサイズのペットボトルを取り出した。

「ポカリスエット。もしかして、アクエリアスの方が良かったですか」

「別にそんなことないけど。ていうか、いらない」

「またまたあ。大事ですよ、水分補給」

 へらへら笑いながら、彼は勝手にペットボトルを机に置く。

「いいってば。熱ないんだし」

 と言っても、彼は置いて帰るだろう。気にせず、瑞希はベッドの端で充電ケーブルを挿したままのスマートフォンを引っ張り、マナーモードを解除した。佑からの新着メッセージが五件も入っている。実際に佑が家に来たと知れば、弥生は何と言うだろう。

 彼が急に喋らなくなったのを不審に思い、瑞希は顔を上げた。視線の先で引きつる彼の横顔は、今の自分よりも青ざめていた。

 佑が家を訪れるなど想定外だったから、片付けなどしていなかった。机の上には調べものの痕跡が散らばっている。つまり、図書館で借りた本と、まだ白いままのノートと、コピーした新聞記事。

 彼はひと目で、それが何の事件記事なのかを理解してしまった。

 何かを言わなければ。ただそれだけを思う瑞希の喉から、「あ……」と意味のない声が漏れる。それは言葉の形を取らないまま、霧散して消えてしまう。彼は絶句し、見開いた目で瞬きすらしない。

 空気は長い間、凍りついていた。実際には、一分にも満たなかったかもしれない。だが瑞希には、それはひどく長く、果てしない時間に感じられた。

 やがて、彼がゆっくりと唾を飲み込む喉の動きが見えた。笑いも泣きも怒りもない、ただ狼狽し戸惑いながらも諦観を含んだ顔でこちらを向いた。

「図書館で調べてたら、偶然見つけて……」

 誤魔化す知恵もなく、そもそもこの期に及ぶ誤魔化しはあまりに不誠実だと思い、瑞希は力なく説明した。

「前に聞いた名前があって、もしかしたらと思って」

 叱られる最中のように、視線を伏せる。どんな罪状かわからないが、知ってしまったことは、途方もなく重い罪である気がした。

 その罪を裁くべき場所にいる彼はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと言った。

「この記事にある子は、間違いなく僕の弟です」

 だが、それだけではない。わかってしまったのは、更に重要なことだ。

「……私、その犯人を」

「先輩を誘拐したのが、この犯人ですよね」彼が目を落とす先には、一枚のスクラップ。瑞希からは見えないが、犯人の顔写真があるに違いない。

「先輩が時間を戻して助かった、その事件の犯人が、こいつ」

「ごめんなさい」

 震える手を腿の上で握り締め、瑞希は呻いた。やはりそうだ、彼は全てを悟っていた。その上で、今までずっと瑞希に接していた。

「なんで、謝るんですか」

「私があのまま、何もしないでいたら、この子は……朋くんは死ななかった。私が運命を捻じ曲げたから、関係のない子が死んでしまったんだ」

「でも、朋が助かっていたら、先輩は死んでましたよ」

「そう、だけど。でも、本来は」

 声が詰まって上手く言葉が出てこない。彼の声はいつになく淡々としている。きっと、激しい感情を抑える代わりに、声が温度を失っているのだ。その声をかけられるのが、ひどく辛くて苦しくて、罪悪感で消えてしまいたくなる。そうだ、これが受けるべき罰なのだ。

「……きっと、先輩が未来を変えるところまでが運命だったんだ。朋を死なせたのは先輩じゃない」

 平坦な声に、僅かな歪みが生じた。秘められた微かな温もりは、いつも彼に満ちているものだった。

 躊躇いながらも視線をやると、彼はほんのりと笑顔を浮かべた。それは涙が見えないだけで、本当は泣いているような錯覚も覚える。

「それでも罪悪感を覚えるなら、先輩には、朋の分も生きていてほしい」

 瑞希は唇をかみしめた。涙が零れそうになったのだ。おまえのせいだと罵倒され、憎まれた方が随分楽だろう。鋭く尖った罪は皮膚を切り裂くのに、それでも致命傷には至らない。弟を失い取り残された佑の言葉は、胸の奥をねじ切るようだ。

「……今度、付き合ってください」

 項垂れて肩を震わせる瑞希に、佑が言った。

「一人で行くつもりだったんだけど、延山に行きます。よかったら、来てください」

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