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 一週間後の土曜日、瑞希は電車に乗っていた。長閑な江雲えぐも市だが、中央の江雲市駅周辺は比較的栄えている。繁華街を窓の外に見つつ、江雲市駅から更に十五分ほど電車に揺られたところでホームに降り立った。目に見えるほど近くに葛西かさい大学のキャンパスが並んでいる。改札を抜け、一年ですっかり慣れた道を歩く。

 土曜日のキャンパス内に、行き交う人は少なかった。四階建ての建物に入り、エレベーターで最上階に上がる。静かな館内を歩き、やがて「使用中」のプレートがかかった一枚の扉の前に立った。

 瑞希が学外のサークルに加入したのは、ちょうど一年前の四月のことだった。南浜高校の文芸部の規模が想像以上に小さかったため、学外でも似たようなサークルを探していたのだ。

 そこで見つけたのが、葛西大学の図書館内で活動している文芸サークル、「星の海」だった。お洒落な大学生が三年前に立ちあげたというサークルは、高校生と大学生をメンバーとして、二十人程で構成されている。月一の定例会の他は、主に土曜日に可能なメンバーで集まり、読書や創作をする場を設けている。会費は無料で、この頻度なら部活とも両立することができる。迷わず瑞希は加入した。

「……こんにちは」

 ドアを開け、小さく声を掛けた。利用者が打ち合わせや作業に使うだけの簡素な部屋で、縦に並んだ長机の周りには、既に十人程のメンバーが集まっていた。活動内容は小説だけでなく、俳句、川柳、詩など文芸に関するものであれば縛りはない。今は絵本の絵を色鉛筆で描いている人もいれば、お喋りを楽しんでいる人もいる。

「茜さん、こんにちは」「こんにちはー」

 挨拶や会釈を返す彼らに軽く頭を下げて返事をしつつ、瑞希は空いている席についた。

「先輩、無視しないでよー」

 敢えて一人だけ挨拶を返さないでいると、手前の席にいた佑がわざわざ隣にやって来て椅子に座った。

「うるさい」

「わー、塩対応ー」

 けらけらと笑う彼に、何がおかしいんだとつい挟みたくなる口を噤む。こいつの思い通りに突っ込むのは癪だ。

「瑞希ちゃん、こんちわ」

 佑を挟んだ隣に一人の男子学生が座り、瑞希もぺこりと礼をして「こんにちは」と言った。眼鏡をかけたぽっちゃり体系の彼は富士見ふじみきよしといい、葛西大学の学生でもある。今年で二十歳になる彼は、見た目通りアニメや漫画に詳しい、所謂オタク男子だ。温和な性格で佑とは気が合うらしく、よく二人で楽しげに話している。

「先輩、今日は何書くんですか」

 佑の言葉に、鞄からパソコンを出しながら「小説」と一言だけ呟く。

「先輩が小説以外書いてるのって、見たことないですよ」

「一ヶ月しかいないくせに、よく言うわ」

 見たことないも何も、瑞希が作品を書く姿を、彼は片手で数える程度しか見ていないはずだ。

「そうか、佑ってまだ一ヶ月しかいないのか」

 富士見が驚いた風に言った。けらけらと笑う佑は、古株といっても違和感のないほどに馴染んでいる。「照れるなあ」そんな台詞まで口にする。佑が入ったのは中学卒業直前の三月だったが、あとひと月足らずで高校生になるということで、加入が許されたのだった。

 構わずパソコンを立ち上げ、瑞希はワードソフトを起動した。「見ないでよ」ちらりと佑を横目で睨む。

「ええ、駄目なんですか」

「駄目。余計な口挟まれたくない」

「いやいや、何も言いませんから」

「信用ない」

 そんなあ、と彼は口を尖らせるが、お構いなしに目線を画面に戻した。来月締め切りの短編小説賞に送るための作品は、まだ書きかけだ。納得のいく出だしが思いつかず、日数だけが経っていく。それでもとにかく仕上げなければ、文字通りお話にならない。白い画面を見つめる。

「富士さんはなに書くんすか」

 しかし集中しようとすればするほど、隣の会話が耳に入る。

「俺、スランプでさあ。今日はこれ読むつもりだよ」

「またラノベかあ。たまには純文学とか読めばいいのに」

「おい、ラノベを馬鹿にするなよ。これがどれだけ少年少女の心を救ってると思ってんだ」

 少年じゃないし、と喉元まで出かけた台詞を飲み込む。「少年?」代わりに佑が吹き出し、二人が笑う。

「佑こそ、何書くんだよ」

「僕もあんまそういう気分じゃなくって。まあ何か作れたらいいかなーと」

 佑が机に広げたノートが視界に入った。まっさらなページには何も書き込まれていない。

 瑞希は少しだけ彼の作品を読んだことがあった。数本の川柳と、一本の短編小説。どちらも笑いを誘うコメディチックな内容で、実際のところ瑞希は全く笑えなかったが、「藁」というペンネームも含めて彼らしいと思った。「笑」とかけているのは明白だ。小説の文体は意外にもきちんとしていたが、別段感動することもなかった。

 左利きの彼の手で、ペンがくるりと回転する。まとまらない考えの中、一本だけ動かない小指を見つめる。確か、昔の怪我の後遺症で左手の小指が動かないのだと言っていた。こいつは苦手だが、それは不憫だなと思った。今は器用に、四本の指でペンを回している。

「瑞希ちゃん」

 はっとして、瑞希は富士見に顔をやった。

「なんですか」

「ひとまがいって知ってる?」

 唐突な単語に、思考が一瞬停止する。ひとまがい、何だそれは。

「なんですか、ひとまがいって」聞いたこともない。「妖怪ですか」

「あー、確かに妖怪っぽい名前だけど、違う違う」

 眼鏡の奥の目を細めて、富士見が苦笑した。

「もしスランプならさ、読んでみなよ。インプットも大事だし」

「タイトルですか、それ」

「なんていうかなあ。人名で、サイトの名前だよ」

 ズボンのポケットから取り出したスマートフォンに、太めの指を滑らせる。すぐに彼は瑞希に画面を見せた。間にいる佑がパイプ椅子の背もたれに背を押し付けてのけ反った。

 簡素なホームページだった。HTMLを習ったばかりの小中学生が作ったような、素朴で飾り気のないページ。ヘッダーには「ひとまがい」の五文字があり、その下には作品のタイトルらしき言葉が一覧となっている。数は十に満たないだろう。「哭、一刻」「滂沱の時を超えて」「轍の獏」。小難しそうな文言の横には年月日があるが、一番新しいものも去年の日付で止まっていた。

「……これだけ?」

「これ以上何の情報もないけど、有名だよ、ひとまがい。三年ぐらい前に現れて、急に更新をやめちゃったけど、ネットではすげえ人気なんだ」

 瑞希はインターネット上の作品は滅多に読まない。富士見は投稿サイトなるものに作品を掲載しているそうだが、瑞希にはまったく興味がない。ひとまがいなど知る由もなかった。

「そんなに面白いんですか」

 訝しむ瑞希に「面白いよ」と富士見は意気込む。「俺さ、ファンなんだ。ひとまがいの」

 ふーんと瑞希が息を漏らすと、彼は向かいに座るメンバーに声を掛けた。大学生の彼女も高校生の彼も、富士見の質問に「知ってる知ってる」と答えた。彼らは一様に、ひとまがいが更新されなくなったことを残念がっていた。

「おつかれさーん」

 唐突にドアが開き、明るい声が流れ込む。「おつかれさまでーす」皆が口々に挨拶をする先では、小柄な女性がビニール袋を片手に提げていた。

「今日はほんといい天気だねえ」

 のんびりと言いながら席の一つに座る彼女は、葛西大学の三回生で、名前を里美さとみ月子つきこという。黒いポニーテールを揺らし、小動物のようによく動く瞳を持つ彼女は、サークルのまとめ役だ。背は低いが、却ってそれが愛嬌を感じさせ、近づく者をついのんびりとした気分にさせる。

「つっこさん、ちょっとちょっと」

 富士見が手招きをし、月子は「なにー?」と間延びした声を返しながら、彼の隣に腰掛けた。そこは皆が自然と彼女のために空けていたテーブルの上座だ。天板に置いたビニール袋からりんごジュース入りのペットボトルを取り出し、豪快にラッパ飲みする。ポニーテールの毛先が彼女のうなじをくすぐっている。

「これ知ってます?」

「知ってるー!」差し出された画面を見た途端、彼女はそれを指さした。「ひとまがい! あたし全部読んだよー」

 嬉しそうな月子と楽しげな富士見の様子に、瑞希はなんだか複雑な気分を抱く。ネット上の小説なんて、書籍の下位互換だと思っていた。要するにナメていたのだが、読書好きの彼らが絶賛するのは、やはりそれだけの中身を伴っているということだろうか。

「……僕は、あんまり好きじゃないけどなあ」

 え、と富士見と月子、そして瑞希が振り返る。佑は腕を組んで珍しく眉根を寄せていた。

「だって、暗いじゃないすか、ひとまがいって。なんか陰惨な話が多いし、鬱屈っていうか」肺にためた空気を大袈裟なため息に変えた。「絶対、根暗の陰キャですよ、この人」

「なるほどー。ゆうゆうのお口には合わなかったのか」月子はうんうんと頷く。「ま、確かに暗いけどね」

「みんながみんな、おまえみたいな能天気じゃないの。佑くんにはまだ早かったってことだよ」

「こんなん読んでたら、根暗が移りますよ」

「時にはネガティブも必要な栄養なんだよ。それでもウケるっていうんがすごいんだろ」

 あくまでひとまがい派の富士見がぽんぽんと頭を叩くのに、彼は実に迷惑そうな顔をする。

「先輩、ひとまがいなんか読んじゃ駄目ですよ」

 そこまで言うなら、読んでみるのも一興かもしれない。

「じゃあ、読むわ」

「なんでえ」

 佑が口角を下げ、月子と富士見が可笑しそうに笑った。

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