20

 やっぱり私は疲れていたみたいで、ご飯を食べてお風呂に入って、すぐに眠ってしまった。目が覚めたのは、翌朝の八時を過ぎた頃だった。

 カーテンを閉めた暗い部屋に、こん、と軽い音が響いている。雨が屋根を叩いているらしい。目を擦りつつ身体を起こして、しばらくぼーっとしながらその音を聞いていた。

 だけど、ほんのり違和感が湧いてくる。雨粒が降って、こんなに固い音がするだろうか。こん、こん、からから。固いものが落ちて、屋根を転がっていく音。水が転がって、音がするはずがない。

 不思議に思ってベッドから下りて、窓のカーテンをめくる。青い空を見上げつつ窓を開けた。

 ベランダに出しておいたガラスのビンに、金平糖が入っている。目の前で更に一つ、その数が増える。旭と一緒に遊びに行った日、彼に買ってもらった金平糖入りの小ビン。中身を食べてしまってからも、私はそのビンを洗って取っていた。昨日、旭に入れ物を出しておくよう言われて、思いついたのがその小ビンだった。

 驚いて、もう一度天を見上げる。

 晴れた空から、金平糖が降っていた。

 赤、白、黄色。様々な色の小さな星が、まるで雨のように空から降り注いでいた。


 急いで着替えて一階に下りて、母にこのことを伝える。台所掃除をしていた母も半信半疑で窓の外を見て、目を丸くした。テレビをつけると、金平糖の降る道が中継されていて雨合羽を被ったアナウンサーが興奮気味に喋っている。どうやら金平糖が降っているのは、楠市だけらしい。

 朝ごはんも食べないで、私は家を飛び出した。誰の仕業かは分かっている。傘もささずに金平糖の雨の中を走って、バスに飛び乗った。他の乗客たちも忙しなく言葉を交わし、窓の外の写真や動画を撮っている。やきもきしながら私も外を見つめる。金平糖の降る街。

 いつもの図書館前でバスを降りて、わかば公園に向けて走った。すれ違う人たちは、傘をさしながら変な顔をして空を見上げている。

 交差点を渡って息を切らしながら公園の敷地に入り、一目散に芝生の広場に駆け込んだ。

 東屋の前に、傘をささない彼の後ろ姿があった。

 彼の足元で私に気付いた猫が、こっちを見て鳴き声を上げる。ぷちを見下ろした旭も、私の方を向いた。

「旭!」おはようも言えないまま、私は大声で彼を呼ぶ。そばに駆け寄ってやっと足を止めても、荒い呼吸からは半端な疑問しか絞り出せない。「この雨……」

「たまにはええやろ」

「……旭が、やったの?」やっと呼吸を落ち着けながら、彼を見上げた。

「せやで」

「でも、どうやって」

「前に言うたやろ、俺は雨を操れるんや」

「操るって、でも……これ、雨じゃないよ」

「水やないってだけや。……ああ、雨は水が降ることを言うんやな。それなら、俺は降るものも操れるんや」

 そんなのあり得ない。混乱する私の目の前で、今も金平糖はころころと芝生の上に降り落ちる。小さな可愛い星の粒。色とりどりの星の欠片。

「綺麗やろ」

 そして旭が笑った。ぷちが彼の足元で、芝生の金平糖を前足でつつく。空を見ると、流れ星が降り注いでいるみたい。

「……うん!」私は大きく頷いた。「すっごく綺麗!」

 私は昨日、ひどく落ち込んでいた。あの時、旭は金平糖を降らせることを決めたに違いない。

 奇妙で不思議な旭の力。誰にも真似することのできない、とっても素敵な奇跡。

「ありがとう、旭」

「別に、礼言われるようなことやないよ」

「言いたいんだから、いいでしょ?」

 にゃーと声が聞こえて、周りを見渡す。芝生を囲む雑木林から、十匹近くの猫が走ってきていた。黒、白、三毛猫。様々な毛色の猫たちが、私たちの元に駆け寄ってお座りする。昨日見た野良猫たちだ。

「おまえらも、ありがとうな」

 東屋に一度引っ込んで、旭はビニール袋を下げて戻ってきた。芝生にしゃがんで、中から猫のおやつを取り出す。紙皿を二枚置いて、その上に猫缶の中身やペースト状のおやつをたっぷり乗せた。猫たちは近づいてにおいを嗅いでいたけど、一匹が口にすると、たちまちみんなで美味しそうに頬張り始めた。

「こら、ぷち。おまえのやないで」

 ちゃっかり隙間に潜り込もうとするぷちを、旭が自分のそばに戻す。ぷちはにゃあにゃあ鳴いて抗議するから、別に取り出した一本のおやつを自分の指に乗せて、彼は舐めさせてあげた。涎を垂らして見ているだけのぷちの姿はあまりに可哀想だ。「ちゃっかりしとるなあ」と旭は苦笑いした。

 私は手のひらを空に向けて差し出す。ころんと桜色の金平糖が転がる。

「なあ……」猫たちが食べ終わった紙皿をゴミ箱に捨ててから、旭が言った。その足元ではぷちが前足をぺろぺろ舐めて、猫たちは思い思いにくつろぎながら、金平糖を興味深そうに転がしている。

「付き合うてくれへん?」

「いいよ。今度はどこに行くの」

「いや、そういう意味やないんやけど……」

 言い淀む旭は、困った顔を見せる。

「嫌っていうか、無理やったら全然断ってくれてかまへんのやけど。梓が前に勘違いした意味や」

 それを聞いて、過去のことを思いだした途端、私の心臓はみるみる激しく脈打ち始めた。私が勘違いした意味っていうのは……。

「それって、本気……?」

「嘘でこんなこと言わへんよ」

「……」

 黙ってしまった私を見て、旭は笑う。ごめんって、謝る。

「調子に乗ってしもたな。ほんま、ごめん」

「……いいよ」

 囁くと、彼はきょとんとする。その彼を見て、私もずっと言いたかった台詞を言う。

「私も、誰かと付き合うなら、旭がいい。……っていうか、旭じゃないと嫌だ」

 ずっと誤魔化してきたけど、自分が旭を好きだっていう気持ちに、私はとっくに気付いていた。だけどやっぱり、口にするのは恥ずかしくて死にそうだ。体温が急上昇して、心臓がばくばく鳴って、顔が真っ赤になるのが分かる。

「すまん、気い遣わせて……」

「違うよ、違う。そんなんじゃない。私、旭が好きなんだ。だから、もっと一緒にいたい。いろんなこと教えて欲しい」

 目を丸くする彼の姿を見られない。彼は自分から切り出したくせに、「でも」なんて言い淀む。

「俺とおっても、ええことがあるとは限らんで。むしろ、嫌なことの方が多いと思う。やから、俺は誰とも付き合うたりでけへんとずっと思っとった」

「なら、どうして今言ったの?」

「それは……」彼の表情が歪む。失言を悔いているようなその顔が、とても悲しい。「それでも、言いたいと思てしもたんや。梓は、他の誰かと一緒におる方がずっとええと分かっとるのに……」

「そんな顔しないでよ!」そう言う私の顔も、泣きそうになっていたと思う。「私は、他の誰よりも旭といるのがいいの。全部わかってて、旭がいいって言ってるの!」

「せやけど……」

 言いかけた彼は、私の顔を見てはっとした。既に、私の目尻には涙が滲んでいた。旭の気持ちを知った嬉しさの涙なのか、彼が躊躇うための悲しみの涙なのか、自分でもわからない。悔しさとか幸福感とか、様々な感情がごちゃまぜになって、その塊が形になったのが涙だった。

「……絶対、裏切らんから。まともに生きられるよう、頑張るから」

 彼の声も震えている。過去を苛み現状に苦しむ彼は、それでも未来を望んで見つめている。強くて儚くて、優しい男の子。

 そんな旭が、私は大好きだ。

「梓、俺と付き合ってくれ」

 私は大きく頷く。

「これからも、よろしくね」

 金平糖が降る街で、私たちは笑い合う。やっと手を繋げた、お互いを見つけ合えた。そんな気がして、幸せに涙が零れ落ちた。

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