17
八月十六日の水曜日、午前九時に楠駅で旭と待ち合わせた。駅前の広場には有名な時計台があって、今も待ち合わせらしき人たちが立っている。時計台には一時間ごとにチャイムが鳴って、文字盤下の電光掲示板に、楠市のオリジナルキャラクターが表れる仕掛けがある。今まさに九時ちょうどのチャイムが鳴って、「熱中症に気をつけて、こまめに水分をとろう!」とキャラクターの吹き出しの中に注意喚起の文言が浮かぶ。楠にちなんで木に手足が生えた姿は正直微妙だけど、キモかわいいの概念からそれなりにグッズは展開されている。
私と会うと、旭はさっさと移動を始めた。まだ人の少ない大通りを辿って、駅前を離れていく。楠市で一番栄えている街だから、家の近所では見ないお洒落なカフェやレストラン、洋服屋が目を奪う。ただそれには一瞥もくれず、五分ぐらい歩いたところで、彼はどこにでもある安い喫茶店に入った。お洒落さはないけど、お財布事情を考えると妥当な場所だった。
同じアイスティーを頼んで、二階の窓に面したカウンター席に座った。窓からは店の出入り口に面した通りが見え、向こうの方には七月に訪れたニューシティ・楠の建物の頭が見える。
「しばらく待つぞ」
一時間は長い気がしたけど、確実に相手と鉢合わせない時間を考えると仕方ない。気付かないうちに顔を見られて逃げられたらお終いだから。
「ここで鉢合わせるとか、ないかな」
「そんな律儀に時間前に来たりせんやろ。可能性はゼロやないけど、店もようあるし会われへんよ」
たわい無い話をしたり、持ってきた文庫本を読んでいると、あっという間に時間は過ぎていった。
おもむろにお店を出て、旭は道端でスマホの電話機能を立ち上げつつ、時間を確認する。十時ちょうどまで、あと二十秒。
それが残り五秒を切った時、彼は画面をタップした。そばで耳を澄ますと、呼び出し音が聞こえてくる。
僅か二コールで繋がった。その向こうから時計台のチャイムの音が流れてくる。「もしもし」相手の確認もなく即座に向こうから切り出してきた。「あんた、ほんとに来てんの?」
「あのー、すいません、サトウさんですよね」すぐさま旭は話し方を変えた。「もしかして、もう駅前着いちゃってます?」
「なに、遅れるとか言わないよね」
「遅れるっていうか……十二時間後にまた来てくれませんか」
「はあ?」
「もしかして勘違いさせちゃったかと思って電話したんですけど、午後の十時って言ったつもりで。つまり、二十二時」
「おまえふざけんなよ!」
当然相手は激昂して、旭はスマホのボリュームを一段階落とす。高校生が遊びに行く時間だと聞いて、午前の方だと思うのは当然だけど、確かに旭は午前とも午後とも言わなかった。
「まさか俺に出直して来いとか言わないよね」
「悪いんですけど、そのまさかで」
「悪いと思ってんなら早く来いよ!」
「いや、外せない用事があって」
「舐めてんだろお前、バカにしやがって!」早口で怒鳴りつける。「ただじゃおかねえからな!」
ぷつりと通話が切れた。怒るのは仕方ないけど、電話を切ってしまえば向こうから連絡は出来なくなる。腹が立つと思考が回らなくなるタイプらしい。もしくは、写真などどうでも良くなったのか。
これからどうするの。そう言おうとした私は、駅の方角から一匹の三毛猫が走ってくるのに気が付いた。軽快な動きで、一目散に旭の元にやって来る。
「行くぞ、急げ」
そして猫はもと来た道を再び走り出し、旭はその後を追いかける。慌てて私もついて行く。何ごとかと周りの人が振り返るのが少し恥ずかしい。
三毛猫は、横断歩道を渡った先にいた白猫に駆け寄り、そして二匹とも駅に向かって走って行く。私も理解した。旭は駅周辺の野良猫たちに、お願いしていたんだ。恐らく、時計台で午前十時のチャイムが鳴った時に、駅前でスマホを出して電話を始めた男の人を探してくれって。そして、それらしき人物を見つけた猫の一匹が、旭の元に知らせに来た。
気付けば、今も見張っている猫たちと合流して、既に五匹の猫が私たちを先導していた。
最後に合流したハチワレ猫が、足を止めて旭を見上げてにゃおんと鳴いた。「あれやな」彼は納得しているが、駅前は無数の人が行き交っていて、私にはよくわからない。いつの間にか、十匹近くの猫が旭の足元にお座りして、金や青や緑の瞳で彼をじっと見上げていた。
「ありがとうな。ほんまに助かったわ。後でお礼するから、今日はここでお開きにしてくれ」
旭が言うと猫たちは散り散りになり、あっという間に街の景色に混ざっていく。それを見届けて歩き出す彼の横に並んだ。
「あいつや。ジーパンに青いポロシャツの、だっさいおっさんや」悪意を隠そうともしない。「尾けるで」
「まさか、家まで行くの」
「そうなるやろな。逃げられへんようにしたる」
サトウというのは、旭の言う格好をした、痩せぎすの人だった。大人の年齢が私には上手く推測できないけど、兄や美澄さんより年上なのは間違いない。三十代半ば、とか。夏だというのに陽に焼けていない肌が、不健康さを際立たせている。
適度に距離を保って、私たちはバレないようについて行く。エキナカのお店にでも寄るかと思ったけど、相手は真っ直ぐ改札をくぐった。私たちも数人分空けて、自動改札機に交通系ICカードをタッチする。日曜の午前十時、楠駅のホームはそれなりに混んでいて、やって来た電車の隣の車両に乗った。降りるのを見逃さないか戦々恐々としていたけど、僅か二駅で車両から降りるのが見えたから、私たちも他の乗客の後に続いてホームに立った。
そこは名前だけを知っている町の駅だった。特に有名な施設もない、どこにでもある住宅街。十分に距離を取って、見失わないように気を付けて、私たちは尾行を続ける。
途中でコンビニに立ち寄り、数分後にビニール袋を手に提げて出てくる姿がカーブミラーに映った。つかず離れずの状態が二十分ぐらい続いた頃、相手は角を曲がって一軒のアパートの敷地に入っていった。
回り込んで、建物のドアが並ぶ面を見上げる。三階建てのアパートは、向かって東側にエレベーターホールがあり、真っ直ぐ伸びる廊下に沿って等間隔に四つの部屋が並んでいた。すぐにその人は二階の廊下に現れて、エレベーター側から二つ目の部屋に入っていった。
私たちはアパートに近づく。建物は少し盛り上げた土地の上にあって、高い塀に囲まれているおかげで乗り越えるのは不可能だった。だけど一階のドアの天辺は敷地の外からでも見えて、掲示された部屋番号が確認できた。一階は東側、つまりエレベーター側から「101」「102」と続いている。
「あの人の部屋、202だね」
「そうやな。これで逃げられへんで」
旭がにやりと笑って、塀に沿って歩き出す。私は慌ててついて行く。角を曲がった建物の側面部にはゴミ捨て場があって、ビニール袋が数個転がっていた。カラスにでもつつかれたのか一つは破れていて、中のチラシやお惣菜の容器が地面に散らばっている。
「もしかして、部屋まで行くの?」
「ここまで来たら、そうするしかないやろ」
「流石にやめときなって」
「なんでや」旭が振り返る。「ええ機会やん、今なら部屋に居るんがわかっとるし」
「だって……」
「梓やって、腹立つし気にもなるやろ。これですっきり寝られるんやで」
「そうは言っても」
口ごもる私に、「わかっとる」と彼は言った。
「そら危ないかもしれんけど、大丈夫や。俺はそう簡単にやられへん。ちょっとぐらいやり返さんと、俺の気がすまんだけや」
それでも頷かない私に、彼は宥めるような口調で続ける。
「すまんな、やからここで待っといてくれ。俺が動機もなんもかも聞いてきたる」
はっとして、私は「やだ」と口走っていた。旭を止められないまま、ここまで来て外で指を咥えて見ているだけなんて。そんなの嫌だ。
「私も行く。どんな言い訳するのか、私もこの目で見る」
「待っといてくれてええって」
「旭が行くなら、私も行く」
知らない男の人の部屋に乗り込むなんて、正直言って怖い。だけど旭ならなんとかしてくれる。彼が味方なら、全て無事に解決する。そう思って見つめると、彼は苦笑して頷いた。
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