第8話 帰路
「今更だけど、本当に……いいのかしら」
電車を降りたあと、僕らは暗い夜道を歩いてアパートを目指していた。大きい街ではないから、駅からひとたび離れれば、夜道にはおどろおどろしい雰囲気が漂っている。
「……いいのかしら、って何がですか?」
「霧島くんの部屋に住まわせてもらうこと……本当にいいのかどうか、疑問に思う私が居るの」
手を繋ぎながら歩いていると、会長がうつむき加減にそう言った。
「よくよく考えてみれば……やっぱり迷惑を掛けてしまいそうだし、やめた方がいいんじゃないかって思ってしまって……」
「気にしなくていいですよ」
僕はすかさずそう告げる。
「会長になら、幾らでも迷惑掛けられて構いませんし」
会長には行く宛てがない。
実家には血の繋がらない娘を性的な目で見ている父親が居るし、友達はもう頼ったあとだし、ネカフェなどで暮らそうにも経済的に苦しいし、そもそも体力面や精神面を鑑みてもネカフェ暮らしなんてやめた方がいい。
「遠慮しないでくださいよ。会長の支えになれるならって考えて、僕は死ぬのをやめたんですから」
柚季みたいな存在のために命を粗末にするのはやめた。
そんなことをするくらいなら会長を支えてあげたい。
日常への帰還を選択したのは、それが理由だ。
「ありがとう……でも本当に色々と、迷惑を掛けてしまうはずだわ……入り用なモノも出てくるでしょうし」
「でも着替えとかは持ってるわけですよね? さっきロッカーから取り出してましたし」
会長は友達の家やネカフェを転々としていた際の荷物を、地元駅のロッカーに預けて自殺オフに来ていたらしい。で、さっきそれを回収しているから、勉強道具や着替えはきちんと持っていることになる。
「確かに食器とかは買い足さないとダメですけど、そんなの100円ショップで揃えられますからね」
そう考えると、多少入り用なモノが増えても問題ないはずだった。
「とにかく、遠慮しないでください。僕んちは角部屋ですし、隣が空き部屋ってこともあって音の気遣いも最低限で大丈夫ですし、気楽に過ごして欲しいです」
「ホント……優しいのね」
会長は僕を見て小さく笑いながら、その綺麗な瞳をうっすらと潤ませていた。
「こんなに甲斐甲斐しい彼氏が居ながら、大崎さんは浮気をしたのよね……まったく本当に、意味が分からないわ」
「僕にも分からないですよ……」
……僕の何が、ダメだったのか。
そもそも僕はダメだったんだろうか……。
僕に非はなくて、火遊び感覚で浮気をされてしまっただけなんじゃないか……?
いずれにしても……僕はもう柚季とは向き合えない。
たとえ浮気を認めて謝られたとしても、もう無理だ。
興が――醒めている。
「……ねえ霧島くん」
そう考えていると、繋ぎ合っている手のひらに、会長が緩やかに力を込めてきたのが分かった。僕を慮るような眼差しと共に、会長の言葉が続けられる。
「もう……大崎さんへの熱というか、愛情というか……そういうのは残っていない、という認識でいいのかしら?」
「それは、はい……あとはもう、あいつにどう対処していこうか、って話なので……」
「そうなのね……なら――」
そう言って僕に何かを伝えようとして、しかし会長は言い淀んでいる。うつむいて、けれど意を決したように顔を上げると、僕を慈しむような気配と共に言葉は紡がれた。
「――私ね……奪いたいの」
「……奪いたい?」
「あなたを……大崎さんから」
「え」
遠い世界の、戦争の話でも聞かされたようだった……。
僕は今……なんて言われた?
「いきなり……変なことを言ってごめんなさい」
やや混乱している僕に対して、会長は照れ臭そうな表情と共に言葉を続けてくる。
「でもね、冗談で言ったわけじゃないわ……私、霧島くんのことが好きよ?」
「――っ……」
「元々、良いなって思っていた部分があって……」
ウソだろ……待ってくれ……。
「真面目に仕事をこなしてくれるし、対処も早いし、静かな性格も好ましくて……ずっと、ひそかに、素敵だなって思っていたわ。……生徒会以外の場でたまに霧島くんを見かけたりすると、ついつい目で追いかけてしまったりね……」
会長が……、僕をそんな風に……?
……ウソだろ?
成績優秀にして品行方正。
男子の憧れにして女子のお手本。
学校で一番支持を集めて生徒会長にもなったこの完璧女子が、僕に好意を……?
「……か、からかってます?」
「ううん。冗談じゃないって言ったでしょう?」
繋がれた手に再び力が込められる。
想いと熱を伝えるかのような所作に、僕はどぎまぎしてしまう。
「昨日まではまだあくまで……ちょっと気になっている男の子、という感じだったけど、それが今日……決定的に変えられてしまったの」
向けられる瞳は目に見えて熱を帯び、頬は上気していた。
色香漂う会長の言葉が続けられる。
「死んで欲しくないって言ってもらえて、嬉しかった……私の事情を知ってもなお手を差し伸べてくれたことも、本当に嬉しかった……これまでにも増して、今日の霧島くんは魅力的な異性だったわ。だから……――私は霧島くんのことが欲しくなってしまったの」
決定的な言葉を告げられて、心臓はもはや早鐘の如く。
落ち着かなくて、けれど嬉しくて。
とてもじゃないが、平常心を保ってはいられない。
「浮気するような女性なんて、霧島くんにふさわしくない……かといって私がふさわしいだなんておこがましいことを言うつもりもないわ……だけど」
ゾッとするほど綺麗な眼差しが僕を捉えて離さない。魅了の魔法にでも掛かったかのように、延々と目を惹かれてしまうそんな中で、
「もし、霧島くんを大崎さんから奪わせてもらえるなら……私は大崎さんなんかよりもずっと、ずっと、絶対に裏切らないまま生涯が閉じるまで、霧島くんを好きでいられる自信があるわ」
「……っ――」
柚季の裏切りで傷付いていた心に……その言葉は効いた。
今もっとも欲しかった言葉がもたらされ、僕は図らずも打ち震える。
自然と頬を伝うモノがあって、お前今日何回泣いてんだって呆れられてもしょうがないけど、この感情にウソはつけなくて。
自分で思っていたよりもだいぶ……僕の心にはぽっかりと大穴が空いていたのかもしれない。
だからそれを埋めてくれる会長の言葉が、本当にたまらなく嬉しかったんだ……。
見れば、会長もまた貰い泣きでもするように瞳を潤ませていた。けれど嬉しそうに、喜ぶかのようにハンカチを取り出して、僕の目元をぬぐう余裕があるようだった。
そんな中で僕らにはもう……言葉なんて要らなかった。
数分後には帰り着いた2階建てのアパート――その2階の角部屋、1K8畳の一室で、僕らはお互いに身を寄せ合い、抱き締め合って、唇を触れ合わせていた。
帰宅後の余韻とか、これからについての詳細な話し合いとか、今はまずどうでもよくて――
僕らはとにかくお互いを欲して、満たし合う。
これからの日々を少しでも、わずかにでも、ささやかにでもいいから幸せなモノにしようと誓いながら――
重ね合った身体から癒やしを貰って、僕は絶対に忘れようのない特別な時間を……この夜は過ごしたのである。
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