第19話 1989年12月8日 黒崎の苦悩

 いとぐちは、かすかな期待を抱いていた方面からもたらされた。その緒とは「大光輪」の若手幹部の一人、黒崎がこの日、僕を指名してかけて来た一本の電話であった。


 「大光輪」の教祖と上層部数名が殺人の疑いで逮捕されたことは連日のマスコミ報道で「ホット」な話題になっていた。2025年の世界なら「バズる」という表現になったに違いない。

 すぐに信者の家族を中心とした「被害者家族の会」が結成され、そこを含めた各所から持ち込まれる情報で担当部署はてんてこまいとなった。そのため対策本部は増強され、本部は蒲田署から警視庁本部へと移されることに決まった。蒲田署の署長はほっとしたことだろう。蒲田署は大きな署であるが、一介の署が抱えるには事件の幅が大きすぎることは明白であった。

 信者の誘拐・拉致容疑、お布施を初めとする献金に関わる経済的事案、行方不明者に関する殺人の疑い、さまざまな情報がもたらされ、警視庁や関東管区警察局の範囲に留まらず日本中に広がっていた。鎌田さんは本事案に関して警察庁刑事局・警備局の二つを実質的に管理下に置き、警視庁を初めとする各都道府県警察及び管区警察局を取り纏める事になった。上層部からは僕も同時に鎌田さんを支援する形で駆り出す意向があったらしいが、鎌田さんはやんわりと拒絶した。

 おかげで僕は何人かの部下と共に「警察内部に存在する敵」、ディープスロートとでも呼ぶべき対象者の捜査を続けられることになった。だが、その極秘性のために表だって動けず、加治屋議員からの協力も思うに任せないまま、捜査は困難を極めていた。

 そんな時に掛ってきた黒崎からの電話である。意図が分からないまでも、わらすがる思いで僕は彼と会うことにした。

 場所は警察庁の目と鼻の先と言っても良い、日比谷公園。その奥側のひっそりとした一角で黒崎は僕を待っていた。黒いタートルネックのセーターに皮のジャンパー、濃いサングラスを掛けた姿は、以前ホテルで会った時の好青年といった姿からは見違えたが、声は黒崎特有の少し高く、甘ったるい響きのままであった。

「すいませんね、こんなところで」

 指定された場所は、園内にある唯一のレストランの側の木のベンチだった。黒崎は素早くあたりに視線を巡らすと、ぼそりと言った。

「いや、大丈夫ですよ」

 万一のために三人だけ人員を割いて見張らせている。年齢も性別も見せかけも異なるその三人は50メートルほど距離を取った場所に散策者や浮浪者のふりをして、不自然にならないような形で時折こちらに視線を送ってきている筈だ。よほどのことがない限り近寄るなと指示してある。「よほどのこと」とは銃声・拉致らちなどの気配でいざというときは怒声を揚げると明示してあるから、恐らく彼らが近寄ることはない。その言葉に頷くと、

「とんだ状況になっていますよ、おかげさまで」

 黒崎はぼやいた。

「こちらの責任ではないですが・・・」

 僕は返した。

「そうですね。確かに彼らはやり過ぎた」

 彼ら・・・という言葉に僕は視線を黒崎にやった。その「彼ら」には司馬も入っている筈だ。なのに「彼ら」という突き放した表現を使ったからだ。

「困っています。このままでは教団がもたない」

「自業自得じゃないですかね」

 素っ気ない言葉のようだが本心でもある。黒崎は傷つけられたような目で僕の方を見たが視線を落したが、話し続けた。

「確かに。しかし宗教団体というのは一部の人間のものではないのです。本当に悩んで教団に入り、救われた人だってたくさんいる」

 黒崎は自分に言い聞かせるように言葉を紡いだ。

「たくさんの財産を寄付させられた結果・・・ではないのですか?」

 僕の問いに、

「確かに何らかの寄付は常に存在した。そうでないと宗教団体は維持できないのです。多少、やり過ぎのケースもあったかも知れませんが、その見返りに人生を救われたと感謝している人だって数多くいる」

 そういうと、黒崎は視線を上げた。その視線の先、僕の背後には大きな銀杏いちょうの木がそびえている。

「でかい木ですね」

 突然話題を変えた黒崎に

「首掛け銀杏ですね」

 振り向きもせずに僕が答えると黒崎は驚いたように

「銀杏に名前があるのですか?」

 と尋ねてきた。

「日比谷公園を作るときに伐採ばっさいされそうになったのを、設計者が首を掛けても、といって移植させた木だそうです」

「ああ、そうなんですか。なんだか・・・、首掛けと聞いて江戸時代に処刑された首を銀杏に掛けていたのかと思った。由来を知らないと物騒な名前、ですね」

「確かに。しかしあの時代、処刑が行われたのは小塚原とか鈴ヶ森です。ここは江戸の中心、昔の言葉ではお膝元でしたからさすがに・・・」

「そうですか、ここは江戸城に近いですものね」

 黒崎は頷いた。

「昔は毛利藩の屋敷が在ったそうです」

「なるほど、確かにそんな所で首を掛けておくようなことはしないでしょうね」

 自分の言葉がどこか、司馬とその側近たちの行き先を暗示していることに気づいたのか、或いは単に寒さのせいか、黒崎は軽く身震いをしてから、話題を元に戻した。

「西尾さん、国はわれわれを潰すつもりですか?」

「潰す、というのは目的でありません。ただもし、大光輪による犯罪が行われていたならそれをきちんとあばき、司法に委ねるのが私たちの仕事です」

 紋切り型の答えに黒崎は首を傾げただけで、歌うように言葉を続けた。

「国がわれわれを滅ぼそうとときが来るかもしれない、イエスがヘロデに迫害されたように。その時は闘わねばならない、と司馬は最近よく口にしていました」

 僕は発言の意図を図りかねて黒崎を見つめた。そんな事を口に出して彼らにとっていいことなど一つもない。

「だけど、僕は正直言って国と対立することが宗教の趣旨ではない、と考えています。教祖だってもともとは魂を救うために活動していたんです」

 国と闘うのは司馬という個人、魂を救うのは教祖という宗教家・・・黒崎が意図的に名詞を使い分けているのか知らないが、なんとなくそんな風に聞こえた。

「善意から始まった活動ならば殺人ということが免責される、などとお考えですか?」

 僕の問いに黒崎は首を振った。

「そう思っているわけではありません」

 「でも」、と黒崎は言って、狼狽うろたえたように僕から視線を切ったままゆっくりと話し続けた。

「宗教団体というのは、例え何があっても信者を裏切ってはいけない。信じた者たちが存在する限りその受け入れ場所であり続けなければならないと思っています。だから例え教祖が逮捕されようと母体を存続させるのが残った我々に課せられた義務だと考えています。それであなたと話したいと考えたのです。赤坂君の話では・・・アメリカでは司法取引、というのがあるそうですね」

 彼の視線の先は再び首掛け銀杏に向かっていた。

「犯罪を認める代わりに、罰条ばつじょうを軽くする制度のことですか?」

 僕の問い掛けに黒崎は、はい、と答えた。

「ええ」

「日本にはその制度はありません」

 僕の指摘に黒崎はゆっくりと頷いた。

「そうらしいですね。ところで司法取引には類型があるそうですね。なんていったか、審理の時間を節約するための・・・」

自己負罪型じこふざいがたの取引ですね。アメリカにおける司法取引の実態は殆どがその取引です。」

「けれど、その他に・・・情報提供型というのもあるそうではないですか」

 黒崎は、か細い声を出した。

「その通りですが・・・」

 自己負罪型の司法取引というのは罪を認めることによって刑を軽くする取引で、これがないと犯罪の多発するアメリカでは裁判の長期化によって裁判所がパンクする恐れがある。だが、この取引が存在する事が情報提供型の司法取引を成立させるきっかけにもなった。情報提供型の取引とは「他者の重要な犯罪事実を提供することによって自らの罰条を軽くする取引」であり、根本的に自己負罪型の司法取引と異なる性格を持っている。罪の免除される幅も格段に大きい。

 自己負罪型の取引が裁判という制度の負荷を軽くする物であるのに対し、情報提供型の取引とは捜査の負担を軽くする制度で、実態としては取引を承諾した主に検察が起訴の有無、或いは起訴したとしても情報に基づく不利益を提供者に負わせないことで実質的に罰条を軽くするという形で運用される。

 しかし・・・この男は何を話そうとしているのだろう?言ったとおり、日本の裁判では司法取引はいずれの類型も認められていないのである。刑事訴訟法の改正による司法取引擬しほうとりひきもどきは将来成立するが、その場合でもこのケースにおいては使えない。

 「もし・・・我々が重要な情報を捜査機関に与えたら、その・・・団体としての宗教法人を維持することにできませんかね」

「え?」

 思ってもみない提案だった。

 確かに司法取引と似た形である。だが、裁判での取引は認められていないが、法人を維持するというのは警察や検察の管轄外にある話であり、正確には「司法取引」ではない。前にも書いた通りそれは、都の生活文化局が文化庁の管理下で行う業務である。彼の提案は「情報提供をする代わりに何らかの方策で東京都に宗教団体を維持することを認めさせられないか」という提案なのだ。

 「警察あるいは検察の立場で言えば、その重要な情報、というのは逮捕することによって犯人に自白して貰うという流れが正常です。或いはあなたのように逮捕されていない場合は証言という形で受け取る形になる。それに対する対価はない」

 僕の言葉に

「そうですよね。でも、そうなれば意地のぶつかり合いになるじゃないですか。そもそも、その重要な情報というのが何か、ということさえあなたたちは知らないんですから」

 黒崎は淡々と語った。その淡々とした言い方は却って説得力があった。

「ふむ・・・」

 僕は視線を彼から逸らした。彼の持っている情報が何か、に強い興味があった。司馬と殺人を犯した人間たちは既に逮捕されている。その起訴という点では、既にかなりの証拠と自白が集まっており、新たな情報がなくても起訴まで持って行けることは確実だった。情報は起訴を確実なものにし、裁判を有利に運ぶことには寄与するだろうが、あえて何かの取引材料にするほどのものではない。

 だが・・・もし彼が団体と関係を持っている警察内部の情報を持っているとすれば、話は少し変わる。

 もちろん、こちらにもその解決のための手段はないでもない。だが、1つの懸念がある。あくまで警察にとっての懸念だが、「その話」を警察がコントロールできるかどうか、だ。隠匿いんとくするつもりがなくとも、コントロールはしたい。コントロールできない状態でマスコミや検察が関与し世間に漏れるのと、警察がコントロールしながら情報を出すのでは警察組織へのダメージが格段に異なる。いずれ警察には大きなダメージが来る話なのだが、それをいかにミニマイズするかは僕らにとって重大な関心であった。

 警察としては警察内部に巣くう病理の根を「一瞬」で抹殺することが求められる。そうしないと病理は警察の中で暴れ、拡大していく。権力を求めている集団では「病理」は気づいたときに瞬殺しゅんさつしなければいけない。

 警察の中にいる関係者はまたたくまに「大光輪」の犯罪があばかれたのを知って焦っているに違いない。いや、何らかの行動を起こしている可能性も高い。そして、この事件が起きた時点で、加治屋議員を通して何らかの圧力を掛けようとしたことを後悔している可能性もある。その場合、もし我々が既に議員と接触していたことを知れば・・・?場合によっては加治屋議員に対する強硬手段にでないとも限らないのだ。

 それを恐れて鎌田さんはそれとなく議員にガードを掛けようとしたがこれは議員の方から断られた。あれほど周辺を警戒している議員ならばある程度、自衛が可能だと言っていたが、もし外で襲われでもしたら果たして対抗しきれるか、懸念は残っている。

 

 僕は黒崎の表情をぬすみ見た。真摯しんしという言葉を使うとこの場合、おかしいが「必死」であることは疑いなかった。

「それは・・・どのような情報ですか?」

「今は詳しく言う事はできません。そういう取引の可能性があるかどうか、まずお答えを戴きたい」

「私が一存で決められるようなことでないのは承知ですよね?」

 僕は眉をひそめた。

「一存で決められないかも知れませんが、余り猶予もないし、時間が掛った上で駄目でした、という事は困るんです」

 黒崎は言った。

「全く可能性がないとは言いません。ただ、それが司馬やその周りの犯罪を立証するだけのものであれば、我々は十分に情報を持っているのです。取引をするまでもない・・・」

 そう言いかけた僕を遮るように黒崎は

「いや、これはあなたがたの組織にも関連する情報なのです」

 と言葉を挟んだ。

「我々の組織・・・それは警察という事ですか?」

 僕は黒崎に悟られないように驚いた振りをした。

「そうです」

 黒崎は頷いた。

「それはどういうたぐいの?」

「細かい話まではできません。ですが、われわれは宗教団体であり、その信者は各方面にいます。その信者は、政治家、公務員、裁判所、検察、或いはその家族、関係者に及びます」

「なるほど。確かに宗教に帰依きえしているからと言ってそれをもってそうした職場が信者を排除するわけにはいきませんからね」

「その通りです。しかし、その宗教が何らかの犯罪に関わってしまったという烙印らくいんを押された以上・・・」

 そう言うと黒崎は口を噤んだ。

「そうですね。もしもそういう警察官がいたとしたら、それが暴露されたら難しい立場に追い込まれるでしょう」

 僕が助け船を出すと、黒崎は頷いたが、

「但し、それだけではありません」

 と付け加えた。

「と、言うと?」

「それ以上はちょっと・・・。ですがもしこれが何らかの形で漏れたら単に、信者がいたという以上にあなた方の組織にも大きなダメージを与える可能性があります」

 どういう意味なのか・・・・?僕は探るような目を彼に向けたが、彼は黙って僕を見つめ返してきただけだった。

「それは・・・その人間が違法な行為をしているという意味でしょうか?」

 それこそが僕らの懸念の最大の物である。警察の中に信者が存在した、だけなら言い逃れができる。その信者が警察の情報を流した可能性がある、ならば中味次第では秘匿も出来る。しかし、その信者が犯罪を犯したなら・・・。

「それは・・・なんとも。僕は行為の違法性を問う立場にありません。ただ、僕が警察の一員ならばその人間の存在は望ましいとは考えないでしょうね」

 黒崎は「その男が犯罪行為を行った」ことを知っているのだ。

 情報の流出、は恐らく間違えのない事実だ。しかしそれ以上の犯罪がそこにあるのもどうやら間違えがないらしい。公務員、特に警察官は何らかの犯罪に加担した途端、その犯罪をネタに更に深みに沈みこまされる可能性を持っている。「大光輪」は巻山一家殺人の前に既に殺人を犯している。もし、その殺人に警察官が関わっているとしたら、事態は厄介になる。いや巻山一家殺人に万が一にも関わっていたとしたなら・・・。

「彼は物理的な犯罪に関わっているのでしょうか。つまり、傷害とか・・・?」

 「殺人」とまで踏み込みたくなかった。僕の問いに黒崎は首を振った。

「彼・・・は、そうした犯罪に直接関わっているわけではありません」

「薬物とか或いは火器とか?」

 次に厄介なのはこの二つである。宗教に薬物は関わりが深いのは歴史的事実である。そして火器は日本では自衛隊と警察しか基本的に所持が許されていないために、もしその流出が発生した場合批判は大きくなる。

「いえ・・・」

 黒崎は即座に否定した。

「そうですか」

「となると、大光輪に関わってなんらかの内部情報を流している、というところでしょうか」

 僕の問いに黒崎は否定とも肯定とも取れる微笑を浮かべた。内部情報を流しているだけならばその中味によっては言い逃れる余地がある。だが、そこに対価が存在し、その対価が「カネ」であれば明らかな犯罪を形成する。

「その・・・話は裏付けがあるのですか?」

「証拠、という意味でしょうか?」

「ええ」

「そうですね」

 黒崎は頷いた。

「どのような・・・証拠ですか?」

「それは先ほどのお答えを戴いてから詳しくお教えしましょう。ただ、言えることは間違えなく相手を追い詰めることの出来るくらい力のある証拠です」

「そうですか」

「いかがでしょう?」

「お話しは良く分りましたが、僕は一存で決められるような話ではありませんね」

「分かっております。ここですぐ取引を決められるようでしたら、却って私も西尾さんを信じることは出来なかったでしょう」

「しかし・・・もしあなたがそんなことをしてしまったら教団を売るという事になりませんか?」

「そうかもしれません」

 そう言った黒崎の表情に苦悩が滲み出た。

「正直なところ悩みました。我々の宗教は司馬という人物によって作られ、彼によって支えられている。それは厳然とした事実です。彼が犯罪を犯したということで教団内には動揺が広がりました。とはいえ、離脱した人間が多いかといえばそれほどではありません。国が断罪しようと、信仰心を持っている人間は心の底ではそれを信じない。宗教という物はそういうものです。キリストの磔刑、日蓮の法難・・・多くの宗教は政治と対立してきました。当然です。政治によって救われなかった者が宗教に縋って救われる、それが宗教の本質なのですから」

「・・・」

 僕は黙ったまま彼の話を聞いた。ならば彼の取引の先が「団体の存続」で「教祖の解放」でないのは何故なのか?僕の沈黙にその意味を黒崎自身が悟ったのだろう。

「もちろん、それも考えましたが・・・それでは恐らく取引は成立しないでしょう」

 彼はなんともいえない表情を作った。それは彼が盲目の信者でない、ということを示していた。この教育が進んだ社会に於いても「盲目の信者」というものは存在する。どんなに教育を与えたとしても、それは変わらない。世の中には「自分の信じたいことしか信じない」人間は山ほどいるのだ。

 そして宗教というのは「その盲目の信者」を基盤にして、時には彼らを搾取し、時には彼らを救う、そうしたものである。その「救う」面を見て信者になったものたちの中には宗教の「別の面」を見て、離脱するもの、そして「それを宗教存続のための必要悪」と考える者などに分かれていく。黒崎は「司馬の信者」というより「人々を救った大光輪という存在」の信者なのだろう。珍しいパターンだが、そういう思考をする人間は宗教を信じる者の中にはいる。というより、本来、この時代に置いて「盲目の信者」というのは本来、存在してはいけないものなのだ。だが黒崎はそういう信者が現に存在しており、彼らを救う何かが必要だと考えている。

「僕としても教祖を助けたい気持ちはあります。しかし、それを主張して妥協できなければ大光輪は解散せざるを得ない。それでも宗教として残す道はあります。だが、団体の解散ということは今の社会においては「否定」という烙印なのです。否定されたものが逃げ込んだ場が更に「否定」される。その先にはなにがあるのでしょう?さっきも言ったとおり司馬天命の存在の有無に拘わらず、その教義によって救われているそういう人々も中にはいるのです。そう言う場を残す、そういう事も必要なのです」

 お題目と言えばお題目にすぎない。しかし、「否定」ということばには何かしらの意味があるのだ。世の中に存在の「否定」があるからこそ、逃げ場が必要だという考え方は一理ある。それを幾ら潰しても、そこに「行こう」とする人間はいる。「潰す」というのは「そうした人間を潰す」という事でしか解決しないのだが・・・。

「余り期待せずにいてください」

 僕はできるだけ素っ気なく黒崎に答えた。

「いずれにしろ僕の一存でなんとかなるような話ではありません。というより可能性はかなり低いというのが僕の見立てです。とりあえずこの場で拒絶はしませんが・・・」

 それでも黒崎は一縷いちるの希望を見出したかのような目をした。赤坂に、即刻却下される、と言われたに違いない。

 ただこれ以上話しても仕方が無い。僕は「最後に聴きたいことがある」と黒崎に質した。

「あなた自身は、本当に巻山一家殺人に関わりは無いのですか?」

 黒崎は神妙な様子で答えた。

「直接的な関わり、という意味ではありません。巻山をなんとかしなければ例えばポア、という話が出たとき、僕は一切関わりたくないと教祖に伝えました。それはどう考えても彼を殺害する、という意味にしか聞こえなかった。教義では成仏のことをポアと言うのです。教祖は不機嫌になりましたが、僕は無視しました。もし、教祖が捕まらずにいたら、僕は教団内で何らかのペナルティを受けることになったかも知れません。とはいえ僕は彼らが犯罪を犯したかどうかという事実は知りません。でも犯さなかったという事を主張することもできない。だがもし彼らが犯罪を犯したならば、そして話を聞いた上で阻止しなかったのが罪になるというなら・・・僕は罪を犯したといえるでしょう。それは覚悟しています。」

 この男は司馬や教団幹部が罪を犯したと言っているのだ。そしてそれを止めなかった事に自分の罪を認めてさえ居る。

 僕は彼の目を見た。覚悟を決めたような視線であった。僕は

「分かりました。いずれにしろ、この話は持ち帰って上司と相談してみます。それに、もちろん警察単独で決められる話でもありません。正直言って、非常に難しくセンシティブな話になります。警察内部だけで決められる話より遙かに難しい」

 と言った。その言葉に黒崎は頷いた。

「分かっています。ですが、僕らも窮地に立たされています。なるべく早く答えを戴きたい。僕らが窮地にいるだけではなく、僕個人も窮地に立たされる。教団は崩壊するかもしれない。崩壊することによってより危険がますかもしれません」

 黒崎は半ば脅すように言った。かといってその脅しに安易にのるわけにはいかない。

「なるべく早く・・・とは?」

 僕は尋ねた。

「年内には」

「年内・・・」

 年内と言えばいかにも長い話のように聞こえるが、春先に年内と言っているわけではない。12月ももうすぐ半分過ぎようとしているのだ。残り一ヶ月もない。それも年末、あと半月もすれば、警察はともかく東京都などの行政機関は休みに入ってしまう。また、この件は東京都だけで済む話とは限らない。宗教法人の管轄は最終的に文部省、実質的には文化庁に委ねられておりそことも調整が必要になるのだ。

「それはちょっと時間がなさ過ぎる」

 僕はうめいてみせた。

「それは分かりますが、時間を掛ければそちらも動きがとりにくくなるでしょう。世間の壁はだんだんと高くなる」

 黒崎は冷静な口調で答えた。

「動きが取れなくなれば僕らも別の覚悟を決めなければならなくなる」

「・・・」

 確かに、既にマスコミは「大光輪」に関してキャンペーンを張っているような騒ぎ方をしつつある。信者の家庭にインタビューに出向き、脱退した信者から話を聞き、行方不明になった信者を割り出して、その行方を追っている。そういう話が広がれば広がるほど、「宗教法人格」を剥奪はくだつすべきだという議論は大きくなるに違いない。その歯車が動き始めてしまえば、止めることは難しくなるだろう。だが、この事件に現職警察官が巻き込まれている以上、コントロールするのはこちら側でなければならない。

「何も、宗教法人格を新規に与えてくれと言う話ではありません。今のまま、維持して欲しいといっているのです。こちらとしても維持のために、将来に亘って団体の体質を改善する用意はある。その点は関係省庁に伝えてくださっても構いません」

 巧妙な言い回しである。行政機関の基本的な体質として「自らのの間違えを糺したくない」という性質がある。なぜなら間違えを認めた途端に何らかの「責任」が発生するからであり、その責任は最終的には「トップ」に波及しかねない。ミスを認めるのは組織全体にとって大きなダメージになるばかりでなく、ミスをした部門にとったへ天地がひっくり返るような問題になるのだ。もちろん、それは警察にも言える話であり、今我々がやっていることは警察にとっても「天地がひっくり返る騒ぎ」になりかねない。警察庁長官がぶれた途端に鎌田さんも僕も木っ端微塵になってしまう、それが官僚の世界である。官僚は保身的だと言われるが、保身的にならなければキャリアの内に五回くらいは爆死しなければならない。

 確か、前の世界での僕の記憶では東京都は「大光輪」に宗教法人格を与える際に脅迫紛いの行動を受けた筈である。だが、脅迫に屈したというのが言い訳になるほど世間は甘くない。寧ろ脅迫に屈するような行政機関であると恥をさらすことになりかねない。今、東京都の関係部門はこの瞬間も固唾かたずを呑んで事態の推移を見守っているに違いない。

「おっしゃることは分かりますが、警察だけで解決できる問題ではありませんし、警察内部でさえ、異論は出るでしょう。それを更に地方自治体や他の省庁とも調整しなければならない。官僚の世界ではそうして作業に時間をコミットすることはなかなかできるものではありません」

 僕の説明に黒崎はにやりとした。

「ですが、政治家がらみの案件でしたら、あなたがたは夜を徹してでも貫徹する、そうではありませんか?」

「そういう場合もあるでしょうが、世間で思われているほど一般的ではありません。ましてこれは政治家がらみの案件でもありません・・・」

「とにかく・・・」

 黒崎は手を小さく振って僕を遮った。

「努力して戴けませんか?それがお互いのためだと思います」

 僕は湧き上がっていた疑問を最後に黒崎にぶつけることにした。

「もし、そんなに有力な協力者が警察の内部にいるならば」

「はい?」

 黒崎は僕を見返した。

「その人間を通して司馬を救出するなり、大光輪を存続させるなり、そういった方法をとるのが自然なのではないでしょうか。もし、その相手をあなたもご存じなら、そちらと手を結ぶ方が合理的なのでは」

 僕の問いに黒崎は頷いた。

「僕もそうだと思います。ですが、僕はその男の人間性を知りませんし、信じてもいない。それに教祖とその男は二つの選択を結んでいたようなのです」

「ふたつ?」

「ええ」

「どういうことですか?」

「揉み消せる段階なら全力を尽くして揉み消す。それが最初の盟約です」

「そうでしょうね」

 警察と手を結ぶというのはそういうことだ。

「ですが、恐らくもう一つの選択肢が存在するのです」

「恐らく・・・?」

「そうです。その選択は司馬と相手以外は明示的には知らない。金沢も聞いていなかったでしょう。ただ金沢はその相手から今は聞いているかもしれない」

「あなたはそれを知っているのですか?なぜ?」

「その前に、司馬という人間を理解して戴く必要があります」

 黒崎は腕を組んだ。

「西尾さんは執という言葉をご存じですか?」

「しゅう・・・」

「執念、或いは執着の執です」

「ああ、はい」

「仏教の教えでは執を離れるのが悟りへの道とされています。つまり我執をなくす、煩悩を離れる、それによって世界がより見えてくる」

「なんとなく分かります」

「大光輪は様々な教えを取り込んでいますが、その大きな考えはヒンズー教と仏教です。本来、ヒンズー教と仏教は友好的な宗教ではありませんが、宗教の本質は似たところがあり、どちらもインドを起源とする宗教ですから。キリスト教とユダヤ教のような関係なのです」

「ええ」

「司馬は仏教を教えの中に取り込んでいますが、執の強い人間です。いや、はっきりいって宗教家というのは基本的に執の強い人間が殆どなのです。そうでなければ自分の信念を貫き通すことなどできない。寧ろ執を離れろ、と教えるのは自分をなくして我に従え、という意味合いが強いとさえいえます」

「なるほど、それはわからないでもないですね」

「本来なら、執を無くせという教えは正しいですし、実際執を離れた人格者というのはいますが、司馬はそういう人間ではありません。ですが、宗教家というのはそういうものです。でなければ人を惹き付けるという仕事は出来ない」

「・・・」

 その話がどう繋がっていくのか分からないまま、僕は頷いた。

「司馬と相手は、万が一司馬が官憲に捕まるようなことがあり、逃れられないという事態に陥ったとき、どうするか、ということを決めていたらしいのです」

「それは・・・金沢がそう言っていたのですか?」

「いえ、その話は私自身が司馬から聞いたのです。一度だけですが」

「あなた自身が?」

「ええ、巻山さんをどうするか、という話をした時のことです。私は巻き込まれたくなかったので、少し司馬と口論になったのですが・・・その時」

「その時?」

「司馬はつい口を滑らしたのでしょう。もし警察が教団を潰すようなことをしたら、警察に強烈な仕返しをする。それが成就しなければ相手は破滅だと。それこそが司馬の執の形なのです」

「・・・。どういうことでしょうか?」

「その中身までは分かりませんでした。ただ、その話をきいてすぐに私はあることをしました。金沢が使う電話に盗聴器を仕掛けたのです」

「・・・」

「いったいどんな約定がされているのか、もしかしたら金沢と相手が連絡するのではないか、そうすれば中身は分かる、そう思ったのです」

「分かったのですか?」

「全てではありません。ですが、相手の素性・・・といっても特定まで私にはできませんが、恐らく警察なら特定が出来るでしょう。所属している部門は分かりますし、声紋鑑定にも回せるでしょうから」

「その録音が存在する」

 僕の問いに黒崎は頷いた。

「うむ」

 僕はちらりと遠くを見やった。配置していた部下の一人がちらりと僕を見た。時間が掛りすぎている、と思っているのだろう。

「分かりました。かなり真実に近いところをあなたはご存じのようです。話は持ち帰らせてください」

「そうして戴けますか」

 黒崎は初めてほっとした声を出した。

「連絡は先だっての通りの電話番号で良いですか?」

 それは庁舎の電話だった。しかし万一のこともある。まさか公安の電話を盗聴する人間もいないだろうと考えるのは素人である。

「いや、これからはこの電話に掛けてください」 

僕は手帳を取り出すとそこに番号を書き留めた。この時代、携帯電話というのはまだアナログであり、意外と安全な通信手段だった。

「090・・・携帯電話ですね」

 黒崎は僕の顔を見た。

「そうです」

 警察庁でも一部の人間には携帯電話が支給されていて、僕もその対象者の一人であった。

「こちらからは・・・どこに連絡すれば良いのですか?」

 尋ねた僕に黒崎は少し考える素振りをすると、鞄からノートを取り出してそこに042から始まる数字を書き留めた。

「この番号にお願いします。昼間ならば電話に女性が出ますから、彼女に用件を伝えてください。こちらからかけ直すようにします。夜は恐らく留守番電話になりますが」

「連絡が夜ということはあまりないと思います。昼間ならば緊急の場合でも・・・大丈夫ですか」

「ええ、彼女からすぐに僕に伝わるようにしておきますから」

「了解しました。一両日中に電話します。例えご希望に添えない場合でも」

「分かりました。よろしくお願いします」

 そう言って去る素振りを見せた黒崎を今度は僕が制した。

「もう一つだけ、聞いて良いですか?」

「ええ」

 黒崎は頷いた。

「あなたがその情報を持っていることを、その相手の警察官は知っているのでしょうか?」

「いえ。それは大丈夫です」

 黒崎は答えた。

「そうですか。ですが万一のこともあり得る。用心してください」

「僕の身に何か危害が及ぶ可能性があるという事ですか?」

「相手が本当にあなたの事に気づいていないか、分かりませんからね。それに身内のことを悪く言うつもりはありませんが警察という組織は物理的な暴力を持ちうる機関だ。もしもの事があったら取り返しはつきません」

「わかりました。気をつけます」

 黒崎は殊勝しゅしょうな表情で頭を下げると、踵を返して去って行った。その姿を三人の公安がちらりと見やり、その内の二人が彼の後を追った。やり口は矛盾しているようだが・・・仕方あるまい。僕はため息をついた。


 日比谷公園から警察庁までは500メートルほど、歩いて10分も掛らない。その距離を20分ほどかけ、ゆっくりと頭の中で整理をつけると僕は鎌田さんの部屋へと赴いた。

 幸い、鎌田さんは部屋にいた。黒崎との話を10分ほどかけて話すと鎌田さんは椅子に腰掛けたまま、考えに沈んだ。

「その黒崎という男、信頼はできるのか」

 鎌田さんは僕に尋ねた。

 信頼、この場合の信頼というのは幾つかの意味がある。一つには軽率な行動を取るようなことがない、ということである。もし合意したとして黒崎がその話を誰かに漏らしたとしたら、非難は警察に集中する。

 官僚社会における政治的な取引、というのはこの国では極端に嫌われるのだ。制度的に司法取引という考えがない以上、この取引は恣意的アービトリーなものとならざるをえない。恣意的な取引は政治の世界では横行しているが、官僚まで恣意的になればこの国に信頼する芯がなくなると国民は考えている。実際には官僚の社会には恣意は存在しているが、それを何らかの制度や条文に結びつけ、恣意を隠すことこそが官僚に問われる能力でもある。

 信頼、この意味では黒崎に対して信頼度は決して低くなかった。恐らく彼は約束を守るだろう。だが、もう一つの信頼・・・彼が宗教団体の存在のためにこの密約を使って将来に渡り僕らを脅迫し続けるのではないか、という点に関して、彼の「信頼度」は決して高くはない。

 僕は正直にその考えを鎌田さんに伝えた。

「彼にとって、あの団体はそれほど守るに値するものなのか?」

 鎌田さんは首を傾げた。

「司馬を失って、なお存続するとかんがえているのだろうか?」

「宗教は殉教者を必要としていますからね」

「しかし、もし司馬を殉教者とする考えならば、その条件はのめないな」

「たしかに、そうですね」

「だが、そうでないならば・・・」

「そうでないならば?」

 鎌田さんの言葉を鸚鵡返おうむがえしのように口にした。黒崎がこの密約をネタに将来的に警察を揺さぶりかねないことを軽く考えることは出来ない、と正直なところ僕は考えていた。普通に考えれば鎌田さんが黒崎の話を飲む可能性は10%にも満たないだろう。ただ・・・不気味なのは司馬とその相手の間に存在するという密約だ。どんなことをしてでもその相手は突き止めなければならない。なぜなら・・・僕は知っているからだ。前の世界ではその約束が6年後に果たされてしまったことを。そして黒崎のいうことが真実である限り、柴田さんは大光輪との繋がりはない。なぜならその被害者は柴田さん自身・・・その時警察庁長官となった柴田さんが被害者だったからだ。

「ちょっと、時間をくれないか?」

 鎌田さんは呟いた。

「それは構いませんが・・・」

 もし呑むとしたら只でさえ時間がない。それに黒崎の条件を呑むには都や文化庁などの関連機関との調整が絶対的に必要になる。「時間」はそれほどなく、延ばすほど難しくなる。黒崎との関係を考えた時、ギリギリの交渉決裂は将来に亘って交渉の窓口を失うという禍根を残しかねない。

 今の段階で、黒崎との関係を失い、警察内部の宿痾しゅくあを放置するのは極めて危険なことになりかねない。そんな僕の考えを見透かしたかのように鎌田さんは薄く笑った。

「そんなに時間はかからない。明日中には結論を出す」

「そうですか、わかりました」

 僕は答えると、鎌田さんの部屋を後にした。









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