到着前夜

芳岡 海

一年夏

 イヤホンを外すと減速するエンジン音が聞こえた。さっきまでの高速道路のスピードが眠い体に残っていた。

 夜行バスは思ったよりも早く、新宿のバスターミナルにすべりこもうとしていた。道は空いていたし、そもそも名古屋と東京は近い。もう少しゆっくり着いてくれてもいいくらいだったと、列を作る乗客の背中を眺めながら悠輔は思う。あくびをして最後にバスを降りた。手際よく荷物を捌く運転手に、どうも、と声をかけると、思った以上に寝起きの声だった。


 ターミナルを出てしまうと、まだ人も車も少ない朝の街に放り出されたのが分かった。朝でも日差しは強い。建物も道路も白っぽく色あせて見えた。

 今日も暑くなるんだろうなと思う。早朝はまだ涼しい。こんな時間から活動したら前向きで意欲的な人生になりそうだったけど、そんな気分は今日の夜までもたぶん持たない。二日酔い気味の頭はまだ昨日を引きずっている。


 帰省中に高校の友人らとどうにか合わせた日程は悠輔の東京に戻る日で、スーツケースを引いて時間ぎりぎりまで飲んで、その足で夜行バスに乗った。他はみんな、あの後オールしただろう。乗り込んだバスが出発した瞬間、落下するように眠った。カラオケに行っても結局寝たと思う。


 道中、バスがサービスエリアに入る気配で目を覚ました。カーテンをめくると外が白んでいた。飲み物を買おうと狭い車内を抜けて降りると、呆れるほど広い駐車場に転がり出ていた。

 大型車ばかりのだだっ広い駐車場はいくら歩いてもなかなか進まず、すれ違う人は朝でも夜でもない顔をしていて、周りは明るいのか暗いのか分からなかった。まるで不穏な夢だ。名古屋でも東京でもないこの場所に何かわけありで立っている気がして、思わずわけを探した。適当に立ち寄った自販機にはあまり見ないメーカーの緑茶しかなくて、それも一興と思って買った。

 名古屋と東京は違う。名古屋の前は千葉に住んでいたけどそこに違いはなかった。中学校に入るタイミングで引っ越した時、それはただの移動だった。家でも転勤という言葉を聞いていた。生まれて初めて自分の身を置く場所を自分で選んだのが、東京だった。


 集まった友人七人の内、悠輔の他は三人が名古屋で大学生、二人が浪人、一人が関西に行った。

 いいよな東京、という話になれば、いや実家暮らしが最高だろ、ともなり、何にしたってこのメンバーだとサッカー部かバスケ部くらいの違いしかないように思われた。それよりも三年間の漫画の貸し借りや、試験期間中に行ったカラオケとか、ジャージ借りて汗臭かったとか、ここでしか伝わらない教師のモノマネで笑えることの方が重要なことに思えた。一を言えば十まで笑えた。おもしろさを共有しているというより、何をおもしろいと思うかを一緒に作ってきてしまったのだと思う。

 話のネタは尽きなかった。学部やゼミ、そこの男女比、新歓飲みでやらかしたとか、近くの女子大との合コンとか、サッカー部がモテるのは高校生までなんじゃないか、ギターが弾ければ持てるのか、一人暮らしの気楽さと金の無さ、稼げる怪しいバイト、進路が謎だったあいつは漁師やってるらしいよ、俺インターンやるつもり。

 不思議と思い出話にならなかったのは思い出すほどの時間が経っていないのかもしれないし、思い出すほどのこともないのかもしれない。入学から卒業までを共有したことは、互いの人生の中で少しずつ相対的に小さくなっていく。それ以外が占める割合がだんだん大きくなっていく。互いの変化を楽しんで受け入れられるのは、いつまでだろう。自分は名古屋の頃の自分にいつまで戻れるのだろう。戻れた方が、いいのだろうか。


 名古屋と東京は地続きだと思ったけど、高速道路の分岐のように決定的に違う方向へ伸びていた。千葉に戻れないと考えたことはなかった。

 強制的に朝だった。街自体が発光しているようにまぶしい。

 改札まで来ると駅は通勤ラッシュにそろそろ差し掛かるところで、今日が平日だったことを思い出す。電光掲示板がいつの間にか聞き馴染んでしまった行き先を表示する。

 せっかくこんな時間に外にいるのに何もしないのはもったいない、という気分がないでもなかった。といっても何もすることが浮かばないのは日ごろの行いのせいか。コーヒーでも飲んでモーニングをきめるか、バッティングセンターでも行くか、そう考えたところで部室が思い浮かんだ。そうだ、部室で思いっきりドラムを叩こう。思考回路が開通し始めた。


 悠輔にとって東京とは、新宿でも東京駅でも東京タワーでもなく大学、自分のいるサークルだった。こっちに来て四ヶ月のあいだ、特別東京らしいところに行ったこともない。別にいつでも行けるしなあ、と思うとわざわざ行こうともならなかった。一人暮らし生活も大学もちゃんと新鮮だったけど、ただ家と学校がこちらにスライドしてワンルームと大学になっただけともいえた。そこにサークルが加わった。

 あり得ない時間にあり得ない荷物を抱えていつもの路線に乗る。

 朝七時でも大学は開いていた。開いていたけど思わず、お邪魔します、と呟いてしまった。しんとして、いつもより空気の透明なキャンパスに、スーツケースをごろごろ引きずる音が響く。

 よその場所みたいだ。いつもは混みあう学食や購買、大講堂前の広場のざわめき、ベンチに座る学生の気配だけがして誰もいなかった。間違ったところに迷い込んでしまったようなのに、どこの建物も閉ざされていて迷い込む隙もなかった。大講堂を過ぎたところにある部室棟をとにかくまっすぐに目指した。


 それでも、部室棟の手前の喫煙所が見えると落ち着いた。いつもサークルの人間ばかりが占領していて、来れば最初に見知った顔を見つけるのは大抵この喫煙所だった。当然今日は誰の姿もない。遠いところから蝉の声だけが届く。

 部室が施錠されていることはないよな、と歩いていくうちに急に不安になる。いつもはそんなことはないけど長期休み中は違うかもしれない。いや、自分が実家に帰っていただけで練習自体は昨日もあったはずだ。それに中に入ったって高価な楽器なんてない。でもここまで来て入れなかったら、まるで何をしに来たのか分からないな。まあいいか、それならそれで。どうせ暇だし。スーツケースの音を響かせながら頭の中でそんなことをつらつら考えた。落ち着かないのはいつもと違う時間だからなのか、人がいないからなのか、久しぶりだからなのかもう分からない。


 前まで来て改めて部室棟を見渡す。

 壁に貼られた古い学祭のポスターやいつのか分からないライブのチラシが目に入る。その手前にはここが正規の置き場なのか微妙な、どこかからの借り物なのではというまま使われ続けるベンチと、たまに麻雀卓になる木製の机。並ぶドアの横に、石膏ボードにペンキでサークル名が書かれた適当な看板がかけられている。

 どれにも共通するのは日焼けと埃とヤニのにおい。

 同じドアが並んでいるから、最初の頃はちゃんと看板を確認してから開けていた。そのうち体の方が覚えたらしくて勝手に決まったドアを開けるようになった。日に焼けたその看板とドアと壁が記憶よりさらにボロく見えて、一週間でさらに風化が進んだのかと思って一人でちょっと笑った。

 古い部室棟。新歓祭で初めて来た時、「震度三で崩れそうな建物だな」と言ったら横にいた先輩に「四までは大丈夫だった実績があるよ」と言われて、全然説得力がなくて笑ってしまって、それが理由ではないけど気づけば入部していた。

 入ってからドラムを始めた。おもしろそうだったから。実際おもしろかったから夢中になった。ここに座り込んでスティックと練習用パッドで練習していると同期が話しかけてきたり、先輩がちょっと教えてくれたり、先輩だと思ってたやつが同期だったり、先輩なのに同学年の人がいたり、その人のドラムがめちゃくちゃ上手かったりした。そうしているうちにここに体が馴染んでいった。あとその最中に急に先輩に捕まってルールを教えられて座らされた麻雀でぼろ負けしたことも思い出した。あれ、なんかどうしようもないな。


 ただいま、というよりは、また来ちゃったなあ、という気分だった。ここは名古屋の頃の自分の知らない感情がある場所だった。

 ああそうか。東京の自分に戻してくれる何かが欲しかったのだと悠輔は思った。ふわふわと名古屋を引きずったまま一人で狭いワンルームに戻ったら、自分が誰かを忘れてしまいそうだった。部室でちょっと練習して、実家と地元に戻った頭をそれで切り替えよう、軽音サークルの大学生である今の自分に戻ろうと思った。


 ドアノブに手を伸ばそうとした瞬間、内側からドアが開いて心臓が飛び上がった。中から人が出てきた。

「小峰?」

 ドアを開けた相手が、悠輔に驚いた声をかけた。同期の駒井だった。

「どうしたのこんな時間に」

 驚いた顔をしながらも笑って、駒井が訊ねた。

 スーツケースの音が聞こえていたのだろう、駒井は相手が悠輔だったことに驚いているようだった。悠輔はまずここに人間がいることに驚いているのだ。久しぶり。あーなんだ駒井か。なんでこんな時間にいるの。こっちもそんなことを言いたかったけど、無人島で人間に出くわした漂流者のように言葉を忘れて何も出てこなかった。

「入れば。てか荷物多いね」

 駒井がドアを押えてくれる。彼の快活な声に帰省前までの同期たちの記憶がよみがえる。ああ、とも、おお、ともつかない返事をした。

「人いると思ってなかったからまじでびっくりした」

 部室に入るとようやく落ち着いて声が出た。こっちもだよ。と駒井が笑って答える。空調の効いた部屋で外が朝なりに暑かったことを感じた。荷物を置いて部屋を見渡す。使い込まれたアンプ、共用のギター、漫画、奥のドラムセット。もとは通常の小教室だけど防音対策で窓は埋められていて、日が入らないから地下室のような部屋だった。当たり前だけど記憶にあるのと何も変わらない。ここにいる自分も。

 本当にようやく戻ってきたと思った。ここにいるのが今の自分だと思った。

「昨日、飲み会でオールでさ」

 悠輔が椅子に落ち着いたのを見て駒井が言った。部室の漫画を読んでいたらしい駒井も、くつろぎの体勢に戻っている。手に持った文庫本サイズの漫画のページをぱらぱらとやる。

「地元の?」

「そう」

 駒井は実家暮らしだ。

「カラオケ出ると朝五時過ぎじゃん。で、今日は一限の枠で練習あるんだよね」

 一限ということは朝九時半からだ。もちろん誰も寝坊しなければの話だけど。

「寝る暇ないじゃん」

「そ。家帰ったとしても一時間くらいしか寝れないし、最悪、家か電車のどっちかで寝過ごすなって思ってさ」

 それで寝るのは潔く諦めてここに来て、時間を潰しているということか。

「それ、よくカラオケ行こうと思ったなあ」

 早くもバスの疲れが出てきた顔で悠輔は言った。でも、駒井なら行くだろうなとも想像できた。

 竹を割ったような性格、というのを彼を見ていると思う。裏表がないとかくよくよしないタイプ、というのもあるけど、竹がすぱんと割れる気持ちの良さを想像するのだ。カラオケ行きたいから行く。練習あるから寝ない。駒井はそんな思考回路に見える。行きたいけど練習あるからどうしようかな。寝過ごしたくないなあ。でもここで帰るのもなあ。なんて迷いは、駒井にはなさそうだった。彼の弾くベースもそういう性質が出ているような音で、ちょっとテンポが走りがちだけどはっきりした音で聴いてて気持ちいいし、ミスするとバレバレでおもしろいし、何より堂々とした音が良かった。同期としてもすぐに打ち解けた。たまにアホだと思う時もあるけど。

「俺も実家帰ってて、昨日飲み会だった」

 背もたれに体を傾けて悠輔も言った。バスで変な体勢で寝ていたから体がかちこちだった。首を回すとみしみしした。

「夜行バスで帰ってきたところなんだけど、暇だから来てみた」

「へえ。実家どこだっけ?」

 オール明けとは思えない、昼間の講義の合間のような声で駒井が聞く。

「なごや」

 言い終わらないうちにあくびが出た。単純に、元気なやつなんだろうな。大学生って感じだ。


 駒井は漫画の続きを読み始める。静かすぎる部室だった。ただ静かというより、半径一キロで人が消えてしまったみたいだ。普段騒がしい場所だから余計にそう感じる。いくら防音対策がされていても、部室棟の中で練習の音は響くし、ただでさえいくらでも人がいる場所だった。講義前に時間を潰す人、講義が終わったから来る人、用があって、あるいは暇だから。機材が空いていれば練習は好きにできるし、誰か捕まればちょっと練習付き合ってよという話にもなる。部室棟の一部屋も楽器が鳴っていない状況は、滅多に出くわすものではなかった。


 駒井が読む漫画の紙の擦れる音が、思い出したように時折届く。毎日来ていた場所と、毎日会っていた人間の顔は、一週間見ないくらいでは久しぶりという感じはしない。一週間前の日常に頭が一瞬で戻るのを感じる。昨日までの風景と人がそこに混じって、記憶が混在しているような気分になる。

 昨晩まで一緒にいた友人たちの声は、まだ悠輔の頭に残っている。誰が何を言っても笑っていたような気がする。部活も進路もバラバラだったけど、結局一番馬が合って一年の時からの付き合いだった。内容を忘れた会話の、声や口調、テンポだけが頭の中で再生される。再生されて部室に反響する。手垢の染み込んだアンプや、シンバルや、防音の壁に反響する。違う世界のものが混じり合う。混じり合って変な化学反応を起こしそう。その違いは刺激でもあり違和感でもあって、恐らく悠輔以外の人間も感じていたはずだった。

 それに気づかないように、気づかせないようにしていたと思う。名古屋の世界と東京の世界。他の友人たちにもそれぞれ今は違う世界があって、そこから自分単体を引き抜いて集まったのが昨日の飲み会だった。考えていたら眠くなった。

「ソファー占領していい?」 

 横にいる同期に一応聞く。部室の三人掛けのソファーはサークル員の憩いのスペースだけど、人のいない今なら占領して寝てもいいだろう。駒井は片手間で返事をしてから、「練習しに来たんじゃなかったの?」と笑って言った。呆れたような、でもそう言われて悪い気がしないのが駒井の口調だった。まあそうなんだけど、と悠輔も笑って返す。


 たぶん、この静けさは今だけだ。夏が終わる前に学祭の慌ただしさが迫ってくるらしいことは、悠輔たち一年も感じていた。春期ライブの前でさえ直前にはピリピリした空気がしていたのだから、学祭の前はきっとやばい。それで切羽詰まってゼロ限とか八限とかわけの分からない時間にまで練習を入れる人が出てくる。今ここは嵐の前の静けさだった。

 ソファーの肘置きに頭を乗せて寝転んだ。微妙にはみ出る足を反対側の肘置きに乗せると、固まった背骨が伸びるのを感じた。ソファーの柔らかさが体に染み込む。途端に帰るのが面倒くさくなる。


 しかし困ったもので、寝られると思うと眠れなくなった。バスではサービルエリアで起きて、それからどれくらい寝たんだろう。寝たり起きたりを繰り返したような気もするし、一瞬眠りこけてあとはずっと微睡んでいたような気もする。半端に寝て、半端に覚醒してしまった。まぶたは重いのに頭は起きているような、回らないまま空回りしているような、気づくと焦点の合わない目で天井の一点を見つめている。

 イヤホンをしようかと思ったけどバスの間ずっとしていたから今は何も聴きたい気分にならなかった。それより部室の静けさを感じていようと思ったけれども、今度は静けさが耳についた。

 動きたくもなく、何もしないでいるのも落ち着かなかった。

「ねえ腹減らない?」

 堪らず横にいる同期に声をかける。「うーん」と、心ここにあらずな返事しか返ってこない。仕方なく携帯をひらいてみるものの、やっぱり頭はさっぱり回っていない。

「これ読み終わったら」

 とツーテンポくらい遅れて駒井が返す。

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