第4章 未だ死神に魅入られし空

第20話 漆黒の絵

 僕は別館の原沢と別れ本館に向かう。すると、本館の一部屋から煌々こうこうと明かりが差している。空さんの部屋だ。体力も充分備わっていないときにまだ起きているのか。僕は苛立った。本館に入ると2階にある空さんの部屋に向かいノックをする。空さんが無表情にドアを開ける。


「なにやってんですかっ」


 僕は苛立ち気味に吐き捨てた。


「え」


 きょとんとした顔の空さんに僕はさらに苛立った。


「朝のお勤めまであと2時間しかないんですよ。寝てなきゃだめじゃないですか」


「ああ」


 やっと得心のいった顔をした空さん。しかし。


「眠れない」


 睡眠導入剤が効いてないのか。僕は苛立ちを押さえ空さんに説明をした。


「だったら布団に横になるだけでいいんです。身体の疲れを回復することができますから。そうしないと疲労が蓄積したまま働くことになります。疲労が溜まっていたり睡眠不足だったりすると、思わぬ事故やケガに繋がることだってあるんです。ちゃんと横になって身体を休めて下さい。そうしているうちにほんの少しだけでも眠れるものなんですから」


「でも……」


「でもなんですか」


「なんだか星のきれいなとってもいい夜だったから……」


 輝きを失った瞳で僕にそう言う空さんの表情に胸を鷲掴わしづかみにされ、僕は声を失った。その鷲掴わしづかみにされた胸がさらに締め付けられて痛む。そしてまた同じ思いに至った。どうしてこんなにもこの人の目は光を失ってしまったのだろうか、と。

 ふと空さんの手元を見るとチラシの裏のような紙に何かが書いてある。ちらっと見てみると漆黒のなかにそびえる一本の大樹たいじゅ。星々の瞬きすら黒く塗りつぶし覆いつくす圧倒的な闇、そしてひときわ燦然さんぜんと輝く一等星だった。驚くほど上手な絵だった。

 僕がこの絵に感嘆していることに気付いた空さんはさっと裏返す。漆黒の風景はスーパーの安売り広告になってしまった。こういう事を言っていいのか戸惑いつつ僕は空さんに訊いた。


「よろしかったら見せていただけませんか?」


「…………」


 空さんは僕を疑わしい眼でのぞき込んでいる。


「いや、その、あまりにも素晴らしくて、あの……胸を打たれたので」


「…………これ、私の絵だから……」


 空さんはうつむきながらおずおずと答えた。私の絵? 空さんの描いた絵に間違いはないのだから、「私の絵」なのは間違いないだろう。いや、きっとこれは空さんの心象風景を表しているという意味なのか。なるほど確かにあの一面真っ黒の絵は空さんの心の内面を表していると言ってもいい。なら、無理強いする訳にはいかない。


「分かりました。ちょっと残念ですけれど、そういうことならしかたないですね」


 すると空さんはしばし躊躇ちゅうちょしてからおずおずとチラシの裏面をひっくり返す。僕は驚いた。


「えっ、あのいいんですか? 大事な絵だったんじゃ……」


 空さんはそれには答えずそっと絵を僕の前に差し出す。巨樹きょじゅ、星々の中にひときわ力強くまたたく星、そしてそれを圧し潰さんばかりに覆い尽くすただひたすらの漆黒。この中に僕の星は無かった。六等星は暗闇に飲まれかき消されている。


「はは、ここに僕はいないようですね」


 つい口をついて出てしまった。しまったと思い空さんの方を見るとかすかに不思議そうな顔をしている。僕は慌てた。


「え、あっと、えー、六等星がないなって…… すいません変なこと言って」


 すると空さんは無表情に小さな星を天頂近くに描き足した。光り輝く巨星のそばだった。僕にそれを見せる。


「はい」


「あ、ありがとうございます」


「あっしまった!」


「?」


 僕は本来の目的を思い出した。急いで立ち上がる。


「とにかく1分でも早く寝て下さいっ」


 空さんは傍らに畳んだ薄くて冷たい布団を広げながら言った。


「うん、おやすみ。ひろ君優しいね」


 その言葉に僕の全身は電流が走ったが、取り乱さないよう努力した。ドアを閉めながら僕は作り笑顔で何気なく空さんに声をかける。


「今度はあの空色で絵をかいて下さいね。そっちの方がずっと空さんらしいですよ」


 空さんは息を呑んで目を丸くし僕を凝視ぎょうしする。何かまずいことを言ったのだろうか。


「………………」


 空さんは僕なんかいないかのように布団を整える。でも僕にはかすかにふるえていることがわかる。どうやら失言だったようだ。


「あ、す、すいません。ではまた」


「……」


 僕は大きな溜息を吐いて自室に戻る。空さんの「ひろ君優しいね」の言葉が頭の中を巡って消えない。布団に潜りこむと、夢の中で年上の女性に「ひろ君優しいね」と微笑みかけられる夢を見た。でもその女性の顔は逆光で見えない。朝のお勤めの1時間も前に目覚めた時、僕は少し泣いていた。



【次回】

第21話 崖の上、風に吹かれる空

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