2.貸した傘
彼が二番スクリーンから出てきた時には、もう雪が降り始めていた。道行く人々の足が一層速くなり、入口に立つ彼と窓口に座る和真が眺める外の光景は、曇天も相まって昔の白黒フィルムの中でせわしなく登場人物が動く
「まさか本当に降るとは……」
窓口で冬将軍の本気の攻撃に震える和真の目の前で、傘を忘れたと言っていた彼が眉尻を下げて困った表情をしている。笑うと幼く見えるが、こうしているとやはり大人の男性という感じがする。
「ここらへん毎年そんなに降らないみたいだから、油断しますよね。ちょっと待っててください」
和真は窓口の奥にある自分専用のカゴから紺色の置き傘を取り出して、彼に渡した。
「本当にいいのか?」
「本当に、もう一本あるんですよ」
「わかった、ありがとう。名前を……」
「僕は永田和真といいます」
「永田、和真くん……。俺は
和真がメモ用紙に漢字で名前を書くと、彼もボールペンを受け取って書いてくれた。男性らしくない丸みを帯びており、読みやすい字だ。
「そんなに急がなくてもいいですけど、それで一回余分に映画を観にきてくれるなら、売上が上がるのでうれしいです」
「はは、そうか。きみはいい従業員だな」
オーナーは映画技師の男性従業員と奥の映写室にいるため、ここは今、和真と前里二人だけだ。
「一人でも多くお客さんが来てくれないと……、今日は雪が降っちゃって、もうこれ以上見込めないし……」
「ああ、確かに、雪が降ると早く帰らなきゃって気分になるもんな」
「前里さんも早く帰らないといけないですね」
「うん。じゃ、また明日。和真くん、本当にありがとう」
和真のファーストネームを軽々と呼ぶと、前里は傘を差して人混みに消えていった。
「何だか不思議な雰囲気の人だなぁ」
名前を書き合ったメモ用紙を、和真はユニフォームジャケットのポケットに入れた。
◇◇
翌日、クリスマスイブの日曜日に、前里は傘を返しにきた。
「遅い時間になってごめん。いなかったらどうしようかと」
「ああ、もしいなかったらオーナーに渡しておいてくださいって言うの忘れてました。すみません」
「いやいや。とにかくありがとう。助かったよ」
きれいに折りたたまれた紺色の傘が、窓口に座っている和真の手に戻る。
「律儀ですね。僕、こんなにきれいにたためないな」
「ああ、俺がたたんだわけじゃなくて」
「そう、ですか」
彼は毎週土曜日か日曜日に必ず映画を観にくるため恋人などいないと思い込んでいたが、この様子だときっと彼女がたたんでくれたのだろうと、和真は推測する。ほんの少しだけ、心の底にどろりと沈んだ
「昨日たまたま用事があって来ていた妹がやってくれてね。もう、お兄ちゃん不器用なんだから! って、怒りながら」
「妹さんでしたか」
「雪積もらないかなーなんて、呑気に言ってたよ」
「その気持ちもわかるけど、僕は積もらなくてよかったと思ってます。おかげで、お客さんまあまあ来てくれたので」
恋人ではなく妹だったと知って自分の口から出てくる言葉が多くなるのがわかり、何故だろうと疑問が湧く。どちらかというと無口な方で、人とあまり馴れ合ったりしない自分がこの会話を楽しいと思っているからだろうかと当たりをつけてみるが、いまいちピンとこない。
「今日も仕事熱心だね」
「このバイト、気に入ってるんですよ」
前里が少し目を細めて笑う。二十代中盤あたりに見えるが年はいくつだろう、などと和真が考えていると「あのさ」と声が聞こえ、高い位置にある顔を見上げた。
「お礼に何かごちそうさせてくれないか? 今日これから、和真くんの仕事が終わったあとでもいいんだけど」
「えっ、いや、傘貸しただけでそんなの悪いです。……あれ? 今日、クリスマスイブじゃないですか。一緒に過ごす人いないんですか?」
「いないなぁ。一人暮らしだし、妹は彼氏と一緒にいるし」
「僕も一人暮らしで恋人もいないので空いてますけど……、でもやっぱり悪いですよ。僕が得しすぎちゃいます」
珍しく
退勤時刻の午後七時になり、和真がコートを着て外に出ると、もう前里が待っていた。待たせたことを謝り、並んで歩き始める。前里が時々訪れるという洋食店に行くと、予約で満席だと断られてしまった。
「この店、おいしいんだよ。食べてもらいたかったんだけど」
「クリスマスイブだから、きっと予約したお客さんばかりなんですね」
「ああ、そうか。そんなこと頭になかった。ごめん……格好悪いところを……」
そう言いながらぱらりと額にかかる前髪を気にする仕草が格好いい。きっと本人は気付いていないのだろうと考えていると、驚くべき言葉が和真の口をついて出た。
「……うち、来ます?」
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