第19話 夜奏曲 第二夜 約束
その家を、少し離れた場所から見つめる人影がある。
今、この場所にはその人影以外の誰の姿も見えなかったが、もしもその姿を目にした者がいたとしたら、恐怖で息を呑むに違いないかった。何故なら月の明かりに浮かび上がったその風貌をよく視れば、その人影は白い狐の面を被っていて、いよいよ怪しい雰囲気を醸し出していたからだ。
そう、まるで………人ならざる
じっと見つめていた視線を外して、黒木紅葉はその面をゆっくりと外した。
………何故だろうか?
月明かりが反射すると、まるでボルダーオパールのように落ち着いた輝きを放つ鳶色の瞳と艶やかな白い肌が彼女の魅力を更に際立出せて、妖艶さと哀愁さが混ざり合ったような不思議な感覚に陥る。
むっと咽返るような真夏の色濃い夜の中、彼女の周りだけは深い深い秋だった。青い光りに照らされた横顔と佇まいが、とても美しい。
もしも、その姿を目にした者がいたとしたならば、今度は違う意味で息を呑んだに違いなかった。何故なら流れる雲ですら、彼女と月との間を遮ろうとはしなかったのだから。
黒木紅葉は、少し強過ぎる月の明かりに目を細めながら、もう一度少し離れた土手の上の道から家の中の様子を注意深く観察した。
山崎桜の家は土手沿いに伸びる道の直ぐ傍にあり、二階造りの家は瓦屋根の落ち着きのある日本家屋だ。
家屋の北と南には田園が広がっていて、西側に並んでもう一軒民家がある。そして東側には、今、紅葉が立っている土手が続いていた。簡単に説明すれば、二軒並んだ民家の周りは田園で囲まれていて、東側に川が流れている立地だ。
幾つかある部屋の中で、明かりが点いているのは二部屋。その部屋から聞こえてくるのは男女が話し合う声と、それから女性がすすり泣く声……
紅葉は瞼を閉じて、更に家の中へと意識を集中させていった。家の中からは三人の気配がする。
一階の明かりが点いている部屋から、二人の男女が話し合う声。
二階の明かりが点いている部屋から、すすり泣いている女性の声と微かにベッドがきしむ音。
推測するに、山崎家は両親と桜の三人家族で、両親は一階にある居間で話し合いの最中の様だ。所々漏れ聞こえてくる二人の会話は、最近の娘の様子に変わったことがなかったかを、お互いに確認し合っている内容だ。
話し合う二人の声のトーンには刺々しさや荒々しさはまるで無く、それどころか落ち着いた声色で話し合う二人の会話には、お互いへの気遣いを窺い知ることが出来る。きっと日頃から、仲の良い夫婦なのだろう。
当の桜は、二階にある自室でベッドの上にいるようだ。
その部屋から聞こえてくるのは、鼻をすする音と微かにベッドがきしむ音。
その音が紅葉に教えてくれるのは、彼女が眠ってはいないということと、きっと今回の事件を引き起こしてしまった罪悪感に苦しんでいるのだろう。彼女が声を押し殺して、泣いていることだ。
疲れているのか三人共に呼吸が浅くなっているのが少し心配だが、今は落ち着いて冷静になれているようだった。念の為に他の部屋にも注意を向けてみたが特に変わった様子も無く、緊急に迫っている危険は感じない。
少し安心して、紅葉は周囲の様子に意識を移した。
右の耳からはススキの葉がこすれ合う優しい音と、川のせせらぐ音。昨日の台風の影響で増水しているのか、流れる水音は少し荒々しかった。左の耳からは稲の葉が風と楽しそうに遊んでいる音が聞えてくる。
それから左右関係なく、辺り狭しと元気な歌声を聴かせてくれるのは虫達の合奏だ。やはり周辺にも、特に危険が潜んでいる様子はなかった。
紅葉は瞼を開けて、辺りの様子に視線を向けた。
夜の帳はすっかり下りていて街灯も殆ど無かったが、今夜は満月で月明かりが周囲を明るく照らしてくれている。昨日の風雨が空を綺麗に洗ってくれたようで、特に今夜の月はいつもより輝きに満ちていた。
紅葉から見て右手側の土手の下には、川の水面がキラキラとせせらいでいる様子とススキの葉が風に優しく揺れている様子、それから綺麗に刈られた野原が広がっているのが見える。左手側には稲の葉が一面に広がるのどかな田園風景だ。昨日の台風の被害は無かったようで、稲の葉が気持ちよさそうに揺れている。
時折流れてくる風には川の瑞々しさが混じっていたし、野原の青い香りも田園の生き生きした息遣いも混じっていた。
紅葉が立っている土手の上の道は真っ直ぐに伸びる舗装された道だったが、道幅は広くはなく車が通れる道ではない。今は誰も歩いていなかったが、朝や夕方は良い散歩コースになりそうなのんびりとした道だった。
――――のどかな良い場所だなと、紅葉は思った。
田園側に下りて家屋の周りを一周して確認していると、隣の家の表札が目についた。表札には「下崎」と、ある。
「そういえば、二人は幼なじみだって言っていたわね。隣り同士なの……」
そんな独り言を呟いていると、制服のポケットに入れたスマホが震動した。画面を確認すると青葉からの着信だ。
「もしもし、そちらの様子はどう……?」
「はい、今、下崎健太を確認しました。姉さん、さっきの奴ほどじゃないけれど、こちらにも取り憑いていました。多分、さっきの奴と関係あると思います。同じ匂いがしたもの」
「二体の霊が、協力してるってこと?」
「………協力じゃないと思います。下崎に取り憑いていた奴からは恐怖の感情も感じました」
「なるほどね、服従関係ってことか。それじゃあ、こっちを何とかすれば問題は解決する訳ね」
「いえ、そんな簡単じゃないと思います。さっき、吹奏楽部の顧問の先生を見かけたんですが、その人にも取り憑いていました」
「………え?一体、何人に取り憑いているの?」
「分かりません。ただ、三人だけじゃない気がします」
「分かったわ。他に気付いた事はあった?」
「他には特にないです」
「そう、それでは念の為に、ユメさんの様子を確認してからこっちに向かって頂戴。如月君が傍にいるのだから、ユメさんにまで憑りついているってこと無いと思うけれど………」
「分かりました。病室に寄ってからそちらに向かいます」
妹からの通話が切れたのを確認すると、紅葉は暫し考え込んだ。
………吹奏楽部に関係している人達に、これだけの霊が憑りついているってことは、吹奏楽部全体に危機が迫っている可能性が高い――か。
チラリとスマホの画面を確認する。
「この時間なら、学校に戻る可能性が高い………わね」
紅葉は今の状況から、吹奏楽部全体が今回の件に関わっていると考えた。それなら吹奏楽部全員が集まる場所に潜入するのが、一番効率がいい。顧問の先生に協力してもらえれば、と考えたのだ。
…………除霊も兼ねて、顧問の先生に会ってみるか。
幸いこの場所から中学校までは、ほど近い距離だ。この土手道を行けば、10分も掛からないだろう。
しかし、この場所を離れるのは
今は大人しくしているが、山崎桜に憑りついている霊がいつ動き出すか分からなかったからだ。
少し考えてから、紅葉は土手の
リ――リリ―――♪
紅葉は膝をついて、唇から綺麗な音色を奏でた。コオロギの―――音色だ。
リ――リリ―――♪
暫く待っていると、返事をする様に草むらからコオロギの鳴き声が返ってくる。
その鳴き声に、紅葉もリ―リ―と返事を返した。
暫くそのやり取りを続けていると、草むらの中からひょっこりと一匹の雄のコオロギが顔を出した。コオロギはちょこちょこと紅葉の膝の前まで歩いてくると、モジモジと恥ずかしそうにお辞儀をしてくれた。
その様子があまりに可愛らしくって、思わず紅葉の顔に、ふふっと笑顔がこぼれた。
「こんばんは――コオロギさん。綺麗な音色を聴かせてくれて、ありがとう」
そう微笑みかけると、彼が恥ずかしそうに、リ―――♪っと一声鳴いた。
そっと手の平をコオロギの前に広げる。すると、彼がいそいそと登り始める。
紅葉は彼を驚かせない様にゆっくりと立ち上がると、手の平の上に乗った可愛いらしい彼に頼み事をした。
「ねぇ……コオロギさん。もしも私がいない間に、あの家の人達に何か変わった出来事が起こったら、私に教えて下さいませんか?」
頷く彼に、微笑む紅葉。
「それじゃあ、約束――ですよ?」
紅葉は自らの髪を一本、10センチ程の長さでぷつりと切るとコオロギの足に結び付けた。
「後で必ず戻ってきます。そうしたら、また私とセッションして頂けますか?」
彼を優しく草むらに戻してから、紅葉は笑顔で手を振った。
リ――リリ―――♪リ―――♪
草むらの彼は、律儀に返事を返してくれた。その可愛らしさに、また思わずクスリと笑みがこぼれる。
それから黒木紅葉は、チラリと山崎桜の家に視線を送り―――真っ暗な土手道を花ケ丘中学校に向かって走り始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます