二人の契約
俺は全面的に女が嫌いだ。それでも当たり障りのない友好関係なら築いていける。
だけどそれは薄氷の上に成り立つ危うい関係でしかない。そこに異性としての好意が重なった時、途端に崩壊を迎えてしまう脆弱なものなんだ。
俺はたぶん浅見先生のことは嫌いじゃない。先生の笑顔を見るのは好きだし、先生が巻き起こす突拍子のない行動も共に時間を過ごせば、やはり楽しい。
だけどもしも、先生の中に「先生」と「生徒」以上の気持ちがあるのなら。
「わたし、彰くんのことが好きなの」
今まで必死に積み重ねてきたそれらのものが、砂のように崩れていってしまうんだ。
「……俺、朗読部やめます」
抑揚のない声だった。胸の深い所に落ちた氷柱がパキパキと音を立てて感情を飲み込んでいく。夏だというのに吐く息すら冷たくて息が苦しい。覇気のない声がどこか遠くに聞こえ、まるで俺のものじゃないみたいだった。
先生は零れそうなほど目を丸くして俺を見つめる。
「なっ……どうして!?」
「そういう感情、迷惑でしかないんで」
口がまた勝手に言葉を紡ぐ。こう言われたらああ返す。自動認識AI装置みたいだ。だけど一言告げるたび、胸に歪みを抱く。言葉と心が合致していない違和感がどこかにあって、答えを見つけたいのに頭も感情も凍りついて働かない。
ただ過去のトラウマが先生と距離を取れと警告を促す。俺は先生に背を向けて歩き出した。
「待って! 迷惑はかけないから話を聞いて!」
すぐ後ろで先生が叫ぶ。聞いている方が泣いてしまいそうなほどに悲痛な声で。歩む足が重くなる。早く立ち去らないと。早く、早く。そう思うのに、鉛をつけられたみたいに足は動きを止めた。
俺は苦渋に顔を歪める。
先生、分かってる? 俺もさ、本当ならこんなこと言いたくなかったんだよ。いつも女を振る時は胸が痛んだりなんてしない。どうやって断るか、どうやって諦めてもらうか。そんなことばかり夢中で考えるんだ。
だけどな、今は違う。
胸が苦しいんだ。そんな悲しそうな先生の声を聞くのも、俺の言葉で傷つけてしまうのも嫌だ。そんな俺の気持ちが分かる? 先生にさよならを言うのが、こんなにつらいなんて想像もしなかったよ。
「ただ、わたしの気持ちを知って欲しかっただけなの。彰くんには何も求めないから!」
「……何も?」
ぽつりと、言葉がこぼれる。
何も求めない、とはなんだ。
また訳のわからないことを言う。
「何も! ただここに、あなたを好きな女がいるってことを知って欲しかったの! この服装も彰くんの気を引けたらなって……浅はかだったわ。ごめんなさい」
知って、どうしたらいい。誰か俺に答えをくれよ。突き放すことも受け入れることもできない愚かな俺に答えをくれ。
ゆっくりと振り返ると浅見先生は薄らと涙を溜めた瞳をじっと俺に向け、小さく唇を噛み締めてそこに立っていた。
このひとはいつもそうだ。何かに一生懸命でまわりが見えなくなる。好きだと言われた今、先生の行動を振り返ってみると思い当たる節が幾つかあった。
体育祭でのお弁当、ラストダンス、そしてバンジー。願掛けってもしかして、俺に告白することだったのか。
記憶の中に先生なりの精一杯がたくさん見つかる。だけどそれは決して嫌な思い出ではなく、むしろ心からの笑顔に溢れるもので。ほんのりと凍りついた心に温かみをもたらした。
女から与えられた思い出なんて泣きたくなるものしかないってのに、なぜ先生との思い出だけは温かく感じるんだろう。どこかに、そんな先生を失いたくないと思う自分がいる。きっと足を止めたのもそのせいだ。
だから――。
俺はため息を一つ下ろし、妥協案を提示することにした。
「俺のためだって言うなら、そんな格好するのはもうやめてください」
「ええ。二度としない」
「ボディタッチもしないで」
「わ、わかりました」
「弁当も絶対作らないで」
「はい……」
「俺、在学中に女と恋愛する気ないから」
「分かったわ」
「今度また告白してきたら退部する」
「絶対にしないわ! 誓います!」
(ホントかよ)
疑いの目で見つめると、先生は涙を溜めた顔をキッと上げた。
「絶対に約束は守るわ。だから彰くんも女の子とは付き合わないで!」
意味が分からない。なんで交換条件みたいになってんだ? 言われるまでもなく女を作る気なんてない。
「そんなことしませんよ」
「約束して!」
なんで誓いを立てなきゃいけないんだ。本当に意味が分からない。先生との約束があろうとなかろうと、俺は女なんざ作らない。妙な方向に流れ出した会話に眉を寄せつつ、俺は片手を挙げて誓いを立てた。
「はい」
「じゃあこれで契約は成立ね! 彰くんは彼女を作らない。わたしはあなたに言われたことを守る。それでいいわよね?」
「契約って……はいはい、それでいいですよ。さ、帰りますよ」
よく分からん契約を交わした俺たちは薄暗い林を抜けて宿に戻る。道すがら「最後に一つだけ聞いていいですか」と訊ねた俺に浅見先生が緊張した様子で頷いたので、何度考えても腑に落ちない疑問に答えてもらうことにした。
「いつから俺のこと好きだったんです?」
なんだか色々疲れちまってロクに頭もまわってなかったんだが。ぼんやりと口にした俺に浅見先生は急にボンッと顔を赤らめ、「は、初めて彰くんと放送室で二人きりになった時よ」と答えた。
「……あの時、俺。先生が嫌がることをしたはずなんですけど」
「何を言ってるのよ! 男らしくて最っ……あ、なんでもないわ」
先生は慌てて取り繕い、すんと顔を横に背けた。けど、若干気持ちの悪い含み笑いが隣から流れてくる。
(そーかそーか、言いたいことはよく分かった。あの時かあ。俺、選択肢間違えたんだなあ)
俺は満天の星を見上げ、苦笑をもらす。
果たしてあの選択は本当に間違いだったんだろうか。こんなことがあっても一緒に肩を並べられるなんて奇跡みたいに感じる。
何やら隣でごにょごにょ言いながら身を捩らせる浅見先生は一人で楽しそうだし。
俺の中に一歩足を踏み入れた先生はスッキリとした笑みを向け、最後に「ありがとう」と告げた。
いったい何に対してありがとうなのか。むしろ、そう言いたかったのは俺の方だ。
答えを急かさないでくれてありがとう。中途半端な対応なのに傍にいてくれてありがとう。いつか、きちんと答えを出すから。それまで待っていてくれますか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます