第23話
夏合宿の日。
時生は集合場所の学校の校門に来ていた。
一番最初だと思っていたのに、先に来ていたのは意外な人物だった。
「はよっす」
と、軽い調子で声をかけてきたのは、猪原先輩だ。
「はようございます。猪原先輩、早くないですか。まだ三十分前ですよ」
「おれは合宿、今日で終わりだから」
先輩は少しばつが悪そうな顔で額をかいた。
「塾の講習があるからさ」
そういえば、先輩は受験生なのだった。
時生に無理やり脅されるようにして入部したというのに、猪原先輩は意外にも律儀に部活に来ていた。
「おれ、医学部受けるんだ」
「えっ。猪原先輩、頭いいんですね」
「なんで意外そうなんだよ」
猪原先輩は時生の頭をこづいた。
「偏差値厳しいから地方の、僻地になりそうだけどな。明日からは医学部対策があるから抜けられないんだ」
「でも意外でした。猪原先輩は来ないんじゃないかと思った」
「うぉい! なんでだよ」
「だって、おれが動画のことで、その……脅して無理やりダンス部に入らせたから」
「バーカ。本気で脅してくるやつはお前みたいに罪悪感なんてもつかよ」
猪原先輩は鼻で笑った。
「部がいやだったらそもそも合宿なんて来ねーよ。いいんだ。一人でやるより誰かしらいたほうが気晴らしには向いてる」
猪原先輩は遠くを見ながら言った。眼鏡の奥の、いつも冷静で穏やかな目が朝の光を受けて柔らかく光っていた。
「おっ! 早いなー。おはよう!」
朝の空気と同じくらい爽やかに戸次先輩が登場した。そのあとから続々と人が集まり、最終的に集合時刻には全員が揃った。
戸次先輩に従って向かったセミナーハウスは夏季休暇中ということもあって誰もいなかった。セミナーハウスの裏にある木々にいるセミの声があわさって、ジイジイというよりワンワンと響いて聞こえる。新築したばかりで綺麗な室内のフローリングに深川が目を輝かせた。スケートができそうだと靴を脱いだ深川を、群くんが荷物を片付けるのが先だとやんわりと誘導した。
セミナーハウスは二階建てになっていて、東西の二か所に階段があった。一階は簡単な調理ができる食堂とトイレと和室。上は宿泊のための部屋が大小含めて7つあった。
今日明日はダンス部しか使用している人はいなかったので、部屋は自由に使えた。戸次先輩は食堂にみんなを集めて宣言した。
「今日から合宿だ。といっても前にスケジュールを伝えたように、基本的には舞踊場にいて踊りこむ。夏のコンクールに向けての曲だ。特に一年はこの合宿で苦手なところを克服できるように意識してくれ」
一年三人はハイと返事をした。
戸次先輩はみんなの顔を見ながら続けた。
「三年は振りはだいたい入ってるだろうから、細かいところは自分で修正。おれとマヨは一年に教えるのを中心に動く。猪原は今日だけの参加だから自分の振りを確認して、一年を見るのはそれからで大丈夫だ。とにかく夏は一瞬だ。三年もずっとはいられない。秋のコンクールのあとは一年だけになる。秋以降も今年度いっぱいはダンス部としての活動ができる。そのときに困らないように、おれたちに教えられることは全部教えたい。それに――これはおれの願いなんだけど――あと二人、どうにか春に新入生を勧誘してほしい。来年、お前たちが先輩になって教えられるように、切磋琢磨して技術をつけてほしい」
マヨ先輩が言った。
「遼一郎、そろそろ」
「あ! ああ、悪い、長くなったな。とにかく、しっかりやってくれ! マヨから何かあるか」
「熱中症にならないように水分補給は怠らないように」
「そうだな。給湯室と食堂の冷蔵庫は自由に使えるから、冷やしたいものは名前を書いてそこに入れてくれ。飯の時間は合宿のしおりに書いた通りだから、5分前行動すること。先生、あと何かありますか」
部屋の隅のいすに座っていた細見先生が立ち上がった。今日はジャージではなく茶色いTシャツを着ている。身長が高くて毛深いのでまるで熊のように見える。先生はゆっくり口を開いた。
「……風呂」
「あ! そうだった。風呂はセミナーハウスにはないから、飯終わったあとに近くの銭湯に行くからそのつもりでいてくれ」
戸次先輩が補足した。
「シャワーじゃだめなんですか?」
と、深川が手を挙げてきいた。確かに1階の廊下にシャワー室と書いてある部屋があった。
戸次先輩が答えた。
「一日踊ったあとの体はダウンをしても疲れてる。疲労を効率よくとるには湯舟につかったほうがいいだろう」
「なるほどぉ」
深川は頷いて、時生に耳打ちした。
「フルーツ牛乳売ってるかなあ……」
振付けは簡単ではなかった。
それはそうだ。コンテストに向けての勝負曲なのだから、戸次先輩やマヨ先輩のこれまでの思いがこもっている。練習はずいぶんハードで、夕方一区切りついた頃には時生はへとへとになっていた。それは深川も同じだったようで、
「もう、おれ、明日には足が五本くらいになってんじゃないかなあ」
と弱音を吐いた。
深川の後ろから、猪原先輩がにゅっと顔を出した。
「おう、頑張ったな」
「もうへろへろですよ~」
深川はバタンと後ろに背を倒した。
「これからみんなで銭湯だろ。遅れるから行くぞ」
「もう立てないです」
駄々っ子のような深川に、猪原先輩は小声でささやいた。
「冷蔵庫の中に冷えてるぞ」
「え、ま、まさかっ」
「おれからの餞別だ。これでも先に抜けるの、わりぃと思ってるんだよ。銭湯から戻ってきたら食えな」
本当にスイカを持ってきたのか……と、時生と群くんは顔を見合わせて苦笑いをした。
深川は現金なもので、起き上がって
「猪原先輩ぃ」
とすり寄っている。暑苦しいから離れろと猪原先輩に剥がされても、深川は上機嫌だった。
練習後、猪原先輩と校門の前で別れて、時生は残りの部員と連れ立って銭湯に行った。
例によってマヨ先輩の実家だ。
番台に座っているのは先輩のおじいちゃんらしい。
戸次先輩に続いて、みんなで
「こんばんは」
と声をかけると、粋に
「あいよっ」
と、景気の良い返事をしてくれた。
先輩たちに続いてぞろぞろとみんなで銭湯に入る。男子高校生が連れ立って入るので、狭苦しくならないかと思ったが、脱衣所は広々としていて清潔だった。
「すげー、カゴがたくさんあるっ」
「おい深川、はしゃぐのはいいけど走るなよ。転ぶぞ」
戸次先輩が教師のように注意する。まるで小学校の遠足を引率する担任の先生のようだ。
「はーい」
元気な声で返事をした深川は、やめろと言われたのに小走りで浴場へと走っていって、案の定、マットにひっかかって転んだ。
「うわあああ」
「おい邪魔だ、バカ。周りの人に迷惑だろ」
全裸のマヨ先輩は深川の尻を踏みつけながらそう言い、浴場への引き戸を開ける。
「あっちょっと待って」
と、あわてて立ち上がって追いかける深川を横目に、時生は服をたたんでかごにいれる。
騒々しい深川に、すれちがいであがってきたおじいさんが
「若ぇなあ」
と、昔を懐かしむように目を細めて見ていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます