第10話

 

 フィクスに仮初の婚約者にしてくれと頼んでから、一週間が経った日の早朝。

 王宮の敷地内の所々に植えられている木々からは、爽やかな風により、葉擦れの音が聞こえる。

 少しばかりひんやりとした気温は、毎朝欠かさず剣の稽古をしているセレーナの体を程よく冷やしてくれた。 


「ふぅ、スッキリした」


 稽古が終わり、キャロルから与えられた王宮の自室に戻ったセレーナは湯浴みを済ませると、騎士服に着替えた。


(時刻はまだ……午前六時)


 時計を確認したセレーナはソファに腰を下ろすと、テーブルに置いてあった手帳を開く。

 午後からのキャロルの護衛任務の他に、今日は午前中に大きな予定が入っているため、念のために確認したかったのだ。


「……午前九時から、第三王子宮の部屋に移動……。昨日両陛下が婚約のことは承諾してくださったから、婚約者である殿下の住まれている宮殿に私が暮らすことになるのはおかしな話ではないけれど、些か早すぎる気がするような」


 ──そう、実は昨日、セレーナはフィクスと共に、国王と妃に婚約をしたい旨を伝えたのだ。


 ティアライズ伯爵家が王家の信頼を得ていること、キャロルの暗殺をセレーナが未然に防いでいることなどから、婚約に対する反対の声は上がらず、手続きは滞りなく行われた。


(確か、同席していたキャロル様は、私と姉妹になれることに大変お喜びだったな)


 本当は仮初の婚約者になるだけで、フィクスと結婚をするわけではない。

 そのため、喜ぶキャロルに対しては罪悪感を抱いたものの、仮初の婚約者であることを打ち明けるわけにもいかなかった。


 というのも、両陛下に会う前に、この件に関しては他言無用にしようと、フィクスとセレーナの間で既に取り決められているからであった。


(もしも仮初であることが公になれば、縁談を煩わしいと思われている殿下の盾になれないから、当然か。……ああ、もしかしたら、こんなに早く私が第三王子宮に移動するのは、私が殿下の婚約者であることことを周りに知らしめるためなのかもしれない)


 フィクスは頭がキレるため、そう考え先に先にと根回しをしていた可能性は大いにあるだろう。


「うん、きっとそう」


 疑問が解消されたセレーナは、そっと手帳を閉じた。



 それから三時間後。

 セレーナは現在、第三王子宮の統括侍女に、新たな住まいとなる第三王子宮の案内をしてもらっていた。


「セレーナ様。一番奥にある扉が書庫に繋がるもので、こちらが第三王子殿下の執務室、そのお隣が殿下の私室で、またそのお隣がセレーナ様の私室となります」


 第三王子宮には、一週間前に訪れた時以外に来たことはなかったが、王女宮と作りはあまり変わらないため、比較的早く覚えられそうだ。


(それにしても、殿下の部屋と私の部屋は隣なんだ)


 いずれ結婚をする者同士なのだから、別におかしなことではないのだが、仮初の婚約者としては申し訳ない気分だ。

 通常、王子が使う部屋の隣はその配偶者にあてられたもので、日当たりが良いのはもちろん、部屋は大きく、調度品も最高級のものが使われるためである。


「では、セレーナ様の私室をご案内いたします」

「あ、はい」


 とはいえ、敢えて部屋を変えてほしいなどと伝えたら、怪しまれてしまうかもしれない。

 統括侍女が開いた扉の先にある豪華絢爛な部屋に目が眩みながらも、セレーナはできるだけ冷静な態度を崩すことはなかった。



 それからセレーナが軽く部屋を見て回ると、統括侍女から専属侍女を紹介された。


「セレーナ様、お初にお目にかかります。この度は第三王子殿下とのご婚約、おめでとうございます! セレーナ様の身の回りの世話をさせていただきます、リッチェルと申します……! よろしくお願いします!」


 歳頃は十代後半だろうか。リッチェルは黒髪を後頭部でひとまとめにし、侍女服を身に纏っている。

 顔つきにはあどけなさが残っていて、頬が赤い。


(彼女を見ていると、何故か既視感を覚える……。一体なんだろう)


 理由は分からなかったけれど、こちらをじっと見つめながら挨拶を述べたリッチェルに対して、セレーナも微笑みながら挨拶を返した。


「こちらころよろしくお願いしますね、リッチェル。それと、素敵な部屋を準備してくれてありがとう」

「きゃー! 格好良い!! 実は私……以前から騎士として働かれているセレーナ様のことを陰ながら応援しておりました! ですので、そんなセレーナ様に仕えることができて、本当に嬉しく存じます……! 」

「……!」


 なるほど、リッチェルを見て既視感を覚えたのは、彼女の様子がキャロルの侍女たちに似ていたかららしい。


「そう言っていただけて、大変光栄です」


 応援してもらえるのは素直に嬉しい。感謝を伝えれば、リッチェルは「幸せ……!」と言って、軟体動物と同じくらいに体をくねくねとさせた。凄技である。


 そんなリッチェルは、「失礼ですよ!」と統括侍女からお叱りを受けていた。

 だが、これから世話になるリッチェルに悪印象を持たれていないことに、セレーナは胸を撫で下ろした。


(既に城内には私と殿下が婚約したことは広まっている。……見目麗しい姫や公爵家の令嬢ではなく、伯爵家の私が殿下の婚約者になったことを不満に思うも者は少なからず居るだろうけれど、リッチェルは違うようで良かった)


 その後、統括侍女が退室し、リッチェルと二人きりになったセレーナは彼女と他愛もない話をした。

 互いの家族のことや、侍女の仕事、騎士の仕事についてなど。


 フィクスとの馴れ初めを聞かれた時は動揺したが、その話は適当に流しておいた。


「セレーナ、フィクスだ。入って良い?」


 すると、ノックの音の直後に聞こえたフィクスの声に、リッチェルは素早く扉へと向かう。


「悪いけど、セレーナと二人で話したいから、少し下がっててくれる?」

「はい! かしこまりました!」


 そうして、退室するリッチェルとほぼ同時に入室してきたフィクスを出迎えたセレーナは、彼をソファへと促した、のだけれど。


「セレーナ、座るのこっちね」

「はい?」


 フィクスの向かい側に座ろうと思っていたセレーナだったが、彼の行動に目を丸くした。

 ソファに腰を下ろしたフィクスが、自身の隣をポンポンと叩いたからである。


「……いえ、私は向かい側に座りますので」


 しかし、隣に座らなければならない必要性を感じられなかったセレーナは、フィクスの誘いを断ったのだけれど、彼はニッコリと微笑んで口を開いた。


「こういう時、婚約者なら隣に座って仲睦まじく話をしてもおかしくないと思うけどね」

「……! た、確かに」

「でしょ? だから早くおいで。あんまり遅いと、隣じゃなくて俺の膝の上に乗せるけど」 

「……っ、失礼いたします!」


 事前の取り決めで、この婚約が仮初であることを周りに隠すことは互いに同意していた。

 そのために、疑われないよう人前では仲睦まじい姿を見せることや、咄嗟にボロが出ないよう、普段から本当の婚約者同士のように接しようということも。


(とはいっても、膝の上に乗せるのはやり過ぎのはず……!)


 セレーナは急ぎフィクスの隣に腰を下ろすと、ドクドクと高鳴る鼓動を落ち着かせる。

 楽しそうにこちらを見つめるフィクスに若干の恥ずかしさを覚えながらも、セレーナは話し始めた。


「殿下、このような素敵な部屋をご用意くださり、まことにありがとうございます」

「ううん。むしろ急がせてごめんね。隣の部屋なら、セレーナとたくさん会えるかなと思ってさ。……あ、結婚したら寝室は一緒にしようね」

「は!?」

「はは。冗談だよ、冗談。セレーナは仮初の婚約者だもんね?」


(……相変わらず、殿下の冗談は心臓に悪い)


 しかし、こういうことにも慣れていかなければ。


 気を引き締めたセレーナに、フィクスはそう言えば、と話を切り出した。


「俺が今日ここに来たのは、セレーナに一つ報告があったからなんだけどさ」

「と、言いますと?」


 うーんと考える素振りを見せるセレーナに、フィクスはずいっと顔を近付けた。


「早速、明後日にセレーナのご家族に婚約の挨拶をしに行こうよって話」

「……明後日!?」

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