モルガン兄妹

(この男、一体誰なの?)


 突然現れた男に、ヴィクトリアは眉間に皺を作った。

 肩にかかる程度の灰色の髪。赤黒い瞳は、どことなく暗い印象を抱かせる。

 目の下にうっすら浮かぶ不健康そうな隈は、吸血鬼の一族の外見的特徴と一致する。


「花嫁様、どうか僕の後ろから動かないでください」


 ルゥはさっとヴィクトリアの前に立つと、小さな声でヴィクトリアに言った。


「……いい香りだ。美味そうな血の香りだ」


 男はくん、と鼻を鳴らすと、恍惚とした表情でヴィクトリアを見つめた。

 その時、男の瞳の中の赤い色が煙るように波打って、僅かに色が濃くなったように感じて、ヴィクトリアは思わず身構えた。

 まるで獲物を見つけた獣。

 その瞳は、こちらを値踏みするかのようだった。


「一体どこの家の者だ? こんな香り、今まで嗅いだことがない。側にいるだけで、血がたぎるようなこの感覚は……」


 男はヴィクトリアを見つめたまま、不気味な笑みを浮かべた。

 男から視線は逸らさぬまま、ヴィクトリアはゆるく拳を丸めた。


(どうしよう。この男程度なら今の私でもどうにかできそうだけど、ここで問題を起こしたらあとあと面倒になりそう)


「おい、女。一体誰がお前をここにつれてきた? まさかあの腑抜けが、お前をここにつれてきたわけではないだろう?」


(――『腑抜け』?)


 ヴィクトリアは、男の言葉に首を傾げた。


「なんせあの腑抜けはこの五〇〇年、碌に血を吸うこともできていないのだからな」


 嘲笑うかのような声だった。


(もしかしてこの人……ヴァージルさんのことを言っているの?)


 ヴィクトリアは混乱した。


 彼女には、前世からの経験と知識がある。一目見ただけでもすぐ分かるほど、ヴァージルと男の力の差は歴然だった。

 吸血鬼の一族において、黒髪と金色の瞳は何よりも尊ばれる。この二つの色を宿しさえしていれば、分家であろうと当主に迎えられるほど――それは、圧倒的な資質を持つ者の証なのだ。

 ヴァージルは金色の瞳ではないものの、長い黒髪は、彼の生来の素質の高さをヴィクトリアに感じさせるには十分だった。


(黒髪でないにしろ、銀でもない灰色――。五〇〇年前の私の知識から考えても、彼がヴァージルさんを非難できるような立場にあるとは思えないんだけれど……)


 吸血鬼族の髪の色は、まずは黒、次に銀、そして灰色が強い力を持つとされる。逆に言えばその他の色を持つ者は、この三色の色を持つ者と比べて、圧倒的に資質で劣る。


「この城に居ると言うことは、贄として連れてこられたのだろう。誰からの捧げ物か知らないが――喜べ。お前は、俺の贄の一人にしてやろう」


 男はそう言うと、いきなりヴィクトリアの方へと手を伸ばした。


「その方に触らないでくださいっ! それに御主人様は、腑抜けなどではありませんっ!」


 小さな体を大きく見せるために、ルゥは両手を開いて立つ。しかしその背に見える羽は閉じたまま、伸ばした手は震えているようにヴィクトリアには見えた。


「ルゥくん……」


「ハッ。何かと思えば、媚びへつらうしか出ない落ちこぼれのコウモリか。お前風情が、吸血鬼である俺に指図するな」


 男はそう言うと、ルゥの体を勢いよく横に殴った。

 小さな彼の体は、まるで綿の詰まった人形のように軽く宙を飛ぶ。


「ルゥくん!」


 ヴィクトリアは走った。

 ルゥの体が地面にたたきつけられる前に、素早くその体を抱きとめる。


「ルゥくん、ルゥくん大丈夫?! ……貴方、ルゥくんにいきなりなんてことをするの!?」


 潜入捜査中とはいえ、こんな悪行許しておけない。

 ヴィクトリアは男を睨み付けた。しかしそんな彼女を止めるかのように、ルゥはヴィクトリアの服の袖を引いて首を振った。


「だいじょうぶ……ぼくは、だいじょうぶですから……。だから、はなよめさまは、あのかたを刺激しないでください……」


 その姿が、何故か自分の大切な人たちの姿と重なる。

 かつてルーファスや、アルフェリアの命が危機にさらされたときのように、彼女の中で『何か』がひび割れる。


(――……許せない。こんな男)


 頭の奥で警鐘が鳴る。

 次に頭に浮かぶのは、雨音と歌うように嗤う声。

 おめでとう。

 おめでとう――。

 まるでヴィクトリアが、魔王としての力を使うことを嘲笑うかのような声が頭の中に響いて、ヴィクトリアは強く唇を噛んだ。

 

(――……駄目。駄目。力に飲まれては駄目! もうあの力には飲まれないって、そう決めたじゃない!)


 頭痛がする。吐き気がする。けれどそれを、気取られてはならない。敵に弱さなど見せてはならない。

 ヴィクトリアは真っ直ぐに、男を見上げて睨めつけた。


「何だその目は。まさか、この俺に歯向かうというのか? ……その血を生み出す器として、贄にして側に置いてやろうとも思ったが――いっそその血、今ここで全て抜いてやろうか」


(本当に、なんて男!)


 自分に従わない相手なら、殺してもいいとでも考えているんだろうか。

 ヴィクトリアは怒りに震えた。

 セレネの魔族が能力主義だと言うことは理解していたが、少なくとも『ヴィンセント』が魔王であったときは、他種族の女性を攫って贄にするなどという蛮行は、吸血貴族には許していなかったはずだ。


(この男の様子を見ると、私の他に被害者はまだいそうね)


 どう考えてもセレネの秩序を守るため、処罰を下すべき対象だ。


(……なるほど。これが、カーライルが正統な『魔王おう』を据えなかった結果というわけ)


 ヴィクトリアはその実害は、きっと吸血鬼族ここ以外でも起きているのだろうと思った。


 そもそもカーライルは昔から、『ヴィンセント』以外への執着と関心が皆無だっ

た。

 五〇〇年それが続いたとすれば、セレネが彼の関心外の範囲で、無法地帯になっていてもおかしくはない。

 この五〇〇年、カーライルが扉の管理をしてデュアルソレイユに魔族の侵攻を許さなかったのは事実。


(カーライル。デュアルソレイユの秩序は守ってくれたようだけど、セレネの内部はそうじゃなかったのね……)


 ある意味、『ヴィンセント』の願いを叶えてはくれているのだが――どうやら最低限の配慮しか彼には存在しなかったらしいと、改めてヴィクトリアは思った。

 遠くで今の状況を髪飾り越しに聞いているかもしれない男のことを思い、ヴィクトリアが内心頭を抱えていると、男が不機嫌そうな大声を上げた。


「おい。お前!! 俺の話を聞いているのか!?」


 男の長い爪が、ヴィクトリアの首元を掠めようとしたときだった。


「お兄様!」


 銀髪に金色の瞳の美しい少女が、ヴィクトリア達の元へと駆けてきた。


「ルイーズ」


 男は目線だけ少女に向けると、静かな声で少女を呼んだ。


「……お兄様。今一体、何をなさろうとしていたのです?」


 少女は、チラリとルゥとヴィクトリアを見て尋ねた。


「ああ――。こいつらが俺に刃向かうものだからな。罰として、血を抜いてしまおうかと思っていたところだ」


 少女は、男の返事を聞いて、男には見えないように小さく拳を握った。

 そして、まるで兄に甘える妹のようにヴィクトリアに向けられていた腕に抱きつくと、先ほどより少し高い声でこう言い放った。


「こんな下賤の者、お兄様が相手をなさる必要はありませんわ! ほら、貴方たち。さっさと私たちの前から去りなさい!」


 彼女の言葉は、まさに渡りに船だった。


「ルゥくん、ちょっとごめんね」

「わぁっ!」

 ヴィクトリアはルゥを抱えたまま勢いよく立ち上がると、逃げるようにその場を去った。


(ここは、一度引いておこう。それに全てが明るみになれば、吸血貴族の体制に介入できるかも知れない。そうすれば、魔王として何らかの処罰をこの男に与えることも出来るだろうし――)


 背を向けて逃げる間、ヴィクトリアの頭の中に、とある疑問が浮かんだ。


(でも、さっきの女の子。『ルイーズ』さん、っていうのかな。あの瞬間に駆けつけて、あんなことをするなんて――まるで私たちのこと、助けてくれたみたい)


 今の吸血鬼族がどのような考えで動いているか分からないにしろ、ルイーズが味方になってくれたなら、調査も楽に進むかもしれない。ヴィクトリアはそう考えた。


(なによりあの男の悪事は、妹とは言え見過ごせないはずだし――女同士なら、私の話も少しは聞いてくれるかも?)


 庭から走り続け、無事部屋に戻ったヴィクトリアは、その瞬間、ようやくずっと胸に抱えたままだった存在を思いだした。

 小さな子どもは、ヴィクトリアの手を必死に叩いていた。


(――しまった! ルゥくん抱えたままだった!)


「ぷはっ!」


 文字通り、小さな体を胸に押しつけられていたルゥは、漸く呼吸ができたのか顔を赤くしていた。


「ごめんね。すぐにあそこから離れたほうがいいように思ったから。嫌だったよね」

「い、いえっ! ぼ、ぼくはその、嫌、とか、ではないのですが……」


 ルゥはそう言うと、どこか恥ずかしそうに、ヴィクトリアから視線を逸らした。その羽根は少しだけパタついている。

 

(……うん。とりあえず、嫌ではなかったみたいで良かった)


 ヴィクトリアは胸をなでおろすと、次の作戦のためにルゥに二人のことを尋ねることにした。


「ね、ルゥくん。あの二人は誰なの?」


 その問いは、ヴィクトリアにとって何気ない質問のつもりだった。

 けれどヴィクトリアの問いに、ルゥはビクッと体を震わせると、緊張した面持ちで答えた。

 まるでずっと隠していたことを、初めて問い詰められた子どものように。


「あのお方は、ダン・モルガン。そして女性は、ルイーズ・モルガン」


 ルゥの声はいつもより小さく、そしてどこか暗かった。



「…………ご主人様の、『許婚』です」

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