吸血鬼の朝支度

「朝の挨拶に行こうと思うの」


 翌朝、いつもより早めに起きて準備をしたヴィクトリアは、自分を起こしに来たルゥに笑顔で言った。


「……だ、駄目です!」 


 ヴァージルは最近出歩くことの多いらしく、話をするなら朝しかないと思ったのだ。


「御主人様は朝が苦手なんです!」

「そうなの?」


 ヴィクトリアは少し不思議だった。

 なぜならそれは、とうの昔に吸血鬼族が克服したことだと思っていたからだ。


(朝が弱いって、まるで吸血鬼の始祖みたい)


「でも本当に花嫁になるんだったら、朝を一緒に過ごすことだってあるだろうし、ヴァージルさんには慣れて貰わないと」


 『花嫁』としての言葉に、ルゥはしばらく悩んだあと、コクリと頷いた。



「おはようございます。御主人様」


 吸血鬼の朝は、まずはコウモリ族がカーテンを開けることから始まる。


「ん……」

「お顔こちらで洗ってください」


 顔を洗う時人肌程度に温められた水を用意するのも、


「こちらで顔を拭いてください」


 顔を洗った後にタオルを渡すのも、吸血鬼族に仕えるコウモリ族の役目だ。

 その日もいつもどおり、朝の支度をしていたヴァージルは、顔を洗ってから異変に気づいて目を細めた。


「……うん?」


 じ、っと、ヴィクトリアの方を見て、少しだけ不機嫌そうに目を細める。


(ああ。ついにバレた)


 ヴィクトリアは、ヴァージルを見てそう考えた。

 朝のヴァージルはルゥ言う通り、いつもとは違って見えた。


(なんだろう。この、未亡人感……)

 いつもの彼が百戦錬磨の夜の王だとしたら、朝のヴァージルには、艶を感じさせる隙がある。


「……ルゥ」

「は、はい!」

「何故、彼女がここに居る?」

「その、花嫁様が、花嫁なら朝のお世話もするものだろう、と……」


 目があったので、とりあえず笑みを浮かべてみる。


「はあ……」


 ヴァージルはヴィクトリアのその笑みを見て、深いため息を吐いて前髪をかきあげた。


「……ヴィクトリア」


(私の名前、知ってたんだ)


 名前がルゥから伝わっていることは予測していたことだったが、ヴィクトリアはつい、その声にどきりとしてしまった。

 低い、吐息混じりの色気のある声。

 普段の彼と比べると、朝の色気は三割増しだ。


「簡単にで構わない。私の髪も結ってくれないか」

「わかりました」


(正直私、そこまで手を使うのは得意じゃないんだけど……)


 髪を結うのは、ルーファスが得意なのだ。

 朝の支度を手伝うと言ったものの、ヴィクトリアは自分が不器用なことは自覚していた。

 そもそも前世のことをバラす前、魔王城での罪滅ぼしの労働で、薪割りを任されていたのはそのためである。


 髪を結うために近寄ったヴィクトリアを、ヴァージルは腕を掴むと、自分の方へと引き寄せた。


「えっ?」

「……匂いがしてようだが、ようやく消えたようだな」


 髪を一房手にとって、ヴァージルは自分の鼻へと近づけた。ヴィクトリアは、突然の彼の行動に目を瞬かせた。


「あの……。私、何か変な匂いでもしていましたか?」

「……まあ、犬のような匂いが少し、な」

「!?」


 恐る恐る尋ねれば、恐ろしい答えが返ってきてヴィクトリアは思わずごくりとつばを飲み込んだ。


(まずい。このままじゃルーファスの存在がバレる!!!)


 正確に言えば彼は犬ではなく狼なのだが――。

 まだヴァージルが敵かどうか判断がついていない状況で、カーライルたちのことがバレることをヴィクトリアは避けたかった。

 

 だが彼が、それ以上ヴィクトリアに追求することはなかった。

 ヴァージルは満足したのか、ヴィクトリアから手をはなして無言で鏡台の前に座ると、腕組みをして目を瞑った。

 

(め……目に毒!)


 鏡越しに胸板が映る。

 ヴァージルは眠る時、ローブを着ているらしい。

 普段接する相手がきっちり服を着込む人間ばかりのヴィクトリアは、薄着の成人男性を見慣れていなかった。


(エイルとは、子どもの頃に一緒に水遊びした経験もあるけど……! あれは子供のことだし。と、とりあえず、早くこの作業は終わらせてしまおう!)

 

「どうした。何故固まっている?」

「な、なんでもないです!」


(どうしよう。自分の周りにいなかったタイプすぎて、どう接したらいいかわからない……!)


 カーライルたちはまだ、ヴィンセントだと認識したうえで接してくれる分、多少の配慮がある。

 だがヴァージルは、アプローチではなく、夫婦になることは決定事項という態度なのだ。


(私、ヴィンセント時代でさえ、魔族たちの起こす問題の対応に追われていて婚約者もいなかったし。そもそも昔は男装してたし……こういうときって、どんな表情かおをしてたらいいの!?)


 ヴィクトリアはできるだけ彼の姿を見ないようにして、ヴァージルの髪を結った。すると、彼は驚いたような声で、ヴィクトリアに尋ねた。


「……もしかして、君は自分で髪を結った経験が少ないのか?」

「えっ? ……あ、あれ!? ごめんなさいっ!」


 緊張して慌てたせいもあってか、いつも以上に髪はぐちゃぐちゃになっていた。

 今は正体を隠すため、『普通の人間の少女』を演じるべきなのに、なんという失態だ。


「花嫁様! 僕が代わりにやります!」


 ヴィクトリアが困っていると、すかさずルゥが手を上げた。

 

「ご、ごめんね。ルゥくん……」


 肩を落として謝れば、ルゥは優しく微笑んだ。


「いえ。元々これは僕が朝していることですから、花嫁様は気になさらないでください」

「ルゥくんは、本当に何でも上手だね」

「ありがとうございます……!」


 ヴィクトリアが褒めると、ルゥは羽根をパタパタさせて喜びを表現した。


(て、天使……!)


 羽根が白いこともあって、その姿はまさに天使と言っても過言ではないようにヴィクトリアは思った。


「花嫁様は、ここに座っていらしてください。僕は御主人様の朝食を準備してくるので」

「ま、待ってルゥくん!」


 しかしその天使は、気を利かせたのか、ヴィクトリアとヴァージルを部屋に残して颯爽と出ていってしまった。


(どうしよう。二人っきりにされてしまった!?)


 呼び止めようとした手を、ゆっくりと下ろす。

 ヴィクトリアは仕方なく、ヴァージルの近くのソファに腰掛けた。

 沈黙。

 ヴァージルは、あまり口数が多いタイプではないらしかった。

 そんな彼が最初に口にしたのは、ヴィクトリアの予想外の言葉だった。


「……ルゥは、随分君に懐いているようだな」


「え?」

「あの子の感情はわかりやすい」

「それは確かに」


 羽根の動きを思い出して、ヴィクトリアは思わず笑ってしまった。


(ルゥくんってほんと、言葉に出来ないくらい可愛いんだから……って。あれ? ヴァージルさん、私を見てる!?)


「――君は、そんなふうに笑うんだな」


 懐かしいものでも見るかのような目をして、ヴァージルは呟いた。

 ヴィクトリアはその視線が、妙に落ち着かなかった。

 まるで彼が、自分と『誰か』を比べているように思えて――。

 ヴィクトリアは膝の上で拳を握って、ヴァージルから視線をそらした。


「その、今日はすいませんでした。朝のお手伝いをしにきたのに、結局何もできなくて。私、昔からこういうのはあまり得意じゃなくて。不器用だし……。だから私は、貴方の『花嫁』にはなれないかなあ……なんて」


 あははと苦笑いすれば、ヴァージルはソファから立ち上がり、ヴィクトリアの手をとって、その甲に口づけた。


「ヴァ、ヴァージルさん!?」

「……別に、君がする必要はない」


 手のひらに当たる唇が、何故か無性にくすぐったい。


「――君は、私の花嫁になるのだから」


(わ、わ、わああああああっ!?)


「君は私のそばにいて、笑ってくれていたらそれでいい。花嫁として、血は吸わせてもらうことになるが――」


 ヴァージルはそういうと、ヴィクトリアの首筋に手を伸ばした。

 首筋に沿うように、彼が少しだけヴィクトリアの髪を宙に浮かせると、朝のまだ冷たい空気に、白い肌がさらされる。

 ヴィクトリアは、びくっと体をはねさせた。


「そう怯えるな。式までは吸わないと、言っただろう?」


 子どもをなだめるかのような、穏やかな声だった。

 ヴァージルはヴィクトリアの髪をもと戻すと、ソファに戻るのではなく、クローゼットの扉を開けた。


「服を着替える。気になるなら、後ろを向いていろ」

「は、はいっ!」


 ヴィクトリアは勢いよく、ヴァージルから背を向けた。衣擦れの音を聞かないように、ヴィクトリアはぎゅっと目を瞑った。


(や、やっぱり、この距離感って私まだよくわからない……! 結婚してないのに、こういうのは普通なの!?)


「あの……そういえば、その式って、いつするんですか?」

「一ヶ月後、一族を集めて行う。君は何も心配しなくていい」


(なるほど。それまでに、この問題をどうにかしなきゃってことね……)


 『魔王』としてのスイッチが入り、ヴィクトリアは冷静に考えた。

 とりあえず、カーライルには早めに伝えておくべきだろう。

 そんな事を考えていると、コンコンコンという扉を叩く音が聞こえた。


「御主人様、入ってもよろしいでしょうか?」

「ああ。もう着替えた」


 ヴァージルはカツカツと音を立て、扉の方に近づく。彼の服装は、ヴィクトリアが初めて彼と出会ったとと同じだった。

 人の目や、太陽を阻むような真っ黒なローブ。

 ルゥが持ってきた皿の上には、石榴の実が載っていた。

 

「御主人様、こちらを」


 ヴァージルはそれを手に取ると、ちらりと一度ヴィクトリアを見つめてから、布に包んでローブの下に隠した。


「ルゥ。今日も少し出かけてくる。その間、花嫁のそばにいるように」

「かしこまりました」

「あの……これからどこに行くんですか?」


 先程までの優しげな声音と違い、ヴィクトリアの問いに、ヴァージルは冷たく返した。


「……君には、関係のないことだ」

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